#2023.02.18 へのリンク

 

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=寸感・雑記=   




    コロナ予防対策についての共同宣言 (2021.01.28)


 中部大学の大門正幸教授(「参考資料 38」 に紹介)からメールをいただいて、東大名誉教授の矢作直樹さん等7名の医師、大学教授が「新型コロナ感染症予防対策についての共同宣言」を出していることを知りました。この宣言のなかでは、「新型コロナウイルスの脅威は、実際に多くの人が感じているより圧倒的に低く、私たちの生活様式が変更されなければならない程の死の脅威は存在しない」 と述べられています。そして、「これは無責任で荒唐無稽な仮説でもなければ、陰謀論に傾倒した空想でもなく、検証可能なデータが示す客観的事実」であると、付け加えられています。

 その「客観的事実」として、「宣言」が挙げているのは、つぎのようなデータです。

 新型コロナウイルスのPCR検査の実施件数は、4,050,466件(12/1現在)
 新型コロナウイルス感染症の感染者(PCR検査陽性者)148,694人のうち
  死亡者は2,139人
  入院治療等を要する者は21,056人
  退院又は療養解除となった者は125,470人

 インフルエンザの患者 毎年推定1,000万人のうち
  2019年度の感染者数728.5万人
  死亡者数3,325人

 そして、「宣言」はこのデータをこう解説しています。

 《新型コロナウイルスによる死亡者とされる人数は、インフルエンザより少なく、2/3程度。肺炎の1/44。交通事故死亡者数はコロナ死亡者の約2倍。転んで亡くなる方の人数の方が多いというのが現実です。
 インフルエンザに関して言えば、毎年2000万人がワクチンを接種するにもかかわらず、非常に発症が少なかった2019年でさえ、新型コロナウイルス感染症の約50倍の、728.5万人もの人々が感染し、新型コロナウイルス感染症の死亡者を超える3,325人の方々が亡くなっています。》

 「宣言」では、PCR検査による陽性者認定にも科学的根拠からその実効性に疑問を投げかけていますが、こういう専門的な根拠については、医学的知識のない一般の人々には、なかなかわかりにくい面もあります。しかし、マスクの着用が、「ウイルス感染予防・伝搬予防効果がないばかりか、健康を阻害するリスクの方が高い」 と、この「宣言」で指摘されているのには考えさせられました。私なども日常的にマスクを着用していますが、それは意味のないことなのでしょうか。ここでは、その根拠をこう述べています。

 《ウイルスの大きさ(0.1μm)、飛沫の大きさ(5μm~)に対し一般的なマスクの網目は遥かに大きく、ウイルスを止めることができない。大きなツバの塊を止めることはできるが、空気感染・接触感染・媒介物感染に対しては無意味である。マスクさえ着用していれば感染予防になるという大きな誤解は他の対策がおろそかになることにも繋がり、かえって危険である。
 マスクは空気中のゴミ、雑菌、ウイルス、口腔内からの細菌等を集積し溜め込むフィルターであり、国民が正しい着用方法を理解しないままで長期間に渡って同じマスクを着け続け、そのマスクを触れた手指で他への接触や食事をしている現状は感染拡大防止の観点から見ても逆効果である。
 人は、約21%の酸素濃度の空気を吸い込み(吸気)、肺で酸素を体内に取り込んで約15%の酸素濃度の空気を吐き出す(呼気)。通常、16%の酸素濃度を吸い始めると酸欠の自覚症状が現れ、10%以下で死の危険が生じる。
 マスク内部には自分の体内から放出された二酸化炭素や不要物質が溜まり、それをまた吸い込んでいるので慢性的な酸欠状態となり様々な不調や免疫力低下の原因となる。》

 この「宣言」に名前を連ねているのは、つぎの7名の方々です。

  武田邦彦 中部大学特任教授
  吉野敏明 歯科医・歯周病専門医、日本歯周病学会指導医、評議員、歯学博士
  大橋眞  徳島大学名誉教授、モンゴル国立医科大学客員教授、免疫生物学専門家
  矢作直樹 東京大学名誉教授、(前東京大学医学部附属病院救急部集中治療部部長)
  藤井聡  京都大学大学院工学研究科教授
  内海聡  Tokyo DD Clinic院長、NPO法人薬害研究センター理事長
  井上正康 大阪市立大学名誉教授(分子病態学)、 FMTクリニック院長

 日本政府ならびに各自治体、およびメディア関係の人々に対する提案として出されたこの共同宣言の全文は、http://www.werise.tokyo/declaration/ で読むことができます。 コロナウイルス感染拡大の実態を正しく理解するためにも、ご一読をお勧めしたいと思います。

 シルバー・バーチは、「取り越し苦労は最悪の敵で、精神を蝕む」と言っています。医学的にも、大きな不安や心配は、私たちの心身を蝕む猛毒の作用を及ぼすことが実証されているようです(「学びの栞」(B)9-a, 9-c など参照)。そのような負の感情は、私たち一人一人に備わっている肝心の自己治癒力や免疫力をも損ねてしまいかねません。世界中で感染者が1億人を超え、日本でも 2度目の緊急事態宣言が出されて3週間になる現在のコロナ禍のなかでは、私たちも、いわゆる「三蜜」を避け、逆効果にならぬようマスクも正しく着用して、手洗いを励行するなどの配慮は、もちろん必要でしょう。しかし、過度の不安や怖れでネガティブに畏縮してしまうことなく、心身の健康維持に気を配りながら、この難局をみんなで元気に乗り越えていきたいものだと思います。



  本年から、「霊訓原文」のスペースを利用して、「寸感・雑記」の項目を新しく加えることにしました。
     「寸感・短信」の続編ですが、「随想集」「身辺雑記」のスペースが既にいっぱいになっていますので、
     この項目に従来の「随想集」「身辺雑記」を含めて、「寸感・雑記」としました。





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    この世で生きていくということ
         ― 五木寛之 『大河の一滴』 を読んで考える ―    (2021.02.22)


 五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎文庫)という本がある。1998年4月に刊行されて以来、ロングセラーとなって読み継がれてきたエッセイ集である。この本は、第1ページの1行目に、いきなり、「私はこれまで二度、自殺を考えたことがある」と書き出されていて、「最初は中学二年生のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとのことだった」と続く。中学一年生の時に朝鮮の平壌で敗戦を迎え、38度線を越えて日本へ引き揚げるまでの凄惨な体験や、引き揚げ後の九州の田舎の生活では、履いていく靴がなくて下駄で通学し、雨の日は、裸足であったことなども、赤裸々に綴られている。

 五木さんは、昭和7年(1932年)生まれだから、今年で 89歳になる。私より 2歳若い。私も敗戦で無一文になった貧乏暮しは経験しているし、焼け跡の広がる大阪での苦しい飢餓状態も身に染みて体験している。田舎の親戚の家へ行って、白い米のご飯を半年ぶりに口にした時には、ゆっくりと噛んでいるうちに、ひとりでに涙がぽろぽろとこぼれ落ちたこともあった。五木さんは、後に、東京で大学生活を送るようになっても、「アルバイトの連続で、まともに学校へも行けなかった」と書いているが、私も同じである。新宿あたりの焼け跡整理の日雇い労働や、会社の臨時雇い、倉庫番、家庭教師などのアルバイトで明け暮れて、結局、最初の一年は大学も留年せざるを得なかった。私たちの年代の者は、満州事変から始まる日中戦争、太平洋戦争で、少年期を戦時色一色のなかで過ごし、敗戦後も戦争の惨禍の後遺症を長く引き摺って生きてきたといえる。

 しかし、その日本での生活も、1950年代に入ると、朝鮮戦争による特需以来の経済発展で、少しずつ庶民は貧困から抜け出していった。特に1954年(昭和29年)から1973年(昭和48年)までの約19年間は、「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生して、国民総生産(GNP)も、当時の西ドイツを抜き世界で第2位となった。それが、戦後初めてのマイナス成長を経験することになるのは、1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇した「オイルショック」によってである。高度経済成長時代は終焉を迎えて、その後は、1991年 2月のバブル崩壊に至るまでの安定成長期へと移行する。そして、ついこの間まで、「失われた20年」といわれる低成長期が続いた。

 このような社会の変遷のなかで、日本では、長い間、戦争を経験することもなく平和であった。生活水準も上がり、人々は飽食し、住居にはモノが溢れて、若者も女性も車を乗り回すことも当たり前のようになった。しかし、だからといって、私たちは幸せになったといえるのであろうか。表面的には、衣食住に不自由はなく、人々が豊かな生活を享受しているようにみえることがあっても、それとは裏腹に、社会のあちらこちらで深刻な心の貧しさが、さまざまに影を落としているようにも思える。五木さんが、この本を書いたのはもう20年以上も前のことだが、その頃の日本でも、決して、明るい平穏な日々が続いていたわけではない。

 その当時は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、政財界の混乱、バブル崩壊からいまだに立ち直れない経済、さらに神戸では中学生による小学生殺害事件と、世紀末を象徴するような出来事が続発していた。モノ優先の社会のもろさを図らずも露呈した阪神・淡路大震災のあと、経済的繁栄に抱いていた不信感が一気に噴出して、人々は内面的な豊かさ、いわば、心に目を向けるようになったと思われた。ところが「心の時代」という言葉がひろがりはじめた矢先に、こんどはオウム真理教による地下鉄サリン事件に遭遇する。心というものにも、人びとは不安を覚えるようになった。モノも頼りにならない。しかし心も危ない。ではどうすればいいのか、と人々は迷い始めた時代でもあった。

 モノが豊かになっても、心は豊かにならない。むしろ、モノが豊かになればなるほど、心の闇も深くなっていくことさえある現実を、私たちは思い知らされてきたのではないか。20年前には、20年前の闇があり、現在には現在の闇がある。社会の一部に暗い蔭を宿している事態は、今も変わらない。

 今の日本も、世界では経済大国といわれる豊かな社会であるには違いないが、庶民の多くに至るまでその恩恵を受けて、幸せに生きているわけではない。2011年 3月の東日本大震災の後遺症もまだ残っている。政治の上では、安倍政権による「特定秘密保護法」や「国家安全保障法」の数を頼んでの強引な成立、「モリ・カケ・サクラ」で暴かれた権力乱用と120回以上に及ぶ首相による嘘の国会答弁、元法相夫妻の参院選での買収容疑などが続いた。その一方では、各地で頻出する幼児への虐待、相模原市の障害者施設における現職員による 19人の殺害、36人を死亡せしめた京都アニメーション放火事件、或いは、72歳の父親が 35歳の長男を殺すなどの、子供の障害や病気に悩む親による殺人・心中事件などの悲惨な事件が後を絶たない。

 経済大国と言われている今の日本にも、その社会の片隅には依然として眼を背けたくなるような悲惨な状況が潜んでいるのである。その闇の深さを示す一つの指標が日本国内の自殺者の数字であろう。五木さんも、この本のなかで、「自殺の流行は世界的風潮ですが、問題は貧困と戦乱の巷にあるような地域よりも、物質的繁栄を享受し、福祉がゆきとどき、経済大国として世界をリードしている日本のような国で、年間 2万 3千人以上の自殺者が出ているという事実です」と、その現象の特異さについて述べている。

 厚生労働省の統計によると、自殺者数は、1983年及び1986年に25,000人を超えたものの、1991年には 21,084人まで減少し、その後 2万人台前半で推移していた。しかし、1998年に32,863人となり、さらに 2003年には、最多の 34,427人となった。その後、2010年以降は減少を続けており、2015年には 24,025人で、急増前の 1997年以来の水準となった。それからも減少傾向が続いていたが、昨年、2020年には、おそらく、新型コロナウイルスの感染拡大による経済悪化の影響などもあって、また上昇し、20,919人となっている。死因では、これは第7位で、8位の肝臓病より多い。2020年度の交通事故死者数 2,839人に較べると 7.4倍にもなる。コロナウイルスの感染が国内で初めて確認されたのは、昨年の 1月16日であったが、それ以来、一年間の死亡者は、6,300人ほどである。その間の自殺者の数はそれよりも 3倍以上も多い。

 とりわけ重大なのは、日本では、若い世代の自殺者が際立って多いということである。15歳~39歳の各年代の死因の第1位は「自殺」であるという。その下の、10~14歳においても、1位の「がん」に続く 2位となっている。先日の新聞でも、2020年に自殺した小中高校生の数が、コロナの影響もあって、前年比で約 4割増しの 479人であることが大きく報じられていた。(「朝日」2021.02.16)

 厚生労働省によると、こうした状況は国際的に見ても深刻であり、15~34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは先進国では日本だけであるらしい。同省の白書では、フランス・ドイツ・カナダ・米国・英国・イタリアの6か国のデータとの比較も掲載されているが、自殺の死亡率(人口10万人あたりの死亡者数)は、ドイツで 7.7、米国で 13.3、英国で 6.6などだが、日本は 17.8と格段に高い傾向にある。

 かつて、二度自殺を考えたことがあるという五木さんは、この著書で、日本の自殺者の数を、民間の戦争犠牲者の数と比較している。満州事変から、日中戦争、そして太平洋戦争へと続いた「十五年戦争」で亡くなった非戦闘員の数は、広島、長崎、沖縄戦、東京大空襲などによる死者などを含めて膨大な数になる。正確な人数は掴めていないが、ある統計では、672,000人となっているらしい。この数に対する自殺者の数を対比して、その深刻さを、彼はこう述べている。

 《機関銃の弾も飛んでこなければ空襲もないいまの日本で、年間 2万3千人以上も死者が出て、年間 10万人もの人が自殺を試みている。死者だけでも 30年たてば 70万人以上になる可能性がある。さらに死にたいと思いながらも、死への恐怖や苦痛に対する恐れ、残された者たちへの配慮などから自殺に踏み切れない人たちが、自殺する人たちの 10倍はいるといわれていますから、その裾野の広さは驚くべきものでしょう。これは見えない戦争というしかありません。》(前掲書、p.295)

 世のなかには、心が温まるような明るい話題も決して少なくはないから、このように、自殺などの暗い面ばかりを見てはいけないであろう。しかし、世間の常として、私たちの身のまわりには、気が滅入るような様々な出来事も否応なく耳目に入ってくる。前にも触れたが、戦前の悪名高い「総動員秘密保護法」を連想させる「特定秘密保護法」や戦後の平和を支えてきた憲法9条の法体系を抜本的に変質させてしまう「国家安全保障法」などの強引な成立、さらには、貧富の格差をますます広げているような経済のあり方への疑問や不信などから、環境破壊や自然災害の増加などに至るまで、日本の平和と安全のためには、決して安易に見過ごしてはならない世の中の流れや風潮もある。

 私には、子どもの頃のひとつの記憶がある。1941年12月8日に太平洋戦争が始まった時、私はまだ小学校 5年生であった。初めのうちはハワイの真珠湾軍港を奇襲して戦果を挙げたりしたが、早くも、翌年の 6月のミッドウェー海戦では、日本海軍は、投入した空母 4隻とその搭載機約 290機の全てを喪失するという大敗北を喫した。しかし東京の大本営は、それをひたすらに隠して、その後も、ありもしない「赫赫たる戦果」を発表し続けた。日本軍が撃沈、撃墜したはずの米空母や艦船、航空機の数字を、新聞に発表されたのを足していくと途方もない数になって、それらが嘘であることは子ども心にも感じられたし、一方では、米空軍による日本本土空襲が現実になってきていた。このままでは国が滅んでしまうのに、なぜ大人たちは黙っているのだろうと不思議に思ったことを覚えている。

 それから 70数年を経て、いまの私は、その「大人」になって久しい。その間に、軍国主義は民主主義になり、世の中は大きく変わったが、私たちは、戦前戦中とは異なる、また別の、さまざまな社会の不条理や退廃に晒されるようにもなった。このまま進んでいけば将来はどうなっていくのだろうと、次世代へのいささかの危惧を感じさせられることもしばしばである。

 例えば、日本の食糧自給率ひとつをとってみても、カナダの 264パーセント、アメリカの 130パーセント、フランスの 127パーセントなどに対して、先進国では最低の 38パーセントでしかない。自分で作るよりは外国から買う方が得だというわけで、ついこの間までは、農政は米作農家に減反を強いてきたりした。その一方で、世界では 9人に 1人が飢餓に苦しみ、5秒毎に 1人の子どもが餓死しているというのに、日本では、「大食い競争」なるものが横行し、まだ食べられるのに捨てられてしまう「食品ロス」が、年間で 612万トンにも上っている。(農林水産省2017年推計。これだけあれば、1億人に茶碗一杯ずつの食料を供与できるという。) これらも、醜悪な、目に余る現実である。敗戦後の食料不足で、日本人の1,000万人が餓死するといわれていた時に、米占領軍の配慮による小麦粉や雑穀の緊急輸入で辛うじて生き延びてきたことなどは、もうすっかり忘れ去られてしまったようにみえる。

 小さいことかもしれないが、むかし、社会評論家の大宅壮一が、テレビの普及で、「一億総白痴化する」と言ったことがある。「一億総白痴化」は、一時、流行語になった。いまは何といえばよいのであろう。ことばや風俗の乱れ、倫理観の衰頽は覆うべくもない。民放の一部にみられる騒々しいだけのドタバタ劇などは論外であるとしても、近頃はNHKにも、悪影響が懸念される見苦しい番組が現われるようになった。純粋無垢であるはずの 5歳の女の子の人形が、大人に向かって平気で名前を呼び捨てにし、「ボーと生きてんじゃねーよ!」と汚い罵声を浴びせている。そして、そんな醜悪な人形に、見識のない大人たちが、「5歳なのに・・・さすが・・・」などと、わざとらしい、歯がうくようなお世辞で応えたりする。(ついでながら、わざわざ "Don't sleep through life" という訳語が付け加えられているが、これではこのことばの汚く下品なののしりの口調は伝わらない。ほとんど誤訳に近い。) 視聴料を徴収している公共放送が、こんな愚劣な番組を日本中に流してもいいのかと、嫌悪感を禁じ得ないのである。このような頽廃的な状況が重なってくると、それならば、国民の一人として、なぜ声をあげようとしないのか、という自責の念に駆られることもないわけではない。この本の著者も、そんな感じが抑えられないようである。しかし彼は、こう書いている。

 《いま自分が生きている時代をどう見るかは、その人その人の立場による。現在の政治や、経済や、医療や、教育のことを考えると、私にはひどいことになっているなあ、と、もはやため息すら出ない感じがする。いちいち例をあげるまでもない。筆にするだけでも気が滅入ってきそうだ。
 しかし、そのことについて、私はこれまで大声で嘆いたり、激しい批判の文章を書いたことがほとんどない。せいぜいがぶつぶつ独り言のようにつぶやき、皮肉っぽい言葉を吐くくらいのものだった。たぶん、自分もその濁世の汚水のなかを泳いでいる一匹の雑魚ではないか、といううしろめたさが心の隅にわだかまっているからかもしれない。》 (同書、pp.51-52)

 考えてみると、世の中が「ひどいことになっている」のは、20年前やいまの社会だけではない。いつの世でも、何処でも、それはみられた。仏教では、この世を「五濁悪世」と観じ、かつては親鸞も、『歎異抄』の中で「地獄は一定すみかぞかし」といった。この世の栄枯盛衰では、『平家物語』の冒頭の句「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」などが思い出される。人生の儚さでは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる『方丈記』の、「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」ということばも、頭を掠める。世の中で生きていくということは、いずれにせよ、このような諸行無常のなかでの苦しみや悩みに身を晒すことである、といえるのかもしれない。五木さんは、それを、この本のなかで、つぎのように書いた。

 《人間の一生とは本来、苦しみの連続なのではあるまいか。憲法が基本的な国民の人権を保障してくれたとしても、それは個人の心の悩みや、「生老病死」の問題まで面倒をみてくれるわけではないだろう。
 人は生きていくなかで耐えがたい苦しみや、思いがけない不幸に見舞われることがしばしばあるものだ。それは避けようがない。憲法で幸福に暮らす権利と健康な生活をうたっているのに、なぜ? と腹を立てたところで仕方がない。まず、人生というものはおおむね苦しみの連続である、と、はっきりと覚悟すべきなのだ。》 (同書、p.18)

 五木さんは、悩み苦しむ人たちの気持ちに寄り添い、仏教や浄土思想などについても多くの優れた著作を世に出してきた。この本でも、自分が子どもの頃から苦労してきた体験を基にして、この世で生きていく心構えのようなものを懸命に読者に伝えようとしている。その誠意と善意は疑うべくもなく、敬意を表することにもやぶさかではないが、ただ、このような彼の文に接していると、この世では、夢も希望もなく、苦しみや悲しみが付き纏うだけのようにも思えて、ちょっと寂しい。「人生というものはおおむね苦しみの連続であると、はっきりと覚悟すべき」というのは、わからぬでもない。しかし、それだけでは私たちは救われないのである。未来に向かっての、もっとポジティブな展望は持てないものであろうか。

 ただ、そうはいっても、私自身がかつてそうであったように、一般の多くの人々の思考は、ここで行き詰まりになって、おそらくそれ以上は進まない。世の中はそういうものだと、諦めるしかないのであろう。あとは「神頼み」で、人々の無力感の前にはどうしようもない大きな壁が立ちはだかるだけである。その状況は、五木さんの場合も、この本で示されている限りでは、例外ではない。どうしたら、その壁を乗り越えられるか――。 ここで必要になってくるのが、霊的視野でのアプローチである。

 そもそも、私たちは何のためにこの世に生まれてきたのか。苦しむだけで、その先の展望が少しも開けないとするならば、生まれてくるそのこと自体が不幸そのものになってしまう。人はそんな生まれ方をするものであろうか。世間の常識では、この疑問に答えられない。さまざまな宗教で述べられている教説でも、納得できる答えを見つけ出すのは容易ではないであろう。おそらくそれは、私たちが自分の本質を見失っているからである。人は、本来、霊を伴った肉体ではなく、肉体を伴った霊である。だから、霊としての霊的視野で捉えるのでなければ、この世での生活の真実の姿も見えてこないのである。

 ここで、決定的に重要なのは、私たちはこの世だけを生きているのではない、という事実の認識であろう。私たちは、これまでも数多くの生と死を繰り返してきたし、これからも、何度も何度も、生まれ変わっては、新しい人生を生きていく。そのようないのちの在り方の真実を、私たちは、シルバー・バーチから、或いは、他の霊界の多くの指導霊たちから学んできた。厳然として存在する宇宙の摂理についても、何度も教えられてきた。そして、生とは何か、死んでから何処へ行くのかという究極の問題も、私たちなりに理解できるようになっている。私の場合はそれを、近著の『生と死の真実を求めて』(「参考資料」No.60)でも触れてきた。私個人の、極限の悲しみであった妻と子との死別も、霊界の大いなる力の導きであったことを知って、初めて無明の闇から脱け出すことができたことも、そのなかで述べた。

 私はこの小著を、一昨年の10月、自分の人生の締めくくりとして書いたのだが、その後、新型コロナ・ウイルスの感染拡大が起きて、私たちは「百年に一度」といわれる新たな「苦しみ」に直面するようになった。一年を経た現在も、気が滅入るようなニュースが巷に溢れ、東京、大阪、神奈川などを含む10都府県では、2度目の「緊急事態宣言」が、まだ解除されていない。しかし、おそらくこの状況も、「苦しみの連続」として捉えてはいけないのであろう。ネガティブな受け止め方をすれば、それだけで気力が削がれて、私たちが体内に持っている折角の免疫力も低下してしまう。

 この世の「苦しみ」とは、いわば、実態のない仮象である。その本質は、それぞれに克服していかねばならない一つの体験であり、霊的視野で捉えていけば、克服することによって未来への展望が拓けて、つぎの世の人生設計のための確かな礎石になる。私はいま、五木さんのいう「苦しみの連続」の「仮象」にそのまま引きずり込まれないためにも、改めて、つぎのような、シルバー・バーチの教えの一端を思い起こしている。

 先ず第一に、私たちは、自分で、親を選び、育っていく環境をも選んで、この世に生まれてきた。苦しむだけの人生であれば、私たちには自由意思が与えられているから、自分の理性で判断して、この時代のこの場所に生まれてくることは選択しなかったはずである。

 第二に、悩みや、苦しみにはそれぞれに意味がある。この世で体験するそれらは、すべて自分の霊的成長のための貴重な教材として、生まれる前に、自分が選んできたものである。だから、乗り越えられない悩みや苦しみはない。乗り越えられないものを自分で選ぶことはないからである。

 第三に、宇宙の摂理は完璧で、一人ひとりの人生に不公平は絶対にない。この世では、輪廻転生の永遠の生命の一こまを生きているが、そこでの体験で仮に「不公平」と思われることがあったとしても、それも、実は、霊的成長のために必要な教材の一つであるにすぎない。必要な教材としての体験だから、本当は、自分にとっては望ましく、いい体験なのである。つぎの人生では、その体験を活かして、また別の、必要な「いい体験」をすることになるであろう。

 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、この世の私たちには出来ないのだと、シルバー・バーチはいう(「学びの栞」(A)18-zzj)。この世への誕生の際には、肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に閉じ込められてしまうからである。(『霊訓 ⑴』p.38) 短い一瞬のこの世での体験は、永遠の全体像のなかではごく限られた一部でしかなく、「瞬間」からは「永遠」の実像は見通しえない。だから、この世での私たちの判断は歪み、しばしば、「楽しみや希望」を「苦しみや絶望」として捉えてしまう。本来、「平穏と喜び」であるものも、「波乱と悲しみ」に変形してしまうのであろう。霊的存在である真実の私たちの姿は、もともと、苦しみや悲しみとは無縁である。永遠の生命のなかで、一人の例外もなく、速い、遅い、の違いはあるかもしれないが、光を目指して歩んでいる神の子だからである。

 最後にもう一度、このコロナ禍の重圧のなかで本稿を読んでくださっている皆さんと共に確認しておきたい。私たちのこの世での生活は、決して、単なる「苦しみの連続」なのではない。激しさを増す競争社会のなかで、自分だけが一方的に、不公平、不利益を負わされているわけでもない。だから、他人を羨む何の理由もない。いま私たちがこうしてこの世に生きているのは、自分にふさわしい様々な喜怒哀楽の体験と学びを通して、自分自身の着実な霊的進歩を目指していくためである。そして、それはまた、私たちのつぎの生への、明るい、幸せの展望に繋がっていく希望の歩みの一こまであることを、改めて肝に銘じておきたいと思うのである。




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     ある日の新聞の記事から            (2021.03.25)


 先週の3月17日の朝日新聞の記事のなかから、目に留まった三つの文章のそれぞれの一部を抜き出してみたいと思います。

 まず今夏のオリンピック開催についてです。
 現在、コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言が、1都3県でやっと3月21日に解除されましたが、感染対策専門家の間では、まだ感染リバウンドの可能性については楽観できないでいるようです。オリンピックについても、海外客の入国は認めないことにして、聖火リレーも今日スタートの予定ですが、国内の観客だけで入場制限をして実施されることになるのでしょうか。
 このようなコロナ禍の状況のなかで、朝日新聞編集委員の駒野剛氏は、「終える至難に立ち向かうとき」と題して、つぎのように、開催を諦めることを説いています。(「多事奏論」欄)

 《いま、菅義偉首相の最大の使命はコロナ禍を終わらせることである。ワクチン接種を遅滞なく実施し、大規模な検査で感染者を見つけてハンデミックを封じ込め、経済が回らなくて苦境に立つ企業や家庭に救済の手をさしのべる。それだけで、内閣がいくつあっても足りない大仕事だ。
 菅首相は東京五輪をコロナ禍を克服した証しとして実現する、と予定通りの開催にこだわり続けている。終息を楽観し過ぎていないか。
 そんな有り様を「あぶはち取らず」という。感染力が強い変異ウイルスが広がる一方、海外から多くの選手団が日本に訪れ、国内の移動が活発になればウイルスは勢いを増すだろう。選手には気の毒だが、現下の情勢では、少なくとも今夏は五輪はできないと諦める時だ、と私は考える。
 多くの国民が求めるのは「日本の政治が機能している証しとしてのコロナ禍根絶」のはずだ。
 首相は終える至難に立ち向かうべきだ。》


 つぎは、「歴史街道」という欄で、専門誌の編集長のことばをまとめた「過去から学ぶ人生論」③ として、PHP研究所の大山耕介氏が、今年の一月に急逝された半藤一利さんのことを書いた一文です。半藤さんは1930年生まれで私と同年です。彼の『昭和史』は、同世代の一人として、身につまされるような思いで熟読した記憶があります。奥さんの末利子さんが、夏目漱石のお孫さんで、彼女のお姉さんにあたるマックレィン陽子さんとは、私は1950年代にオレゴン大学に留学していた頃から親しくしていました。(「寸感・短信」No.9に「マックレィン陽子さんの訃報に接して」 =2011.11.06= という小文を載せています。)
 PHPの大山耕介氏は、「これまで数多くの作家や研究者の方々に寄稿して頂きました。なかでも忘れられないお一人が、1月に急逝された『歴史探偵』半藤一利さんです」と述べたあと、こう続けています。

 《半藤さんにとっての最後の連載原稿は、弊誌に寄せて頂きました。昨年8月号から12月号までの連載で、タイトルは「『名言』で読み解く太平洋戦争」。
 「アジアは一つ」「武士道というは死ぬ事と見付けたり」「バスに乗り遅れるな」……。良くも悪くも戦時中の日本で流布したスローガンや軍人らの言葉を半藤さんが選び、その背景を解説しています。この連載企画は、ご自身の申し出によるものでした。
 半藤さんがある日、「あの戦争のことを自分の孫の世代に分かりやすく伝えたい。これが自分の最後の仕事」と言われ、手書きの原稿をご本人の実の孫に託されました。その孫は、弊社(PHP研究所)で編集の仕事に携わっています。この連載は5月、「戦争というもの」というタイトルで出版予定です。》


 三つ目の記事は、「声」欄の特集「失って得たもの」に載った読者の投稿の一部です。北海道在住で、いまは77歳になられている主婦の奥寺幸子さんが、「最高の笑顔を残し旅立った父」というタイトルで、彼女がまだ若かったころの日々を振り返り、「父はがんによる気管切開手術の後、頻繁にたんの吸引が必要になった。私は遠方から父のもとへ駆けつけ、母と交代で夜間も付き添った」と書き出しています。父君は、彼女に見守られながら、その一か月後、1989年6月に亡くなられたのだそうですが、その時のことを彼女はつぎのように書いています。

 《死後処置が終わり「お父さん、家に帰ろうね」と面布を外した。父は何と満面の笑みであった。ただただ驚き、両の手でまだ温かい父の頻に触れた。うれしくて私も笑った。
 苦痛から解放されたからなのか、人生を全うした満足からなのか、はたまた「良い人生を送りなさい」というエールなのか。枕経を上げてくれたお坊様や納棺師さんもこのような笑顔は初めて見るとおっしゃる。
 23歳で結婚し親元を遠く離れた私に与えられた父と娘の時間。最高の笑顔を残しての旅立ちは大切な宝物だ。私も人生の最終章に向け、父から学んだ潔さを胸に歩み続けたい。》




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   ある日の新聞の記事から (続)            (2021.04.05)


 前項に引き続き、まず、「朝日新聞」(2021.03.26)の「声」欄の投稿を取り上げます。福島県の岡本恒夫氏(75歳)が、「国民が自粛に協力するためには」と題して、コロナウイルスの感染拡大防止に国民が進んで協力しようとしない一つの要因について触れていました。「テレビでは外出する人の数が各所で増え気昧なこと、居酒屋などが閉店になっても路上で酒を飲む若者たちの姿を映している」 と述べたあと、こう続けています。

 《菅義偉首相が自粛を呼びかけても、協力する国民が減っているようだ。しかしここ数年の国のリーダーの行動、発言を見るとやむなしの感もある。森友・加計学園を巡る一連の対応や桜を見る会の疑惑に関して当時の安倍晋三首相が国会で100回以上うその答弁をしたことなどだ。
 さらに現在問題となっている総務省幹部への度重なる接待問題などへの、菅氏の官房長官として、また首相としての対応だ。それらはすべて、国民の真相を知りたいという望みに対し、隠蔽することはあっても、協力することはなかったと言える。それなのに自粛に協力するように言われても、戸惑うのではないか。
 今は外出を控えるのが正しいとは理解していても、国のリーダーが不祥事を隠蔽し続けるような正しくない姿勢を見せている限り、国民が素直に従うのは難しいのではないか。》

 この投稿が載ってからも、感染拡大は止まっていません。自粛疲れの反動とか、感染対策の緩みを指摘する医療専門家の意見なども紙面に見られますが、そんななかで、厚労省の官吏たち23人が3月24日の深夜まで銀座の飲食店で会食していた事実が大きく報道されました(「朝日」2021.03.31)。感染対策の徹底を呼びかけている役所の職員による行動に批判の声が高く、翌朝の「朝日」でも、さらに、「厚労省の大会食 誰も止めず」というタイトルで、これも大きく報じらていました。発覚後、省内では 2~3人が受話器にかかりきりになるほど、抗議の電話が鳴り続けている、ということです。これでは、やはり、政府からの自粛要請にも 「国民が素直に従うのは難しい」 といえそうです。


 つぎは、日本語の誤用についてです。同紙の「天声人語」(2021.03.25)が、あってはいけない言い間違いの例として、このような某社の例を挙げています。

 《某社で社員を集めた決起集会があり、営業本部長が演説した。不況だが力を合わせようと声を張り上げ 「みんな、一糸まとわぬ団結心で頑張ろう」。その後に登壇した社長がまたやった。諸君、もう後戻りはできないぞと言いつつ「すでに匙は投げられたのだ」。会社は大丈夫かとみな思ったに違いない。》

 これは、もちろん、「一糸乱れぬ」と「賽は投げられた」の言い間違いですが、このような言い間違いも、時と場合によっては、「日本語を知らない」だけではすまされない社会的に深刻な意味を孕んでいることがあります。この「天声人語」は、このあと、こう続けられています。

 《おとといの話であきれたのは、自民党の二階俊博幹事長の「他山の石」発言である。衆院議員河井克行被告が裁判で買収行為を問われたことについて、「党としても、こうしたことを他山の石として対応しなくてはならない」と言った。買収の舞台となった一昨年の参院選で、2人目の公認候補に河井案里氏を擁立したのは自民党本部。その案里氏側に計1億5千万円を提供したのも党本部である。党の後ろ盾なかりせば、あれだけの買収ができたのかどうか。恥ずべきは「自分の山」そのものだろう。(中略)
 そんな幹事長が長く権勢を保てるのは、一糸乱れぬ団結が自民党にあるからか。見ているこちらが匙を投げたくなる。》


 コロナウイルスの感染拡大で、気の滅入るような記事が多いなかで、こころ温まるつぎのような投稿もありました。「朝日新聞」(2021.03.25)の「声」欄の「四国遍路旅 犬に導かれ次の寺へ」です。福岡県の石田芳紀氏(79歳)が、約6年前に、夫婦で四国88か所の遍路旅を連続して歩かず、2年かけて達成した時の思い出話として、6キロの距離を犬に導かれた経験をこう綴っています。

 《徳島県のある民家の庭で、日向ぼっこをしていたおばあさんに道を聞いた。「23番札所には、そこにいる犬が道案内しますよ」と言う。冗談だろうと思っていると、寝そべっていた犬がむっくりと起き上がり前を歩き始めた。どんどん進み、坂道では頂上付近で我々がついてきているか確認するように待ち、交差点や三差路、交通量の多い所などをひたすら先導した。無事次のお寺に到着した。お寺にいた人からご褒美のえさをもらっていた。地図で見たら約6キロ道案内してくれていた。その人によると、巡礼者を案内し、タ方になると家に帰り、翌朝巡礼者を待っているという。遍路中は様々な「お接待」を受けたが、犬にお接待されたのは初めてだ。これだから旅は楽しい。やめられない。》




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 花の下にて春死なん             (2021.04.22)


 南北に長く、起伏に富んだ日本列島では、桜の開花の時期も一様ではないが、東京では、コロナ禍のなかでも、今年も 3月中旬から、桜は一斉に花開いて私たちを和ませてくれた。気持ちが滅入るようなニュースばかりが伝わってくる中で、青空を背景に美しく咲き誇る花の映像は心の癒しになったが、いつの間にか、そのような桜の季節も過ぎて行った。桜前線は北上して、いまは青森県弘前市で弘前公園の2,600本の ソメイヨシノが満開のようだが、わが家の近くでは、枝垂れ桜の大きな古木も、花びらはみんな消えて、豊かな緑の若葉に姿を変えている。

 桜の花は可憐で優しく、そして、はかない。毎年、その桜が満開の頃になると、きまって思い出していた歌がある。西行法師(1118~1190)のつぎの歌である。

    願わくは 花の下にて 春死なん
     その如月の望月のころ
 

 西行は、平安末期から保元・平治の乱を経て鎌倉幕府成立へと移り変わる激動の時代を生きた武士であり、僧侶、歌人でもあった。平氏棟梁の平清盛と同年の生まれである。如月(きさらぎ)とは 2月のことで、望月(もちづき)とは満月を意味する。これは、むかし使われていた陰暦では2月15日で、この2月15日はお釈迦様の亡くなった日でもあった。今の暦では3月の後半にあたる。西行が死んだのは、2月15日を一日すぎた2月16日であったといわれているから、彼は、この歌のように、いまの暦では3月の下旬、「花の下にて春死なん」の願望どおりに73歳の生涯を終えたことになる。

 西行の死は、一日違いとはいえ自らの願望の通りで見事であったが、しかし、「願わくは」と詠っているのだから、このような死ぬ日のことを予知していたとは考えにくい。これに対して、真言密教を確立した空海(774~835)の場合は、よく知られているように、正確に自分の死の日時を予告していた。

 空海は、亡くなる5日前に残した『御遺告』によれば、弟子たちに、「私が入滅しようと定めたのは、今年の3月21日の午前4時である。悲しんではいけない」と告げ、このことばの通り、835年(承和2年)3月21日の午前4時に、右脇を下にして亡くなったと伝えられている。享年62歳であった。空海の死は「入定」といい、現在も生きていて多くの人を助けているという信仰がある。

 空海は卓越した霊能力者であったから、自分の死期をも正確に予言できたのであろう。そして、近代では、同じように巨大な霊能力者であったエマニュエル・スウェデンボルグが、自分の死ぬ日を予言し、そして、予言通り、その日に死んでいる。

 スヴェデンボルグ(Emanuel Swedenborg、1688年1月29日~1772年3月29日)は、スウェーデン出身の貴族で、人類史上最高の霊能者といわれていただけではなく、物理、天文、生理、経済、哲学などの学問分野でも、18世紀最大の学者としての名声があった。彼の霊的体験に基づく大量の著述の多くは、いまも、ロンドンの大英博物館に保管されているという。その彼が書いた『スウェデンボルグの霊界著述』は、「私は20余年間にわたり肉体をこの世に置いたまま、霊となって人間死後の世界、霊の世界に出入りしてきた。いま、私は世を去るに当たり、これらの全てをありのままに記し世の人々に伝えよう・・・・」と、世間では理解できないような異様なことばで書き始められている。

 この『スウェデンボルグの霊界著述』は、抄訳されて、日本では、『私は霊界を見てきた』(今村光一訳、叢文社、1983年)として出版されている。その抄訳によると、冒頭のことばに続けて、スウェデンボルグは、こう述べている。

 《私がこれから記すのは、私自身が人間死後の世界、霊の世界で、この身をもって見聞きし、体験してきたことの全てである。
 私のような人類に稀な体験は、多くの人々が信じようとしないだろう。だが、私は今は、このことを深く詮議はすまい。なぜなら人々がこの手記を読まれれば、ここに記されたことの全てが真実であることを信ぜざるを得なくなることを私は絶対の確信をもって信じているからだ。そして人々は、さらに霊が永遠の存在であり、われわれのこの世の自然界とは別に霊界というもう一つの世界の存在することも知るに至るであろう。》 (p.6)

 そして、スウェデンボルグは、この本の最期に、「私自身の死の予告」として、「私は来年(1772年)3月29日に、この世を捨て霊界の霊になることが前々から決まっているので、このこともお知らせしておくことにする」と明記していた。スウェデンボルグは、この予告どおり、1772年3月29日に他界した。

 私たちは、一人ひとりが自分の死期を定めてこの世に生まれてくるといわれているが、誕生の際には、その死期についての意識も、鈍重な肉体の壁の奥深くに閉じ込められて知覚されることはない。ごく稀に、その壁を通り抜ける霊能力を持つ空海やスウェデンボルグのような超人だけが、潜在意識の奥に潜む生命の実相に迫ることが出来るのであろう。しかし、もし、人は誰でも自分の死期を認識できるのであれば、それは決して望ましいことではないかもしれない。かえって、困惑と恐怖を招き寄せるだけになることもあるだろう。冒頭の、西行の歌なども、人々はいわば「三人称の死」についての「願望」として捉えているから、他人の目の余裕をもって、その響きの美しさに共感できるのだと、いえなくもない。

 ところで、私は、一昨日の4月20日で、91歳になった。89歳の時に、自分の人生の締め括りのつもりで『生と死の真実を求めて』と題する小著を書いたが、私はまだ生き続けている。昨年4月の90歳の誕生日の頃は、生憎、コロナウイルスの感染拡大が始まったばかりで、その日の「寸感・短信」(No.194) では、内村鑑三のことばを引用しながらも、「心嬉しく逝かんのみ」などと言ってはおられないような心境である、と私は書いた。しかし、そのコロナウイルスの感染は、なお第4波の拡大を続けていて、いまも収束する気配はない。世間の長寿願望に引きずられているわけではないが、死ぬ時期としては、今なお、まことに望ましくない状況だといえそうである。

 内村鑑三は、「永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば・・・・」と述べていた。私も、妻と子の死を契機として、生と死や霊界のことなどをいろいろ教えられ、自分なりに学びを深めてきて、この世で生を終えても、「無知の異郷」に行くのではないことを知っている。これは私にとっては今生の大きな進歩で、大変有難いことと思っている。いまの私は、この世の地位や名誉、特に世俗的な財産などには何の魅力も感じなくなっているが、この霊的真理の一端を知り得たことだけは、何にも代えがたい貴重な「財産」になった。ただ、死ぬ時期を自分で認識する霊能力はないから、それは神様にお任せして、あとはこころ穏やかに、読書に親しみながら残された課題に取り組んでいるだけである。

 私は1930年に、まだ世界大恐慌の余波が日本でも色濃く残る中、大阪で生を受けたが、今度は東京の片隅で、自分の人生の最終段階でも、このようなコロナウイルスのパンデミックの惨禍を体験することになろうとは、全くの想定外であった。これまでに世界中での感染者は1億4073万人を超え、死亡者も 301万人以上に達している。しかも最近では、ウイルスの変異株で感染者も急増して1日70万人を超えているともいう。日本でも、感染者は少ない方とはいえ、総数で53万人を超え、死者も1万人に近づこうとしている。(「朝日」2021.04.19) 感染拡大が始まってから、すでに1年以上になり、現在は、世界中でワクチンの接種も進んでいるから、このコロナ禍もやがては収束に向かうと思われるが、それまでにあと何か月かかるのであろうか。

 遅ればせながら、日本もワクチン接種を始めているし、遅くとも、来年の春、また桜が美しく花開く頃には、コロナ禍も完全に過ぎ去っていてほしいものである。「三蜜」だとか「外出の自粛」などの束縛からも解放されて、人々が安心して花見を楽しめるようになっていることを期待したい。そして、できれば、それを自分の目でも確かめておきたい気もするが、しかし、91歳にもなって余喘を保っている身では、そのような期待を抱くことも分不相応なのかもしれない。そう思いながらも、いまは微かに、「願わくは 花の下にて 春死なん」という西行の歌の調べが、私の脳裏をかすめたりしている。




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     コロナ禍のなかで生きる             (2021.09.30)


 人類は、紀元前3,500年に、いまのイラクなどにあたるメソポタミアで数万人単位の人間が暮らす都市が成立して以来、いつの時代も、感染症を体験してきた。都市の存在には、常に、感染症が付き纏ってきたといってよい。古代エジプトのミイラにも、天然痘や結核など、感染症の痕跡が残されているし、1347年から51年にかけてのヨーロッパ、中東を中心とするペストは、ヨーロッパだけでも死亡者が2,500万人を超え、1918年のスペイン風邪では、世界で4,000万人以上が死亡するなど、さまざまな感染症の過酷な記録も残されている。

 近年では、2002年~2003年にアジアやカナダを中心に感染拡大した重症急性呼吸器症候群(SARS)や、2012年にアラビア半島の国々からヨーロッパ地域などにも拡大した中東呼吸器症候群(MERS)などの感染症が発生した。そして、それらが、今回の、2019年からの新型コロナウイルスのパンデミックに続いているのである。世界の感染者数は、米 ジョンズ・ホプキンス大学の発表で、9月28日時点では、2億3,233万5,077人、死者は 475万6,430人となっているが、まだ感染拡大は収まる気配がない。最大の感染国アメリカでは、感染者4,311万6,442人、死者は、69万0,426人にも達している。日本でも、NHKの調べで、9月28日現在、感染者が169万8,343人、死亡は、1万7,577人となっている。私たちはいま、まさに「百年に一度」といわれる災禍の真っ只中に置かれているのである。

 もう一年半以上も続いてきたコロナの感染は、日本では第5波が少し収まりかけて、第4回の緊急宣言が今月末でやっと終わろうとしている。しかし、第6波への感染拡大の懸念は根強く、このまま、コロナ禍が収束する気配はない。依然として、外出の自粛や「三蜜」を避けるための社会的イベントの規制等も行われ、長期にわたるコロナ禍は、旅行・宿泊業者や飲食業界などにも深刻な影響を与え続けている。そのために、数多くの庶民にも、失業、休業、減給などで、生活苦が重くのしかかってきた。新聞、テレビなどでも、気の滅入るようなニュースばかりが多く、人々は家に閉じこもり、委縮して、ただひたすらに重圧に耐えているようにみえる。

 私は、今年の4月で91歳になったが、自分の人生の最晩年で、このようなコロナ禍を経験するようになるとは予想もつかなかった。思いがけずに随分長生きしてしまったが、おそらく90歳くらいがこの世を去る潮時だろうという考えもあって、89歳の時に遺稿のつもりで、「生と死の真実を求めて」という一文を書いておいたのだが、その後、新型コロナのパンデミックに直面することになって、死ぬに死ねないような気持ちで今日に至っている。この世は、霊性向上のための「魂の学校」といわれるが、私はいろいろと、学ぶというより学ばされてきて、やっと「卒業」を迎えようとする矢先に、「こういうことも学んでおくように」と、留年を宣告されたような気持ちである。

 私たち昭和一桁生まれの人間は、日中戦争や太平洋戦争のなかでの窮乏生活を体験し、敗戦後の飢餓状況に苦しみ、その後は貧困に喘ぎながら、復興への道のりを歩み続けてきた。その後の人生も決してバラ色であったわけではない。私個人としても、有為転変の世の中で、いろいろな悲しみや嘆きがあった。なかでも、1983年9月1日の大韓機事件で妻と子を失ったことは、生きていくことが苦しいほどの大きな衝撃であった。そして、最晩年のいま、私はこの新型コロナ・ウイルスのパンデミックを身をもって体験しながら、91歳にもなって、残り少ない余命を生きている。シルバー・バーチも言っているように、自分に起こっていることは決して偶然ではなく、すべて必然で意味があるはずであるが、このような私の生涯の、その意味とは何であろうかと、考えさせられることもしばしばである。

 もし今の私が、かつてそうであったように、死後の生については何もわからず、人は死ねば終わりで灰になるだけだと思っているのであれば、私の一生は、多分、人一倍不幸な人生であったということになるかもしれない。現実には、私の後半生は、生きる希望をも失い、悲嘆と絶望の深い淵に沈みこんでいただけであったから、その苦しみに耐えて、いままで生き続けてこれたかどうかも疑わしい。しかし、無明の闇の中の長年の彷徨を経て、いまは、大変有難いことに、シルバー・バーチなどの高位霊の教えに接して、霊的真理に目覚めている。霊界の妻と子の「生存」も確認して、長年の間「文通」してきたし、いままで味わってきた苦難の意味も私なりに理解できるようになった。そして、近い将来、私が霊界へ赴く時がくれば、霊界の懐かしい家族たちとも再会が待っていることもよく知っている。結局、この世での私の生涯は、決して、不幸であったということにはならないであろう。

 仏教の「般若心経」は、「観自在菩薩が、深般若波羅密を行じたまいし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」というようなことばで始まっている。ただ、このような仏典を何度読んでも、私たち凡人は、観自在菩薩(観音さま)のように、すべては空であると達観して一切の苦を乗り越えた、というわけにはいかない。煩悩にまみれた私たちには、それは、はるか彼方の手の届かない境地である。しかし、そのような私たちでも、「生命は永遠であり、人は死なない」という単純明快な霊的真理によっては、少なくとも、「五濁悪世」といわれるこの世での苦の意味は、ポジティブに捉え直すことが出来るような気がする。仏教によっても救われることがなかった私にとっては、このスピリチュアリズムの霊的真理こそが、「無上甚深微妙の法」であった。

 私たちは、何度もこの世に生まれては死んでいくが、死んだらそれですべてが終わるのではない。人は生き続けて、生命は永遠である。不完全から完全を目指して、生まれては死に、死んではまた生まれて、魂の向上を目指していく。私の場合は、後半生で、たまたま優れた霊能者たちの助力によって、過去数千年の間の数十回に及ぶ輪廻転生の姿も示されてきたので、この「永遠の生命」は、自然に受け入れることが出来た(私の『天国からの手紙』には、編集者が作成してくれた「現家族の過去生における関係性」という付表に、私自身の多様な過去生の具体例が示されている)。永遠の尺度では、この世で90年を生きても、100年を超えても、それはほんの瞬間であるに過ぎないが、私は、しばしば、その永遠のなかで、何度も何度も、その具体例に示されているような「瞬間」を繰り返しながら、様々な人生体験を積み重ねてきた。

 今生では、私の長男は、「世界史の転換点」ともいわれた国際事件に母親と共に巻きこまれて21歳でこの世を終えた。私は当時、この21歳という若さにこだわって深く悲しんだが、永遠の尺度では、この21歳も、現在の私の91歳も、その差は限りなくゼロに等しく、一瞬であることには変わりはない。それに、無数の生まれ変わりの中では、誰でも、幼年期や青少年期の死を一再ならず経験してきているはずでもある。大切なのは、その一瞬の人生で、様々な体験を経て、どれだけ霊的な成長を遂げたかということであろう。若くして霊界へ旅立つということは、若くしてこの世の学びを終え、使命を果たしたということでもある。その観点から見ると、今生のこの「魂の学校」では、21歳で早々に学業を終えた優等生の長男に較べて、91歳の私は、鈍才で学びが遅く、いまはまた「留年」して、卒業が遅れているともいえそうである。

 もともと私は、200年ほど前のイギリスにおける前世に至るまで、霊的真理に接する機会が何度もありながら、社会的地位や名誉が傷つくことを恐れて、霊的な領域には近づこうとはしなかったらしい。そのような私が、素直に霊的真理を受け容れるようになるのには、この世で、よほど大きな試練が与えられなければならなかった。これは、「生と死の真実を求めて」にも書いているが、優れた霊能者のA師によって伝えられた次のような霊界通信によっても、そのことは直截に示されている。

 「・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このこと(大韓航空機事件で妻と長男が亡くなること)が必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました。」(2004年6月5日)

 この世の、瞬間的な尺度によってのみものを見るのであれば、永遠の世界の生と死の真実を把握することはできない。この世は「五濁悪世」でしかなく、喜怒哀楽の波に飲み込まれて、自分を見失うだけで、生きてきた意味も分からずに一生を終えてしまうことになりかねない。しかし、私たちは、本来が霊的存在である。霊を宿した肉体ではなく、肉体を伴った霊である。霊本来の永遠の立場で、自分を見つめ直すことによって、いままで見えていなかった自分の人生の悲しみや苦しみの実相も見えてくるようになる。シルバー・バーチも、「全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです」と言ったあと、こう続けている。「その人生で遭遇する困雄、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせるうえでの意味をもっているのです」。(『霊訓 (1)』p.71)

 つまり、この世で私たちが体験するあらゆる困難、障害、失敗などはすべて、実は、私たちの霊性向上のためのいわば「教材」である。不幸そのもののように思える悲嘆や苦悩、絶望なども決して例外ではなく、その教材と取り組むことによって学力が伸びていく。そして、これもシルバー・バーチが言っているように、私たちは「地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していた」。言い換えれば、それらの様々な教材を自ら選んで学ぶためにこの世に生まれてきた。だから、そのような困難、障害、失敗などの教材を体験するのは、偶然ではなく必然である。自分が選んでいるのだから、自分にとって必要な体験で、自分の霊性向上のためには、いいことであるに違いない。ただ、科学万能のこの物質社会にどっぷりと浸かっている間は、そのことに気がつくのが、あまり容易ではないだけである。シルバー・バーチは、そういう霊的真理を理解するためには、魂に受け入れる準備が必要で、そのためにこそ試練が与えられるのだと、次のように述べている。

 《苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。》 (『霊訓 (10)』 pp. 22-23)

 このようにみてくると、苦しみ悩むことの多い人生体験も、あまり悪いものではないようである。難しい教材に取り組んでいる者は称えられるべきであっても、決して惨めではないのと同じである。私たちはこの世への誕生の時に、潜在意識の奥深くに閉じ込めてしまっているが、もともと、この世の様々な体験は、前述のように、私たちが生まれる前に、自分で必要と思われるものとして選んできた。それなのに、それらの自ら選んだ体験で苦しみ悩むというのは、大きな心得違いといえるのかもしれない。この意味でも、この世で幸せに生きていくためには、やはり、刹那的な狭い常識に捉われることなく、霊的存在としての広い視野をもつことがどうしても必要であろう。

 たとえば、金銭的に貧しいことが、必ずしも不幸を意味しないし、何の不自由もない平穏無事の生活の継続が幸福のための必須の要件なのでもない。聖書には、よく知られているように、「富める青年」という話がある。ある資産家の青年がイエスのところへやってきて、人としてのいましめを守ることのほかに、どんなよいことをしたらいいでしょうか、と訊いた。イエスは、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と、答えた。そのことばに従えそうもない青年は、悲しんで立ち去っていった。イエスはまわりの弟子たちに、「富んでいる者が天国に入るのは、難しいものである」と言った。さらに繰り返して、「富者が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」と続けた。(「マタイ」19章16-24) 金銭的な豊かさだけではなく、何の不自由もない無事平穏な生涯も、決して、本当の幸せではない。それは、何の教材も与えられずに学校も休んでいるようなもので、折角この世に生まれてきても、心を磨いて進歩発展することは期待できないからである。私が親しくしていた前掲の霊能者A師は、そのような「無事平穏」だけの人がいるとすれば、それは「神様にも見放された哀れな人だ」と笑いながら言ったこともあった。

 私自身は、ちょっと大袈裟にいえば「波乱万丈」ともいえるような苦難の体験を経てきて、そして最晩年のいまは、日本の片隅でコロナ・ウイルスのパンデミックを体験している。91歳にもなって余喘を保っているが、それは、冒頭でも述べたように、この世の「魂の学校」で卒業適齢期を過ぎていても卒業できず、いわば、「留年」を続けているような形である。しかし、この世の悲しみや苦しみにも、それぞれにポジティブな意味があるのであれば、予想外であった私のこの「留年」にも、それなりの意味があるはずである。留年していても、与えられた課題が無くなったわけではなく、学ばなければならぬことは多い。コロナ禍のなかで、人より遅れて歩んでいることに劣等感を持つことなく、いまは、無事「卒業」できる日の来ることに希望を繋いで、黄昏の道を何とか前向きに、歩み続けていきたいと思っている。




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     死の恐ろしさについて考える
       ― 新聞「声」欄への投書をめぐって ―              (2022.02.28)


 「朝日新聞」の「声」欄(2022.02.07)に、「死を思うことは恐ろしいけれど」という投書が掲載されていた。中学生の 吉川紗掛さん(大阪府、13歳)が、この投書にこう書いている。

 《死んだら、どうなるんだろう。私はよく、そんなことを考える。
 天国や地獄という死後の世界が本当にあって、そこで存在し続けることができるのなら、そう願いたい。けれども、死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら・・・・・・。いま、これを書きながらも私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。そして、「まだ私は若いから」と思考を中断するのだ。
 他の人はどうだろう。私が敏感なのかと思ったが、まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。この恐怖からどうやって逃げたらいいんだろう。大人になったら、怖くなくなるのだろうか。
 死は、この世で命を授けられた生き物すべての宿命なのだと、改めて思う。生きるということは、死へ近づいていくこと。恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使い切りたいとも思う。死ぬ時、私は十分頑張ったと思えるような人生にしたい。そのために、私はどうしたらいい? 答えを見つけるべく、いまこの時を生きていこうと思う。》

 この投書のように、「死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら」と考えて、「底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われ」るのは、この中学生だけではないであろう。まわりの友人たちも、「恐ろしくて考えるのをやめる」といっているのも、頷けるような気がする。「大人になったら、怖くなくなるのだろうか」と、疑問も投げかけられているが、この中学生も言っているように、「生きるということは、死へ近づいていくこと」だから、怖くなくなるようにはならず、むしろ、大人になれば、余計に死の恐怖を身近に感ずるようになるのかもしれない。

 この投書に対して、たまたま、それを読んだ一人の大人の反応も、同じ「声」欄(2022.02.21)に、「死をめぐる思索に触れてみて」というタイトルで載せられていた。富山県在住の「無職」池田典恵さん(50歳)の投書である。そこには、こう書かれている。

 《13歳の吉川結芽さんの投稿「死を思うことは恐ろしいけれど」(7日)を読みました。大人と言われる年齢の私も、あなたと同じくらい死を恐れています。初めて死を意識したのは、野口英世の伝記を読んだ10歳くらいの時。黄熱病で亡くなるくだりで、「人は必ず死ぬのだ」と底知れぬ恐怖を覚えました。
 「死んだらどうなるか」は、人間にとって大きな謎のひとつです。古今東西、多くの人々が死について考え、論じあってきました。その成果のひとつが宗教です。私個人はピンと来るものがないので宗教の信者ではありませんが、宗教が説くあの世や来世などを信じて安心を得るのもひとつの方法でしょう。
 あなたには、死について語り合えるお友達がいるのですね。それは、とても良いことだと思います。死をタブー視し、話すことさえ嫌がる人も少なくありませんから。
 私たちは、先人が積み重ねた死をめぐる思索を、書物や芸術作品、映像などで知ることができます。若いあなたもお友達も、ぜひ様々な考えに触れてみて下さい。ちなみに今の私が信じている死の定義は、「死とは目覚めのない眠りである」です。》

 「大人と言われる年齢の私も、あなたと同じくらい死を恐れています」というこの投書者は、「宗教が説くあの世や来世などを信じて安心を得るのもひとつの方法でしょう」と書きながらも、自分は、そのような宗教の信者ではないと言っている。そして、最後に、自分が信じている死の定義は、「死とは目覚めのない眠りである」と述べている。中学生の「死の恐怖」に対して、自分も死の恐怖を感じていることを告白しながら、「私たちは、先人が積み重ねた死をめぐる思索を、書物や芸術作品、映像などで知ることができるのだから、ぜひ様々な考えに触れてみて下さい」という、この大人の投書者の態度は、善意にあふれて優しい。

 「死の恐怖」についての受け止め方は、おそらく、このような大人の「常識」が、世間では一般的であろう。だから、このように新聞にも載るのである。逆に、「死によって意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまう」というのは間違いで、意識も心も消えることはない。更には、「死とは目覚めのない眠り」なのではなく、生命は不滅で永遠であり、死ぬということは、霊界で生き続けることにほかならない、などと言っても、世間には、おそらく、非常識な妄言の類いとして受け入れられないであろう。仮に誰かがそのようなことを書いて投書しても、新聞には載せてもらえないに違いない。

 いまでは、「死をめぐる思索」についても、シルバー・バーチの霊言などを含めて、スピリチュアリズムの書籍が数多く世に出回っているが、それらが、この中学生や大人たちの目に触れることはないのであろうか。目に触れても、死後の生とか霊界という科学では証明できない「真実」には拒絶反応を起こして、手に取って見ることはないのであろうか。私自身が、大人になっても長い間、生と死の真実については全く無知であったから、その私には、霊的真理に気がつかない、或いは、近づこうとしない人々がいるとしても、それらの人々に、同情はしても批判する資格はない。しかし、その一方で、「死の恐ろしさ」というより、生き続けている家族をも死んだと勘違いして嘆き悲しんでいた「無知の恐ろしさ」を、身に染みて深く感じてきただけに、いまの私は、永遠の生命については、一人でも多くの人々に伝えなければならないという気持ちが強い。そのような二つの思いのなかで、私の脳裏には、次のようなシルバー・バーチのことばが、時折、浮かんだり消えたりもする。

 《真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。
 受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。》 (『霊訓 (11)』 p. 128)




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    死の恐ろしさについて考える (続)
       ― 新聞「声」欄への投書をめぐって ―              (2022.04.21)

 
  この欄の前回(2022.02.28)で、「朝日新聞」の「声」欄に載った「死を思うことは恐ろしいけれど」という13歳の女子中学生の投書と、それに対する50歳の無職の女性の「死をめぐる思索に触れてみて」という投書について紹介した。この投書が載ったのは、2月7日であったが、その反響が大きかったようで、「朝日新聞」は、再び、この13歳の中学生の投書を載せたうえで、「どう思いますか」というほぼ紙面1ページ全部を埋め尽くすような特集記事(2022.03.16)にしている。

 ご覧になった方も多いと思われるが、ここには、6名の方の投書が載っている。そのうちの一人、父を57歳で亡くして、絶望の淵に居たという27歳の中学教員は、こう書いている。

 《・・・・・(死の)直後はぬくもりのあった父の体が次第に冷たくなっていった時の衝撃は忘れられません。そこにはもう、父はいないと感じました。では、父はどこにいるのか。天国とか地獄とか、そんな具体的ではなくとも、「あの世」と呼ばれるどこか別の世界にいると思うと、苦しかった胸は少し楽になりました・・・・・》

 「死んだらどうなるんだろう」。そう自問しながらひとりで四国遍路を歩きとおしたという69歳の薬剤師もいる。この人は投稿文の中で、「・・・・・私は死ぬことも生きることもそれほど大きく変わるものではなく、区別なくつながっていると感じたのです。自分がやりたいこと、今日やるべきことを、懸命にやっていたらそれでいい」と書いている。

 この特集で、「私は還暦を迎えた今も死は怖い」と告白しているのは、60歳の高校教員である。「死んでもきっと誰かの心の中で生きている」とか「あなたの命は子どもたちに受け継がれている」とか言われても、慰めにもならない、とも言う。そして、こう続けている。

 《とはいうものの、近しい人々の死を幾度も体験する中で、悟ったことがある。死は生の延長線上に在るのだから、身構える必要はないということ。普段通りの時の流れから、ふっと消えていくのが死なのであろう・・・・・》

 「私は不思議に死が怖くない」と書いている人もいる。「2年半前に逝った夫のところにいける、と思っているから」という 80歳の主婦である。その心境を彼女は、生前あの人が私に「良い老後が送れるようにずっと見守ってやるよ。安心して生きや」と書き残してくれたからだ、という。「この言葉がなかったら、多分辛くて寂しくて、どう過ごしただろうかと思う」とも記している。

 このほか、数年前、仕事で関わりのあった方々を同じ年に3人も亡くして動揺したという30歳のデザイナーは、「個人的にはあまり死後の世界を信じていないので、今この世界でつながった方とのご縁をないがしろにしてはならないと思うようになった」といい、76歳の無職の男性は、「死について考えることは、いかに生きるかの原点のような気がします」と述べた後、「私たちがこの世に生まれてきたこと自体に意味があるのではないでしょうか。人生を理解するには、生き尽くす必要がある。それが今の私の正直な心境です」ということばで締めくくっている。

 この特集には、最後に、谷川俊太郎氏の「怖さ薄れ ちょっと楽しみ」と題する小文も付け加えられている。この中では、氏は、「死が怖いというのは、自分がいなくなるのが怖いんでしょ。それが僕にはあまりありません。自分がいなくなったって全然かまわないんです」などと、述べている。そして、つぎのようにも書いた。

 《僕は、ことばというものをあんまり信用していないんです。言葉の宿命みたいなもので、実在そのものに迫りたいと思っても、実在は言葉では捉えられないんです。死についてもそうだと思います。だから逆に言えば、死の先に何かあるのかな、という楽しみも生まれてくる。僕自身は、生と死はつながっていると思うんですけどね。》

 2月28日に掲載された13歳の女子中学生の投書は、このように、特集が出されるまでに大きな反響を呼び起こしたのだが、しかも、その反響は、これだけでは終わらなかった。これも、多くの方が目にされていると思うが、「朝日新聞」は、さらに「『死』について」という (上)(下)二回の特集を組んで、それぞれ5名の投稿を載せているのである。(2022.04.03~04.04) おそらく、最初の特集の後も、「声」欄には数多くの投稿が寄せられていたのであろう。一人の女子中学生の投稿に対して、3回もの特集を組むというのは、「朝日新聞」としても極めて異例であるに違いない。

 このうち、(上)では、難病を次々に発症させてきた70歳の主婦の、「死は私にとって神からの最高のプレゼントである」という一文には考えさせられた。彼女は、投稿でこう書いている。

 《痛み地獄の毎日は悪化して20年。もちろん、生を選び、治療手術を選んだことに悔いはない。一方で、私にとっては死は特効薬とも思う。死が確実に痛みから私を解放してくれる。耐え難い痛みの中で私は、死を救いの女神と合掌している。》

 ほかには、74歳の援農ボランティアの、「私は結婚式を翌月に控えて最愛の母を失っている。以来、神も仏もあるものかとの思いで過ごしてきた。無信心の身ではあるが、自分が死んだ後は共に生きた人たちの近くで、千の風になっていられたらいいなと思う」などという文が目につく。

 一方、特集の(下)では、「私はあがき苦しみながら最後を迎えるものだと覚悟している」という、68歳の無職の男性の投稿がある。また、84歳の無職の男性は、「死ぬとすべてが無になってしまうのなら生きる意味があるのか。全くわからない・・・・・そして今は、『歎異抄』によって、回答を得て生きております」などと書いている。その他、いずれの投稿文にも、当然のことのように、永遠の生命についてのポジティブな文言などは、見当たらない。これは、前回でも触れたが、仮に誰かがそのようなことを書いて投書しても、非常識な妄言の類いとして、新聞には載せてもらえないのであろう。

 死に対する怖れは、まず、死とは何かを知らないことから来る。知らないから怖いのである。だから、何よりも大切なことは、生と死の真実を知ることであろう。例えば、シルバー・バーチは、いろいろなところで、「生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはない」、「霊は永遠で、死ぬということはありえない」、「生命に死はない。死のうにも死ねない」などと繰り返している。「"死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です」。(『霊訓(4)』p.132)などと言ったりもする。そして、こうも説いている。

 《死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。》(『霊訓(4)』p.134)

 そのうえで、人の死を悲しむのも「間違いである」と、次のようにきっぱりと断定しているのである。

 《人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知――死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。》(『霊訓(3)』p.44)

 このようなシルバー・バーチのことば一つを取り上げても、死の恐怖に怯えている人々には大きな救いになると思われるのだが、世間では、なぜ、そうはならないのだろうか。「私たちは死んでも死なない。霊的存在として永遠に生き続ける」という極めて単純で明快な霊的真理も、この世の「常識」の前では、非科学的な妄言として白眼視され、聞き流されてしまうのが普通である。また、新聞などでいくら特集を組んでも、このような真理のことばは取り上げられることはない。だから、数多くの投稿を羅列しても、すべてが的外れで虚しいのである。それでは、死の怖れを克服することなど出来そうもない。前掲の特集(下)の 68歳の無職の男性のように、「あがき苦しみながら最後を迎える覚悟」でもしなければならないのであろうか。やはり私たちは、死の怖れを克服するためには霊的真理に目覚めるほかはない。

 ただ、ここで考えなければならないのは、死についての霊的真理を真に理解するためには、それを受け入れる魂の準備が必要であるということである。魂の準備ができていないうちは、生と死の真実も頭には入らない。シルバー・バーチもその魂の準備の重要性を何度もくりかえして強調している。次のようにである。

 《忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢ができあがっていなければならないということです。その態勢が整わないかぎり、それは岩石に針を突きさそうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩石のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質ができあがります。》(『霊訓 (7)』pp.68-69)

 ここで、魂の受け入れ態勢ができあがっていくのには、「苦しみや悲しみの体験を通じて」であると述べられていることにも留意する必要がある。逆に言えば、苦しみや悲しみの体験がなければ霊的真理は理解できないということである。それをシルバー・バーチは、「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません」と言った後、こう述べている。

 《そうした困難と苦難のすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の疑問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。》(『霊訓(4)』p.41)

 「いつも日向で暮らし、何の不幸も心配も悩みもない」ような暮らしぶりを、私たちは幸せの極みであるように思いがちであるが、シルバー・バーチは、それでは霊的進歩は望めないという。そして、むしろ、「悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです」と言いながら、こう続けている。

 《悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。》(『霊訓(1)』p.55)

 私は、このホームページのなかでも、折に触れて、霊的真理に無知であることの恐ろしさについて述べてきた。大切な家族が生きているのに死んでしまったと勘違いをし、悲しまなくてもいいのに嘆き悲しんで、絶望の淵に沈む。何年も、そのような無明の闇の中で苦しんでいたことがあっただけに、無知の恐ろしさが身に沁みているからである。その体験を経て、2011年、81歳の時には、私は、ようやく闇の中から脱け出して、『天国からの手紙』(学研パブリッシング)のなかで、こう書くようになった。

 《人は死なない。というより、死ぬことができない。愛する家族も死んではいない。いまも生き続けている。話し合えないことも決してない。
 ただ、そのことを知らずに、死んだらすべては終わったと諦めて、愛する家族をみずから忘却の彼方へ押し流し、話し合おうとはしない人たちが、おびただしくまわりにはいるだけである。
 確かに、その姿は目の前には見えないかもしれない。
 しかし、もう永遠に会えない、となぜ思い込むのか。話し合うこともできないと、誰がそう言ったのか。「死んで」しまったのだから、本当にもう会うことも話し合うこともできないのか。それを自分で確かめたのか。
 いまでは、私は、溢れるような思いを抑えて、そう問いかけることができる。》(pp.310ー311)

 これを書いた時からさらに10年が経過して、私は、昨日の4月20日で 92歳になった。この年齢では、この世の死には隣り合わせで近接していると言っていいと思うが、私自身は、「死の怖れ」のような意識からは、すでに離れてしまっている心境である。しかし、このホームページで、「死の恐ろしさについて」のような原稿を書いていると、否応なく、多くの人々の相も変わらず迷い、悩み、苦しんでいる姿が目の前に去来する。私はまた、自分自身の、生も死も何もわからず、苦しみ悩んでいたかつての日々を思い起こしたりするのだが、いまはただ、10年前と同じように、「人は死なない。というより、死ぬことができない」、としみじみと語りかけたい気がしている。特に、愛する家族を亡くして悲しんでいる人に対しては、「溢れるような思いを抑えて」、また、あの時と同じような問いかけをしてみたい気持ちになったりもする。




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     生き続けていく人間としての心構え   2022.05.23


 人はこの世に生まれる前に、自分の寿命を決めてくるという。いつ死ぬのかも決まっていて、シルバー・バーチも、「死ぬべき時期がくれば、いかなる医師も生かし続けることはできません」と言っている。(『霊訓 (10)』p. 130)「人は生まれる前に、自分の人生の長さを決めてきます。いつ、どうやって死ぬのかも、すでに決まっているのです。つまり寿命とは、もって生まれた宿命なのです」と言っている霊能者もいる。(「学びの栞B」 57-n) しかし、通常は、その自分の寿命についても、生まれた時に深層意識のなかに閉じ込められてしまうから思い出されることはない。霊能力の巨人であった空海(774年-835年4月22日)やスウエーデンボルグ(1688年-1772年3月29日)のように、自分の死ぬ日と時間までを正確に予言することが出来た人々は極めて稀な例外である。

 私の知る優れた霊能力者のA師も、「人の寿命を予知するのは容易ではない」と言っていた。私自身も、長く生きても 87~88歳と「予言」されたこともあったが、いつの間にか、92歳にもなってしまった。まったくの、思いがけない長生きであるが、ここまで生きてくると、もう改めて霊能者に見てもらうまでもなく、死ぬべき時期は、そう遠い将来ではないことが自分でもわかる。ただ、かつてのように、生と死の真実もわからず、霊界の存在も知らずに無明の闇のなかで呻吟することがなくなっていることだけは、こころから神に感謝しなければならないと思っている。

 私が89歳の時に遺言のつもりで書いた小冊子『生と死の真実を求めて』(「参考資料」No.60に転写)のなかにも引用しているが、インドのマハトマ・ガンジー(1869年—1948年)は、次のようなことばを残している。

  Live, as if you were to die tomorrow.  (明日死ぬかの如く、生きよ)
  Learn, as if you were to live forever. (永遠に生きるかの如く、学べ)

 このようなことばも、私は、生と死の真実を私なりに理解できるようになってからは、新しい視点で受け止めるようになった。たとえば、シルバー・バーチは、「そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです」と言っている。死というのは「元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです」とも述べている。(『霊訓』(10)』p. 21)

 つまり、死ぬということは、本来の自分の棲み家へ戻ることである。だから、「明日死ぬかの如く、生きよ」というのも、一般に感じられているような死にまつわる恐怖心や絶望感が無くなってしまえば、単に、故郷の実家へ帰る日が明日になってもいいように準備せよ、というほどの軽いことばになる。ただ、この世の引っ越しと違うのは、家財道具や持ち物等の物的資産を一切残していかねばならないということくらいであろう。そのうえで、私たちは、霊界の新しい棲み家で、いまの自分そのままに生き続ける。「元の出発点へ帰る」といっても、すべてがご破算になって、ゼロからやり直すのではない。いまの自分の霊的資質は、才能や性格などを含めて、そっくりそのまま持ち続けていくのである。

 そうすると、「永遠に生きるかの如く、学べ」もまた、世間一般とは違った視点で受け止めていくようになる。死んでしまえば灰になって無に帰するのだから、「死ぬとわかっていて、いまさら何を学ぶ必要があるのか」というようには、決してならない。「永遠に生きるかの如く」ではなく、私たちは「永遠に生きるのだから」学ぶことを止めてはならないのである。輪廻転生の度毎にそれまでに学んできたことを基盤にして、その上でさらに研鑽を積んでいくのが私たちの真実の姿である。ここで、あらためて、確認のために、シルバー・バーチの次のようなことばを思い起こしておきたい。

 《しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。》(『霊訓 10』p. 20)

 このような霊的真理は人生に大きな影響を与えるから、深く学んでいくことは極めて大切であるが、しかし、学ぶべきことは、もちろん、霊的真理だけではない。これは、前掲の『生と死の真実を求めて』のなかでも触れているが、1991年の春、私はロンドン大学客員教授として渡英した。1年間のロンドン滞在中、シルバー・バーチの著作を繰り返し読み、ロンドン大学に通う傍ら、大英心霊協会(SAGB)にも頻繁に訪れて、十数人の霊能者達から数十回の霊言を受けた。アン・ターナーの卓越した霊能力にも導かれて、私はここで初めて、長年の無明の闇から脱け出すことが出来た。1992年の3月、帰国の途中、インドへ寄り、各地の仏跡巡りをした後、ニュー・デリーにあるマハトマ・ガンジーの慰霊碑を訪れた。その敷地の一角に、ガンジーのことばが刻まれた石碑があって、そこには、「自分のまわりの一番貧しい人を見つけて、その人を助けよ」とあった。その頃は、霊的真理に目覚めたばかりで、自分のいのちも救われたような気持ちになっていただけに、このことばも私には深く身に沁みた。

 このような、貧者、弱者に対する無償の愛を実践することも、おそらく霊的真理の理解を深めること以上に大切な学びであろう。イエス・キリストは、ある資産家の青年に、「あなたが完全になりたいと思うなら、あなたの持ち物を全部売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになる」と言った。「富める者が神の天国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりもむずかしい」とも言っている。(「マタイ」19:19-24 ) このことばに従えなかった青年は、悲しんで立ち去ったが、このような情景は、2千年を経たいまも変わらない。むしろ、目まぐるしい文明の発達とは裏腹に、人間の霊性は退化して、物質本位の価値観がさらに深く広く世界中に浸透しているようにみえる。金銭的に豊かになることが人生の目的のように思い込むのが当たり前のようになってしまって、日本の社会をちょっと見渡しても、蓄財に血眼になっている人々がなんと多いことか。こんな世の中では、私たちがいま、生きているうちに学ばなければならないのは、何よりも、「天に宝を蓄える」ことであるようにも思える。

 「天に蓄える宝」は、もちろん、この世での金銭の援助だけではない。他人に対する労わりのこころ、優しいほほえみ、慰めのことば、激励、助力、社会奉仕等々、利他的献身の一つ一つの行為が、目に見えないところで「天国の宝」となって、確実に蓄えられていく。それらが、実は、霊的存在としての自分の本当の財産である。それらの、人のため、世のための行為の総量が、たとえば数量的に1であれば、1が天に蓄えられる。10であれば、天国の蓄えも10になる。与えたものが千や万であれば、天国に蓄えた自分の財産も、千、万となって自分に返ってくるであろう。逆に、自己中心的に、貪欲と悪意で人を傷つけ、世の中に害を及ぼしたりすれば、これらの数値はそれぞれにマイナスになって、霊的存在としての本来の自分は、天国に負債を積み上げていくことになる。この因果関係も、私たちが学ばねばならない宇宙の摂理の一部である。この摂理は完璧で、寸分の狂いもなく働らき、私たちが自分たちの行為の代償として受けるべきものを髪の毛一本ほども変えることはできない。シルバー・バーチは何度も繰り返してこの宇宙の摂理の完璧さを強調しているが、つぎのように言ったこともある。

 《利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃美歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。
 発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。 聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。》(『霊訓4』pp.25-26)

 私たちは、このような厳然とした宇宙の摂理の中で生かされ、生きている。この真実を肝に銘じておくことも、大切な学びのひとつであろう。私たちは、この世と霊界の間を、生まれては死に、死んでは生まれて、輪廻転生を繰り返してきた。その度に、人間としての不完全さを少しずつ矯正してきたのである。霊界と違ってこの世は、五濁悪世といわれる四苦八苦の世界だが、実は、そのような環境の中で揉まれることによって、私たちは学びを深め、「天に宝を蓄える」ことを知り、霊的に成長していく。そして、やがていつかは、一人ひとりが、遅速の違いがあっても必ず高い霊格をもつことになって、私たちはもう、この世には生まれてこなくなる。仏教でいう解脱である。それからは、霊界の本来の棲み家に安住し、光に包まれて生きていくことになる。その光への道を確かな足取りで歩み続けるためにこそ、私たちは、希望を持って「明日霊界へ還ってもいいような生き方」を心がけ、「永遠に生きる者としての学び」も続けていかねばならないのであろう。




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   日本人の詩歌のたしなみ
          ― 太田道灌の山吹伝説をめぐって ―     (2022.06.16)


 太田道灌は室町時代後期に関東地方で活躍した武将である。江戸城を築城したことでもよく知られている。永享4年(1432年)、関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代で、文安3年(1446年)に元服してからは、資長(すけなが)を名乗った。兵学を学び、殊に『易経』に通じて当時の軍配者(軍師)の必須の教養であった易学を修め、また武経七書にも通じていた。後に、父に次いで自らも上杉氏の家宰となり、武将としても学者としても一流という定評があったという。また、歌道にも精通して、様々な優れた和歌が残されている。「山吹の里」の伝説はここから生まれた。それは、次のような話である。

 ある日のこと、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、たまたま見かけた一軒のみすぼらしい家にかけこむ。すると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきた。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか」と声をかけると、その少女は黙って出ていき、しばらくして、道灌に、蓑ではなく山吹の花の一枝を差し出したのだという。その意味が理解できなかった道灌は、「花が欲しいのではない」と怒り、そのまま、雨の中を濡れて帰って行った。

 その夜、道灌が、家臣たちの前でこのことを語ると、そのうちの一人が進み出て、「『後拾遺集』に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに、『七重八重 花は咲けども山吹のみ(実) のひとつだになきぞかなしき』という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか」と言った。それを聞いて驚いた道灌は己の不明を深く恥じた。そして、その日を境にして歌道に精進するようになったと伝えられている。

 山吹というのは、バラ科の落葉低木で、キクの花のような花形のキクザキヤマブキ、黄色味を帯びたシロバナヤマブキなど、多くの品種があるが、この歌のように「七重八重に咲く」ヤエヤマブキだけには、果実ができない。つまり、実(み)のない山吹である。それを、「蓑(みの) がない」の意味に含めて、その年端もいかぬ少女は、「貧しくてお貸しする蓑もありません」と道灌に伝えようとしていたのである。しみじみと心を打たれる奥ゆかしい情景だが、それにしても、山里の年端もいかぬ少女の、何という深い教養であろうか。後世の創作といわれてはいるが、鄙には稀な美談として受け止めておきたい気がする。

 この山吹の少女の話は、1739年に成立した逸話集・湯浅常山著『常山紀談』(巻の一)に「太田持資歌道に志す事」として載っているものである。それを読んだアイルランド出身で詩人のピーター・マクミランさんが、「朝日新聞」紙上(2022.05.22)に、「渡された山吹の色は」と題して、つぎのように英訳を試みている。

   七重八重花は咲けども山吹の
     みのひとつだになきぞかなしき

    Blossoms upon blossoms
     blooming Japanese roses――
    Just as they have no berries,
     it is such a shame,
     I’ve no straw raincoat for you !


 醍醐天皇の皇子兼明親王(914-987)が詠まれた上の歌は、『後拾遺和歌集』(第十九)に収められているから、この歌の「みのひとつだになき」の「みの」は「実の」であって、当然のことながら「蓑」(straw raincoat)の含意はない。だから、厳密に言えば、これは誤訳ということになるが、「山吹の里」の伝説の、年端もいかぬ少女の残像が強く残っているいまは、無理なくその美しい響きの中に、吸い込まれていくような気がする。

 マクミランさんは、この歌の翻訳の前に、山吹の名所として知られている京都嵐山の松尾大社に詣でたそうである。大社に到着すると、視界が黄山吹で埋め尽くされている。奥の庭園には、「七重八重に咲く」ヤエヤマブキ(白山吹)もあるが、開園前で見ることが出来なかった。そのことを嵯峨の自宅に帰って近所の主婦に話したら、彼女は、自分の家の庭から、白山吹をひと枝持ってきてくれて、その時、太田道灌の話も聞かされたのだという。マクミランさんは感動した。「これまでの人生には実らないことも多くあったが、白山吹のように、これから嵯峨で実っていくかもしれない」と、幸せに満たされたことを述懐している。

 このような詩歌とのかかわりは、平安時代中期の作家・歌人であった清少納言にもあることを思い出した。『枕草子』にある話だが、清少納言は、この山里の少女とは違って、いわば上流階級の人間であり、一条天皇の皇后であった中宮定子に仕えていた教養人であった。話の舞台も、みすぼらしい田舎家ではなく、宮中の皇后の部屋である。これは、清少納言自身の書いたことだから事実に違いないが、彼女の機転に感心することはあっても、特に感動することはない。次のような話である。

 冬のある日、中宮定子は清少納言の知識を試してみようと思い、「香炉峰の雪はどうなっているだろうか?」と言ってみた。この香炉峰とは、中国・中唐の詩人白居易(772-846)の詠んだ詩に出てくる山のことである。現在の江西省九江市にある廬山の北側の峰で、香炉に似た形をしているところからこう名付けられたらしい。原文は「香炉峰雪撥簾看」で、「香炉峰に積もった雪を、御簾を上げて眺める」というふうに描写されている。白居易の詩集は当時の日本でも広く愛読されていたから、清少納言もそれを知っていた。この一文を踏まえて彼女は、部屋から見える山を香炉峰に見立てようと、下りていた御簾を高く上げさせたというのである。中宮定子は、満足の笑みを浮かべ、まわりにいた女官の一人も、清少納言に向かって、「香炉峰の雪のことは、私も知っておりますし、歌などに詠むこともありますが、このように御簾を上げようとまでは思いつきませんでした。あなたはやはり、この中宮のお側につく人にふさわしい人のようです」と、彼女の機転を称えた。

 ついでに付け加えておくと、この清少納言が書いた『枕草子』は、兼好法師の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』と並んで「古典日本三大随筆」に数えられている。平安中期というのは、もう千年も前の世界だが、この時代には、同じく作家で歌人の紫式部が世界最古の小説といわれる『源氏物語』を書いているし、和泉式部なども紫式部の同僚女房で、与謝野晶子などから「情熱的な」歌人として高く評価されている。平安時代というのは、数々の女流作家・歌人たちの煌びやかな才能で彩られた時代でもあった。ヨーロッパの短い文学史では、三、四百年前の女流詩人の名を見出すのは困難であるのに、日本では、千年も前にすでに、このように女流作家・歌人たちが、平安朝の文学史に大きな足跡を残しているのは驚くべきことであるといわねばならない。

 さらに時代を遡れば、奈良時代末期に成立したとみられる『万葉集』初期の代表的な女流歌人である額田王(ぬかたのおおきみ)などもいる。彼女は、631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定されているが、正確にはわかっていない。よく知られている歌に、「熟田津に船乗りせむと月待てば  潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」があるが、これは、663年に、中大兄皇子(のちの天智天皇)が朝鮮半島の百済の救援に2万7千人の兵を送り出した折の、熟田津(にきたつ)での情景を詠ったものである。熟田津は、愛媛県の道後温泉あたりの地名という説があるが、正確にはわかっていない。当時の中大兄皇子は、母親の斉明天皇を凌ぐ政治的実権を握っていて、この海外派遣に国運を賭けていた。その中大兄皇子が、船旅の途中で熟田津に一泊したあと、斉明天皇と共に、いま船出の夕べを迎えて船団を見送ろうとしている。斉明天皇にも中大兄皇子にも、深い祈りがあったであろう。その気持ちを推量して、額田王がこのような雄渾で格調の高い歌を詠んだ。

 一方で、額田王は、「あかね指す紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」というような情緒纏綿とした歌も詠んでいる。彼女は、大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚して子どももいたが、この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、大海人皇子の兄である天智天皇と恋人関係にあった。大海人皇子は、権力者の兄のそのような非情に逆らえなかった。額田王も本意ではなかったであろう。その後、大海人皇子が、朝廷のレクリエーションで、蒲生野での狩りに出た時に、広い狩場の一隅に、自分との逢瀬を求めて忍んできた時の情景を、額田王がこのように詠んだのである。狩場のあちらこちらには、警備の兵がおかれている。その中で、大海人皇子は紫野へ標野へと道なき道を、踏みしめてやってきた。別れの時には、狩り装束の皇子は盛んに手を振って、警備の兵に見られるのではないかと彼女は気を揉んでいる。「あかねさす むらさきの ゆき しめの ゆき  のもりはみずや きみがそでふる」という、もう千三百年も前の美しい日本語の調べが、現在の私たちにも切々と伝わってくるが、これは、女流文芸の歴史の浅い外国では、例をみないことで、日本独自の、奇跡的な詩歌の伝承といってよいかもしれない。

 この万葉の時代からさらに数百年を経て、室町中期に入り、道灌の「山吹の里」の伝説が生まれることになるのだが、道灌には、このほかにも、次のような逸話が残されている。

 主君の上杉定正が上総の庁南(現長南町)に軍勢を出した時に、山が迫っている海辺を通ることになった。定正は、「山の上から弩(おほゆみ)を射懸けられるかもしれない、また潮が満ちているか否かが判断しにくい」と考えて、進軍を危ぶんでいた。その時は夜中で、潮の満ち干も目で見て判断することができなかった。道灌は、「では、私が見て参りましょう」と進言して馬で馳け出し、やがて帰って来て、「潮は引いています」と言った。「どうして干潮だとわかったのか」と問われて、『遠くなり 近くなるみの浜千鳥  鳴く音に潮の満干をぞ知る』と詠んだ歌があります。つまり、浜千鳥の鳴き声が遠く聞こえるか近く聞こえるかで、干満を判断できるのです。今は、千鳥の声が遠くに聞えましたから、干潮です」と道灌は答えたという。

 また、こういう言い伝えもある。いつのことであったか、軍を帰城させようという時に、これも夜間の事であったが、利根川を渡ろうとして、あまりに暗くて浅瀬の場所がわからない。このときに道灌は、「『底ひなき 淵やはさわぐ山川の 浅き瀬にこそあだ波はたて』という歌がある。波音が大きい所を渡れ」 といって、無事に利根川を渡した、というのである。

 その道灌の活躍によって、主家の扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。ところが、主君の定正は、家臣である道灌が、優れた統率力と戦略で敵を圧倒し、その功を誇って主君を軽んじる風もみられたとし、道灌に反感を持つようになった。その道灌が、人心の離れた山内家に対して謀反を企てたとも中傷されたりしている。そしてついに、道灌は、文明18年(1486年)8月25日、定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた折、入浴後に風呂場の小口から出たところを主家の意を汲んだ曽我兵庫に襲われ、暗殺されてしまったのである。享年55歳であった。

 刺客の曽我兵庫は、道灌を槍で刺した。その時、道灌が歌を好むことを知っていた曽我兵庫は、道灌に向かって、「かかる時 さこそ命の惜しからめ」と上の句を詠んだ。この問いかけは、こんな時には無情の極みである。しかし道灌は、致命傷に少しもひるまず、悠然として、下の句をこう続けた。それが、「かねてなき身と 思い知らずば」である。「常日頃から、死ぬことの覚悟はできていたから、いまさら、この命を惜しいと思うことがあろうか」というのである。見事な受け答えというほかはない。のちに、新渡戸稲造は、『武士道』(1899年)のなかで、この歌に触れ、勇気ある真に偉大な人物が死に臨んで有する「余裕」の一例として紹介している。 ―― かつて、鷹狩りにでかけて俄雨にあった時に、里の少女から山吹の一枝を差し出されて、蓑がないことを暗喩されて以来、不明を恥じて歌道に精進するようになった道灌の、これは、最後の歌になった。それも、下の句だけである。「かかる時 さこそ命の惜しからめ かねてなき身と 思い知らずば」




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    文明の発達につきまとう影        (2022.07.28)


 1970年に大阪の千里丘陵で開催されて以来、2度目の大阪万博が、2025年4月13日(日) から 10月13日(月)まで184日間、大阪市此花区の人工島、夢洲(ゆめしま)で開催されることになっている。想定来場者数は約2,820万人で、経済波及効果は試算で約2兆円になるらしい。開催日まで1000日となった7月18日には、記念イベント「1000 Days to Go」が行われ、万博での実用化を目指して開発が進められている「空飛ぶクルマ」のデモフライトも、兵庫県尼崎市の臨海地域で披露された。インターネットの写真の記事では、機体は長さ約5.6メートル、高さ約1.7メートルで2人乗り。離着陸地点で高さ約30メートルまで上昇した後、飛行エリア内を約840メートルにわたり無人飛行したという。

 万博の会場・夢洲までの鉄道や車の混雑が懸念される中、空中を移動する次世代モビリティーの関心が高まり、この「空飛ぶクルマ」は、空中タクシーとして万博の目玉の一つともされている。その運航は、大阪市内の梅田や難波と夢洲を結ぶピストン飛行、関西国際空港や神戸空港から夢洲へ遊覧しながら飛行する2つのルートが想定されている。料金体系は、タクシーと同様、初乗り680円で、以降10秒毎に250円を加算する方式が採用される。大阪市内から夢洲で所要時間10~15分で、費用は一人あたり1万5000円~2万2500円、関西空港~神戸空港から夢洲では所要時間40分で、費用一人あたり約6万円と見積もられているようである。

 空中タクシーがこのように現実化すれば、やがて、それが各地にも広がって、現在の車社会のように、空中自家用車も日本の空を飛びまわるようになるのであろうか。私もこの世で 92年も生きていると、こんな空中タクシーの出現も身近に感ずるようになって、文明の発達もここまで来たか、といういささかの感慨を禁じ得ない。

 ついこの間も、米航空宇宙局(NASA)の新型宇宙望遠鏡「ジェームズ・ウェップ」が、宇宙探索で、130億光年の彼方に存在する銀河を撮影したという画像が公開されていた。(「朝日」2022.07.12 ) これは、130億年前の銀河の映像が、秒速30万キロのスピードで130億年かかって、大宇宙の中では砂浜の砂粒一つの大きさにもならないような、このちっぽけな地球にいま届いたということである。かつて、1961年4月12日、当時のソ連宇宙飛行士のガガーリンは、ボストーク号で世界初の有人宇宙飛行に成功した。その時まで人類は、自分たちの住む地球を外から見たことはなかったが、このガガーリンの宇宙飛行で、初めて、世界中の人々が宇宙に浮かぶ「青い地球」の姿を見ることが出来るようになった。私もつくづくと眺めて、その可憐な美しさに感動した。それから人類は、月に着陸し、火星に探査機を下ろし、日本でも、2020年12月に、探査機「はやぶさ2」が、小惑星「リュウグウ」の砂を採取したカプセルを持ち帰ったりしている。そして今は、130億年前の銀河の実像も、自分の目で見ることが出来るのである。文明の発達は、留まるところを知らないもののようである。

 この文明の発達によって、私たちの生活も随分、快適で便利なものになった。いまでは、冷蔵庫、洗濯機、風呂、水洗トイレもついている家で、酷暑の夏も、クーラーを利かして、大人も子どもも、テレビを見たり、スマホをいじったりしている。これは、日本でも1960年代の高度経済成長期以後に現れ始めた現象で、それまでの生活では、私たちは敗戦後の食うや食わずの欠乏と貧困をそのまま引きずって生きていた。私はその貧困のなかで大学を卒業して、公立高校での教員2年目で、アメリカのオレゴン大学給費留学生に選ばれた。1957年の夏に船で2週間かけて太平洋を渡ったが、その頃の私の高校での月給はドルに換算すると 25ドルくらいであった。当時の公定レートは、1ドル360円となっていても、日本のドル不足で、実勢は 1ドル400~420円であったから、これはアメリカの高校教諭の 300ドルを超える給料に較べると、十数分の一にしかならない。アメリカは夢のように豊かな国で、その頃すでに、どの州でも無料の州高速道(State Highway)が縦横に発達し、高校生でも車を自由に乗り回していた。その当時の日本では、自家用車を持つなどというのは、ごく一部の金満家を除いては、まるで雲を掴むような夢でしかなかった。その日本でも、十数年を経て、誰もが自分の車で走りまわるのが当たり前のようになろうとは、想像も出来なかった。

 しかし、その後、日本では経済成長が続くことになる。経済成長自体は、実は、1950年代の後半から、朝鮮戦争の特需を契機にして始まっていたが、「高度成長」を庶民レベルで実感し始めたのは、1960年代になってからである。生活は少しずつ豊かになり、社会の様相も近代的な変貌を遂げていくようになった。1964年10月には、東京オリンピックも開催され、それに合わせて、東海道新幹線も開業した。高度経済成長期の最後を飾った大阪万博も1970年の3月から9月まで大阪府吹田市の千里丘陵で開催された。これは、アジア最初の万国博覧会ということで、世界各国の新技術や文化を結集して来場者は 6,400万人を超えた。私も家族と共に行ってみたが、人々が多すぎて、めぼしい展示場に入るのに、酷暑の中で1~2時間も並んで待たされて閉口した記憶がある。この万博では、動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキーフライドチキンなど、現代社会で普及している製品やサービスなども、初めて登場した。

 東海道新幹線に始まる新幹線建設も、当初は、東京ー新大阪が4時間運転であったが、1965年からは、3時間10分になった。東京ー大阪間の飛行機も、所要1時間20分で、庶民の間でも利用者が増えていった。一方では、高速道路の建設も、名古屋と神戸を結ぶ名神高速道路が1957年に開始され、1962年には、東京と名古屋を結ぶ東名高速道路や、山間部経由で東京ー名古屋を結ぶ中央自動車道なども建設が開始された。名神高速道路は、1964年9月に全通し、東名高速道路も、1965年には全通している。その後も、毎年、200キロから250キロの建設が、全国各地で行われ、当初予定の7,600キロの高速道路網はすべて完成して、さらに現在も増え続けている。

 この目まぐるしい交通機関の発達は、東京ー大阪間を約1 時間で結ぶ世界最高速のリニア中央新幹線の建設にも及んでいる。リニア中央新幹線は時速500km、現在の新幹線の約2倍の速さで山梨と東京を約20分、東京と大阪もわずか1時間ほどで結ぶという世界最速の新幹線である。しかし、この狭い日本で、それをさらに導入するのにどのような意味があるのだろうか。メリットとしては、リニア中央新幹線の導入は、東京ー名古屋ー大阪という大都市圏を一体化し、ひと続きのメガポリスを誕生させるとともに、日本列島全体の時間距離を短縮し、経済社会活動の効率性を高める効果があるのだという。また、広い地域を高速交通網に組み入れることができ、多様な拠点都市が誕生するともいう。

 しかし、鉄道の在来線のほかに、新幹線、高速道路、航空路が縦横にはりめぐらされているなかで、さらにもっと便利で速い交通手段がどうしても必要なのであろうか。このリニア新幹線工事は、自然の宝庫である南アルプスに約25㎞の長大なトンネルを掘るため、地下水位の低下や枯渇・河川の減水等により、南アルプスの高山植物や雷鳥、猛禽類等の生態系が破壊される危険があるとされている。大井川の水が、トンネルに毎秒2トン漏水する結果、大井川下流域の約62万人の飲料水、農業用水、工業用水に影響を与える、などの理由で、住民による訴訟も各地で行われている。

 ついでに触れておくと、日本の鉄道が新橋ー横浜間で初めて開通したのは、今からちょうど150年前の1872年(明治5年)のことであった。その時は、全線29キロを時速32キロで53分かけて走ったが、これは、当時の日本人にとっては、大変なスピードであった。この文明の発達を祝って、新橋駅では盛大な式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転するなど、国をあげてのお祭り騒ぎをしている。それまでの日本人は、たまに馬や篭に乗ることはあっても、当然のことながら、みんな何処へ行くのにも自分の足で歩いていた。

 例えば、東海道五十三次は江戸日本橋から京都までの125里26町(494km)で、後に延長された大坂(現在の大阪)の高麗橋までの「五十七次」は、137里(538km)であったが、これだけの距離を昔の人は、通常、一日で35キロほどの距離を、7時間かけて歩いていた。時速にすると約5キロで、これで京都までは14~15日、大阪ならば16~17日で辿り着く。道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡なども多く、人々は、てくてく歩いて情緒あふれる(と思われる)旅を続けながら、もちろん、不便、不自由などは感じなかったはずである。それを、今では、東京ー大阪間を、人々は自分の車で高速道を通って、10時間ほどで走り抜ける。頻繁に発着する新幹線に乗れば、3時間で着く。飛行機ならば1時間20分である。それでも飽き足らずに、今度は、リニア新幹線で、所要時間を1時間に縮めるのだという。文明の発達はとどまることなく、このように、人々に薔薇色の幻想を与え続けるようである。しかし、繰り返しになるが、こんな狭い国土の中で人口も減っているというのに、私たちは、そこまで速く走ることに拘る必要があるのであろうか。

 数多くの文明の利器に支えられて生活が豊かになり、苦労の少ない安逸な日々を送れるようになることはいいことには違いない。しかし、問題の一つは、文明の発達が地球の環境にさまざまな悪影響を及ぼしてきたことである。膨大な量の木材の伐採、産業廃棄物による公害の発生、土壌、河川の汚染、さらには、化石燃料の大量消費による二酸化炭素の排出などで、近年は、海洋や大気にまで汚染が広がって、地球上の各地で旱魃や豪雨などの異常気象を惹き起こしたりしている。そんななかで、今年2月には、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナへ侵攻し、核兵器使用の可能性も示唆して世界に衝撃を与えた。戦争というのは常に効率よく人を殺すことを目指すもので、そのための武器開発に鎬を削って、一面では、文明発達の温床でもある。なかでも核兵器は、文明発達の最たるものだが、それを使って核戦争になれば、今度は世界が滅びる。それもわからず、この権力者が、核兵器を使うことで自分の国だけが勝利して生き延びるとでも考えているとしたら、救い難い愚かさである。

 社会生活面では、先日、7月2日には、携帯電話大手のKDDIが通信障害を起こし、全面復旧まで86時間を要して、約3,915万回線でトラブルを与えた。2018年12月には、ソフトバンクが、通信障害で、約3,060万人に影響を与えているし、2021年10月には、NTTドコモも、同じく1,290万人の通信を困難にしていたから、この種の文明の利器も、便利には違いないが一旦故障すれば、広範囲な被害を及ぼすことになる。このような通信障害のことなどは、或いは些細なことかもしれない。しかし、現在私たちがしばしば直面している異常気象や、ロシアのウクライナ戦争によるエネルギー不足などで、大規模な停電などが起こったりすれば、その影響は重大である。しかも、それが十分にあり得ることを、私たちは、ついこの間、6月30日に政府によって解除されたばかりの「電力需給ひっ迫注意報」で思い知らされてもいる。

 文明の発達につきまとう影は、このような物質面のもたらす負の部分のことだけではない。私たちが何よりも留意しなければならないのは、それを受け止める心の問題であろう。人類の長い歴史を通じて、文明の発達は、私たちの生活が少しでも楽に、より快適になるようにと、私たちが担ってきた多くの痛み、苦しみ、不便などを取り除いてきた。それは確かに好ましい、いいことだが、実は、いいことばかりではない。そこでは、「生きる意味」がどんどん見失われていく、と哲学者の森岡正博氏はいう。氏は、痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありようを、「無痛文明」と名付けて、「『無痛文明』に生きる残酷さ」という小論のなかで次のように述べている。

 「つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです」(「朝日」2022.06.07)

 少しでも楽に、少しでも便利にと、より快適な生活を追い求めることに慣れきってしまっている私たちは、いまコロナウイルスの感染急拡大の第7波のなかで、人それぞれに多少の不自由、不便を強いられている。コロナ禍がもう3年目にもなって、経済は停滞し、生活に不安を抱えている人々も、決して少なくはない。政府は、今度の第7波では「経済をまわしていくため」に行動制限を考えていないという。「経済をまわす」というのは、要するに、出来るだけ多くの人々が出歩いてお金を使い、出来るだけ多くのモノを買うことを意味する。質素倹約というのは、古来、日本の美徳であったはずだが、いまの日本では、ほとんど死語になってしまった。もし人々が一斉に質素倹約に努め、モノを買うのも控えるようになったら、経済は忽ち破綻する。自転車操業と同じで、人々がモノを次々に買い続けなければ、資本主義は成り立たずに倒れてしまうのである。いまさら、東海道五十三次を歩いて旅をした時代には戻れないように、私たちが、快適な、不便、不自由のない「無痛文明」の外へ出て生きていくことは出来ない。そして、そのことから起こる何よりの問題は、霊的存在としての本来の人間の姿を見失いがちになってしまうということである。

 私たちは、もともと、霊性の向上を目指してこの世に生まれてきた肉体を纏った霊であるが、文明の発達は、霊性の向上とは必ずしも相関しない。むしろ、痛みも苦しみもなく、不便、不自由もない安逸な生活を求め続けて、「無痛文明」にどっぷりと漬かってしまうようになってしまっている現在では、私たちは、「霊性の向上」からは遠ざかってしまっているようにも思える。コロナ禍で、若干の不便、不自由を強いられているこの機会に、私たちはもう一度、私たちは誰か、なぜこの世に生まれてきたのか、といういのちの原点に立ち返ってみることも必要なのではないであろうか。

 私たちは、霊性の向上の上でも未熟な存在で、未熟であるがゆえに、それを克服して向上していくために、親を選び、環境を見定め、学ぶべき課題を携えてこの世に生まれてきた。そのことは、私たちは何度も、霊的真理の学びの中で確認してきている。そして、そのための学びに必要なのは、喜びでなくて悲しみや苦しみであり、自由、便利、安全ではなく不自由や不便、困難であることも、教えられてきた。つまり、学びのために必要な環境とは、「無痛文明」とは相容れない関係にあるともいえる。シルバー・バーチは、「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです」という。そして、こう続けている。

 「過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の疑問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。」(『シルバー・バーチの霊訓(4)』 p.41)

 シルバー・バーチは、また、「霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです」とも言っている。私たちは、霊性の向上のために、ほかならぬその霊的真理を「実生活の場で真剣に体験」しようとして、この世に生まれてきたはずであるが、それでいて、痛みも悲しみも不自由、不便もない安逸な生活に埋没してしまっていては、真剣に体験することも出来ずに生まれてきた意味も失われてしまう。「無痛文明」では、霊的存在である人間が霊性を向上させるための条件を備えてはいないのである。その条件について、シルバー・バーチは、さらに続けて、こう述べている。

 「その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。
 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。」(『古代霊は語る』pp.116-117)

 もう 3年目になるコロナウイルスの全国的な感染、ロシアによるウクライナへの侵攻、安倍前首相の殺害などから、「サル痘」の国内初めての感染確認、季節外れの大雨による水害や鹿児島・桜島の爆発的噴火、さらにはヨーロッパやアメリカなどでの時ならぬ熱波の襲来や、大規模な森林火災の発生など、気が滅入るようなニュースが後を絶たない。一昨日、7月26日には、14年前の秋葉原無差別殺傷事件で17人を殺傷した加害者の死刑が執行されたことが大きく報じられたりもした。現在の社会も、うわべは「無痛文明」を装っていても、内実は五濁悪世のままである。霊的視点からみれば、しかし、これらの暗いニュースも、霊性向上のために私たちが学ぶべき教材の一部であるに違いない。私はいま、文明の発達と霊性の向上が相克するこのような世の中で、コロナ禍を経験しながら人並み以上に生き延びていることの意味を、改めて私なりに考えさせられたりしている。




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   アン・ターナーの霊界からのメッセージ    (2022.08.22)


 アン・ターナーは、2010年8月22日に霊界へ還っていった。今日は、彼女の12回目の命日である。アン・ターナーについては、私の著書『天国からの手紙』(学研パブリッシング、2011)をはじめ、このホームページでも、「アン・ターナーと私」(「プロフィール」Ⅵ)、「アン・ターナーの命日に憶う」(「寸感・短信」2013.08.22)などに、いろいろと書いてきた。今日の命日にあたっては、彼女の霊界からのメッセージの一部を取り上げ、改めて、アン・ターナーと私の家族との「奇しき縁」といったようなことについて、書き残しておきたい。

 1991年春から1年間、私はロンドン大学客員教授として渡英し、ロンドン郊外のロチェスターに住んでいた。週の半分、講義と下調べで大学へ通うほかは、自宅の芝生の庭に面した居間の片隅で、研究テーマの「日英比較文化論」についての資料集めや原稿執筆などで時間を過ごしていた。大英心霊協会のことはよく知っていたが、ミーディアムに会う前に、充分に気持ちの準備をしておかねばならないと思っていたので、シルバー・バーチの原本を買い集めて熱心に読んだりもしていた。私がロンドンの生活にも慣れてきて、初めて大英心霊協会でアン・ターナーと会ったのは、翌年の1992年2月4日のことである。その日の午後、私は、アン・クーパーという名の女性霊能者の 2度目のシッティング(Sitting、霊能者の前に座って霊界からの情報を受けとること)を予約していたので、大英心霊協会へ行き、二階の待合室になっている「リンカーンの間」で、ひとりで座っていた。

 そこへ一人の中年の女性が入ってきた。ベネトンのブランド名の入った白いトレーナーシャツのようなものを着ている。私は、「あなたもシッティングにこられたのですか」と聞いた。すると彼女は、「いや、私はここのミーディアムなのです」と言って、名刺を一枚私にくれた。それが、アン・ターナーであった。彼女はすぐに部屋を出ていったのだが、名刺をみると、住所がロチェスターになっている。しかも、その住所は、私の家からは歩いても10分くらいで行ける距離であった。私はその時、なんとなく因縁めいた親しみを感じて、そのアン・ターナーの名刺を大事にしまいこんだ。

 その時、私は、アン・ターナーとは会うべくして会ったことが、いまではわかっている。霊界からの計らいであった。アン・ターナーの指導霊は、彼女が Teacher Chang と呼んでいる中国古代の高位霊で、彼女にとっては神のような「大先生」である。彼女は霊視で見えるその大先生の容貌を自分でスケッチして、その肖像画を自宅の祭壇の上に掲げていた。霊界では私の長男の潔典(きよのり)がこの Teacher Chang に依頼し、それを受けて大先生が、大英心霊協会でアンと私が出会うように導いたということのようである。私は、その日、アン・クーパーとのシッティングが終わった後、協会入口の受付で新しくアン・ターナーとのシッティングを予約した。そして、2月11日にまた大英心霊協会へ出向いて、今度はミーディアムとしての彼女の前に座ったのである。

 期せずして、その 2月11日は、終生、私の忘れられない日になった。私と家族のことなど何も知らないはずの彼女が、いきなり、「いまあなたの前には息子さんが立っていて非常に感動している様子だ」と言い出した。私はひと言もしゃべらず、黙って聞いていた。彼女は続けて、「息子さんは身長が5フィート8インチ(173センチ)くらいで、聡明な顔つきに見える」と言った。これは、数日前のアン・クーパーとのシッティングでも言われたことで、特に驚くことはなかった。ところがアン・ターナーは、さらに、「息子さんが、自分の名前を『キ・ヨ・ノ・リ』と名乗っている・・・・」と続けたのである。私は激しくこころを打たれた。そのあとも、次々に彼女は、1983年、飛行機事故、家族だけしか知らない私の足の傷跡のこと等々、極めて正確に真実を描き出していった。言っていることにひとつの間違いもなかった。あり得ないことが起こって、一言もなく耳を傾けていた私は、ただ、深く項垂れるばかりであった。

 あの時、やはり潔典はそこに来て、私の目の前に立っていた。「非常に感動した様子」を見せながら――。潔典は生きている。その他の可能性は何も考えられなかった。この重大な事実を前にして、それまでの私の、霊の世界や死後の生命に対する長年の無知蒙昧、疑惑、不信、逡巡などは一瞬にして吹き飛ばされた。私はその時から、否応なく、霊的真理に目覚めていくことになったのである。アン・ターナーの霊能力のお陰であった。もしかしたら、そのシッティングを、高位霊Teacher Chang も霊界から見守ってくれていたのかもしれない。

 私は、その後、アン・ターナーの家でも、何度も彼女の前に座って霊界からのメッセージを受け取っていたが、一度、その Teacher Chang から頭を優しく抱きかかえられたことがある。大先生は、それまで何年もの間、悲しみ苦しみ嘆いてきた私を憐れんでくれたのであろう。それはその時の感じで私にもわかった。しかし、現実に私を抱きかかえているのはアンである。私はちらっと彼女の目を見たが、それは深く沈んだ空虚な目であった。霊界と交信しているその時のアンは Teacher Chang になりきっていて、そのような自分の動作は何も覚えていない。そんな時には、仮に自分の腕や足を切り取られたとしても、何の痛みも感じないだろうと、アンは目覚めたあとで私に言った。

 大英心霊協会に所属する数十人のミーディアムたちは、みんな優れた霊能力の持ち主であった。自分たちの霊能力を人々を救うために役立てたいと、30分のシッティングで、日本円に換算すると1,500円くらいの、ほとんど交通費だけの安い料金で奉仕活動を行っている。特に、心霊治療のヒーリング・コースなどは無料であった。患者が難病を治してもらったりしてお礼の気持ちを伝えたければ、協会の入口に設けられている小さな募金箱に気持ちだけの寄付をすればよいことになっていた。霊的真理を伝えるのに、金銭的利益を求めてはならないのであろう。だから、大英心霊協会のミーディアムたちは、みんな謙虚で献身的であった。

 私は、そのうち 20人ほどのミーディアムたちから、矢継ぎ早に、シッティングを受けていた。それぞれに極めて正確度の高いメッセージを私に伝えてくれたが、そのようなミーディアムのなかでも、アン・ターナーは群を抜いた霊能力の持ち主で、私にとっては特別の存在であった。彼女は大英心霊協会で初めて会って以来、その後十数年にわたって、霊界にいる妻・富子、長男・潔典とこの世の私とを結ぶ貴重なパイプ役になってくれたのである。このことについても、私は、著書やホームページにいろいろと書いてきたから、ここでは繰り返さない。

 イギリスでの一年の滞在を終えて、1992年4月に日本へ帰国してからも、私は毎年のように、夏休みや春休みにイギリスへ出向いて、彼女の自宅を訪れ、霊界からの妻と長男からのメッセージを受け取っている。特に、長男・潔典の誕生日である 6月5日には、毎年、私から潔典宛ての手紙を書き、それに対する返事を、アン・ターナーを通じて、潔典から受け取るのが慣わしになっていた。彼女が後にウェールズへ転居した後も、それは一度も欠かさず続けけられていたが、2008年の6月になって初めて、その「文通」は中断された。アン・ターナーの右肺にがんが見つかり、病院で受けはじめていた化学療法のせいで、体力と気力が衰えてきたからである。

 病院では、彼女の右肺を手術で取り除き、そのあと放射線治療を続けることを考えたようであるが、肺気腫も両方の肺に認められて、生命の危険が伴うということで手術には踏み込めなかった。しかし、化学療法を何か月か続けても症状は改善せず、肺がんはさらに大きくなってきたので、医師たちは相談のうえ、6週間の集中強化放射線治療を試みることになった。これにも生命のリスクは伴うが、その方法しか取るべき手段はないということで彼女も同意せざるをえなかったらしい。

 その年2008年の8月5日、その集中強化放射線治療を受けるために、指定されたサウス・ウェールズの放射線専門病院を、アン・ターナーは夫君のトニーに伴われて訪れた。たまたま、8月5日は、彼らの結婚記念日でもあった。予約は午前11時であったが、10時前にはもう病院に着いたらしい。アン・ターナーはかなり緊張していたという。待合室に隣接する小さなコーヒー・ショップで、夫君とお茶を飲みながら診察の時間を待つことにした。

 そのコーヒー・ショップの片隅には、200~300冊くらいの古本を並べた書棚があって、その売上金は、がん研究のために寄付されることになっていた。お茶を飲み終わった夫君のトニーが立ち上がって、その書棚の前でふと目に留まった一冊の本を取り上げた。それが1983年の大韓航空機事件を扱った R.W.Johnsonの 『SHOOT DOWN (撃墜)』であった。トニーからその本を受け取ったアン・ターナーは、この「偶然」にことばを失うほど、ひどく驚いたらしい。わざわざその本の写真を撮って私のところへ送ってきた。その手紙で、私は、その時も彼女が、霊界の富子と潔典のふたりと会話を交わしていたことを知った。そこには、次のように書かれていた。

 《……そこで、トニーが取り上げたただ一冊の本が、大韓航空機事件を扱ったこの本だったのです。これで、私は、富子さんと潔典君が来てくれていることがわかりました。富子さんと潔典君は、私が、その病院を選んでその日に訪れていることが、治療のためには非常によいことだ、などと話してくれました。》

 夫君のトニーも霊能力者であるが、私は彼には家族のことは何も話していない。私の妻と長男が大韓航空機事件の犠牲者であったことも知らなかったはずである。しかし、そのときは何かを感じ取っていたのかもしれない。アン・ターナーにも、事件のことは私自身からはほとんど何も話していないが、彼女は、霊界にいる私の妻や長男とはミーディアムとして何度も会い、話をしているので、事件だけではなく、富子と潔典のことは、それぞれの容貌から性格、人となりを含めて、熟知していたといってよいであろう。

 アンとトニーは、そのとき、富子と潔典も、その場に来ていることを察知して、一度に緊張や不安が消し飛んだという。やがて診察室に呼ばれて、その病院での最初の診察を受けたときには、富子と潔典はアンの手を握りしめて、彼女を励まし、慰めていたらしい。その様子が彼女の手紙には、こう続けられている。

 《トニーも私も、信じられないほど元気づけられたのです。緊張が一度に解けて、すっかり楽になりました。私が診察室へ入ってからも、富子さんと潔典君は、そばにいてくれました。私の手を握って私を慰め、温かい愛と癒しの力で私を包んでくれました。私が診察の間、目を閉じているときにも、ふたりからの光が感じ取られました。
 誰があの本を、この待合室に寄付したのかわかりませんが、霊界では、私が 2008年の8月5日に、そこへ行くことを予知してその本を置いてくれていたのでしょう。それは、霊界からも見守ってくれていることの証しです。毎日、霊界から愛を送ってくれていることに、私たちは感謝しています。》

 霊界では、すべてお見通しで、8月5日にアン・ターナーがその放射線専門病院に来ることも、彼女よりも先に知っていた、というのであるが、それはおそらく、その通りであろう。ただ、アンは、その日にその病院で、最初の集中強化放射線治療を受けることになると思っていた。しかし、それは、そうではなかった。その日の診察は、右の肺がんの大きさや位置を改めて確かめ、強度の放射線を正確にがんに照射するための予備的な診察であったらしい。手順を誤ると生命に関わるので、その予備的処置には、その後の診察を含めて何週間もかかった。そして、やっと、最初の放射線を照射する日が決まった。それは9月1目であった。奇しくも、大韓航空機事件の起こった日と同じで、私の妻と長男の命日である。

 2008年9月1日――。その日には、私は、北海道・稚内の「祈りの塔」の前で行なわれた事件後25周年の慰霊祭に参加していた。「祈りの塔」には、私が書いた「愛と誓いを捧げる」の詩文と英文の「事件概要」のほか、犠牲者269人全員の名簿が壁に刻まれている。そのなかの「武本富子」、「武本潔典」の名を私は行くたびに辛い思いで見直していた。この同じ9月1日に、時差の違いはあるが、遠く離れたイギリスのウェールズで、アン・ターナーは生命のリスクが決してないとはいえない最初の強力な放射線治療を開始していたのである。別の手紙で、彼女は、その「偶然の一致」を、こう伝えてきた。

 《あなたが稚内で、慰霊祭に参加しているとき、私は最初の放射線治療を受けていました。そのときも、富子さんと潔典君は、私に癒しのエネルギーを送ってくれていました。私はそのことを、こころから感謝しています。》

 その日も、富子と潔典は、放射線治療室に横たわるアン・ターナーのそばにいて、癒しの手を差し伸べていたというのは、不思議といえば不思議であるが、彼女にはそれがわかるのであろう。アン・ターナーは、事件後、無知で頑迷な私を救い出すのに大きな役割を果たしてくれた。私は彼女のお陰で、悲歎と絶望の淵から生き返ることが出来た。富子と潔典も、その彼女には、私と同様に、あるいは私以上に、深い恩義を感じているはずである。彼らは彼らなりに、少しでも、彼女への誠意と感謝の気持ちを示したかったのかもしれない。

 そのアン・ターナーは、9月1日からの放射線治療で、期待以上の成果があったらしい。少なくとも、肺がんのそれまで以上の成長は止められた。彼女はその後も病院通いは続けたが、そのころの手紙では、肺がんを根絶することは無理にしても、いまは、がんが「冬眠状態」になったと医者に言われている、とあった。そして、「私はいまはとでも元気です」と、付け加えていた。

 その療養生活の間に、彼女は、かねてからの念願であったスピリチュアリズムの本を書きはじめ、翌年の 2009年に、夫君のトニーとの共著で 『LIVING BREATHING SPIRIT(「霊は元気に生き続ける」、Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex,2009)を出版した。さらに次の年の春には、同じく夫君との共著で、『WALKING WITH SPIRIT(「霊と共に歩む」、Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex, 2010)も出版している。この二冊とも、その中には、私との十数年に及ぶ手紙のやり取りや、霊界にいる私の妻と長男への「文通」なども含まれている。しかし、この出版の後、アン・ターナーは、肺がんが進んで、2010年8月22日に、霊界へ還っていった。いまとなっては、この二冊の本は、私に遺された彼女の形見になった。

 生前のアン・ターナーは、死を少しも怖がってはいなかった。痛いのはいやだが、死ぬのは平気だと言っていた。その彼女は、霊界の安らかな生活も熟知していたから、少しも迷うことなく、穏やかに霊界へ還っていったはずである。大先生の Teacher Chang からも、「よく帰ってきた」と愛娘を迎え入れるように歓迎されていたにちがいない。いまも、霊界でいろいろと導かれて、霊的真理の学びを深めていることであろう。

 私は、霊界の妻や長男を含めて、このように、彼女とはいわば家族ぐるみの付き合いをしてきた。彼女は富子や潔典ともすっかり「顔見知り」になっていたから、これはこの後でも触れるが、霊界でも懐かしい「再会」を果たしていた。しかし、私自身は、もうこの世では彼女とは会えなくなってしまって、やはり、淋しい気がしてならない。葬儀は2010年8月31日に行なわれたが、その頃の私の体力では、アンの家のあるイギリスのウェールズまで行けそうもなかった。香典を送って、トニーに霊前に私からの花束を捧げてくれるようにお願いした。

 その翌年、2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生した。私は、その頃、『天国からの手紙』の原稿の終章を書き始めたところであった。やがて本文原稿のすべてを書き終えて、「あとがき」のなかで、私は次のように書き加えた。

 《・・・・・・いまは、何よりもまず、被災者の方々が立ち直っていくために一番必要なものは何か、を考えていかねばならない。もちろん、それは、食べ物であり、水であり、燃料であり、住む家である。ライフラインの早急な復活も切実である。しかし、それだけでは、人は生きていけない。やはり、被災者の方々が立ち直っていくために何よりも必要なことは、「いのちの真理」を知ることであろう。それが一番大切である。私がそれによって、立ち直ることが出来たように。
 私たちは、この地上世界で、狭い、短い、物的な尺度でしかものを見ないが、その尺度では、この世は、不公平だらけである。特に、今度の大震災では、その不公平感が最大限に拡大されていてもおかしくないように思える。しかし、誤解を恐れずに言えば、宇宙の摂理のなかでは、不公平はない。地上生活は永遠の生命から見れば、ごく短い、一瞬でしかないから、そこでは不公平に大きく傾くことがあっても、霊的な永遠の天秤では、やがて必ず平衡を取り戻すのである。
 愛するご家族を失って嘆き悲しんでおられる多くの被災者の方々には、涙を禁じえないが、それらの方々にも、あえて私は申し上げたい気がする。愛するあなた方のご家族は、決して「死んで」はいない。私の愛する家族が死んでいないように・・・・・》 

 この『天国からの手紙』の出版も、実は、天の計らいであった。霊界の潔典も企画の段階から関わっていたようである。すべて霊界からの示唆と支援により、ことがすらすらと運ばれていった感じで、私が発案して出版社へ持ち込んだのではない。かねてより、霊能者たちからの「予言」で、この種の本を出版することになることは知らされていたが、アン・ターナーの死後、しばらくして、思いがけなく出版社と編集者たちからの要請をうけて、この本を書き始めることになったのである。その時の本書担当の編集者のひとりが Sさんで、彼女は有能な霊能力者である。

 この本は、東日本大震災の 2か月後に出版されて、2011年6月5日には、東京都江東区の清澄庭園「大正記念館」で、出版記念講演会が開かれた。6月5日は潔典の誕生日なので、講演会終了後、近くのレストランで、編集者の方々が、潔典の誕生祝いを兼ねて、出版祝賀会を開いてくれた。編集者の Sさんは、この本の出版にあたって、霊界の潔典から、題名が「天国からの手紙」になること、江原啓之さんに推薦文を依頼することなど、度々メッセージを受け取っていたようである。そのなかには、私宛の手紙も何通か含まれていた。この出版祝賀会の時も、Sさんから席上で、潔典から私への新しく届いた手紙を手渡された。

 そのなかで、潔典は、「アン・ターナーはこちらに参りました。神々様のお使いになるべく、日々、修行に励んでおります、僕たちとは縁で結ばれた方です。お互いにお互いを救う境遇にあります。こちらにおいても、現世のお父さんたちをも含めて、お互いに導き、助け合うことが行われるのです・・・・・」などと、書いている。そして潔典は、アン・ターナーから託された私への手紙を、「アン・ターナーからお父さんへ」として、つぎのように彼女のことばを伝えてきた。

 《私たちは縁があって、めぐり合い、共に歩んでまいりました。私はこの縁を大変有難く思っています。こちらに来て、キヨノリとめぐり合い、富子さんともお会いしましたが、思っていた通りの方々でした。素晴らしい方々です。
 私はおふたりに大変お世話になりましたが、これも、ショウゾウ、あなたとの縁が結びつけてくれたものです。さまざまなつながりの中で、人と人が和すること、これこそ日本人が本来もつ素晴らしい資質ですね。
 いま日本は、大震災で大変な時にありますが、あなたのその苦しみの経験から得たものを用いて、多くの人々が目覚める導きができることを、こころから願っています。
 霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ、ショウゾウ――、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしています。どうかお体に気を付けて、それまで、多くの人々を導く活動を続けて下さい。
 そうそう、たまには、トニーにも連絡してあげてくださいね。私は元気でいることをお伝えください。それでは、またお会いしましょう。―― アン・ターナー》

 手紙では、このあとまた、潔典の、出版を祝うことばが続くのだが、長くなるのでその部分は割愛する。ただ、アン・ターナーが、サウス・ウェールズの放射線専門病院で最初の診察を受けたとき、富子と潔典がアンの手を握りしめて彼女を励まして以来、アン・ターナーが霊界へ還ってからも、このように富子と潔典との和やかな交流が続いていることは、私にとっても有難いことである。いま 92歳の私も、やがてその仲間にいれてもらうことになるであろうが、その私には、アン・ターナーの「霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ」 といっていたことばが、殊更に優しく響く。その彼女の、今日は、没後12年目の13回忌を迎えて、私は改めて、アン・ターナーとの家族ぐるみの奇しき縁を思い浮かべながら、彼女の霊界での神の使徒としての恙なき修行を、こころからお祈りしたい気持ちである。




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    生と死の狭間で         (2023.02.18)


 昨年9月27日の朝、意識ははっきりしていたが急に体が動かなくなって、私は救急車で病院へ運ばれた。東京西郊の大学付属病院である。CT検査などを受けた後、急性腹膜炎、結腸穿孔と診断され、担当の外科医は、ベッドの私の枕元で手短に病状を説明した後、「手術しなければ致死率100パーセントです。手術してもいいですね」と言った。手術するかどうかを相談するというのではなく、この場合は手術するのが当然だという響きがあった。私は、気持ちを乱されることはなかったが、着の身着のままで家を出て、コロナ感染予防の厳しい隔離状態の中でこのまま死んでしまうのは不本意な気がした。ちょっと考えて、その医師に、「はい」と答えた。

 通常ならば、病状が明らかになった段階で、家族とも相談したうえで、入院手続きをし、手術の可否を検討する時間も十分に与えられるものであろう。それが、いきなり病院に運ばれて即日手術を受けることになろうとは、予想はしていなかった。私は、その10年前に、大腸がんと腹部動脈瘤で手術を受けている。その後は、死亡「適齢期」に入ったこともあり、もう延命のための手術を受けることはしない、と自分では密かに決めていた。それなのにまた手術を受けることになったのである。

 人間はこの世に生まれても、いつかは必ず死ぬから、その意味では、誰でも「致死率100パーセント」の宿命をもって生きている。いつ死ぬか、どのような原因で死ぬのか、わからないだけである。死因の一番多いのはがんで、そのがんに、いまは二人に一人が罹患しているといわれている。私は、かつての大腸がんの手術では、その後の転移、再発もなく死ななかった。しかし、がんでなくても、事故以外は、何らかの病気で死んでいくのは自然である。だから私も、それからは病気になっても手術などは受けずに、その「何らかの病気」で死んでいけばよいのだと思っていた。今度の手術は、想定外であった。

 もう 3年前、89歳の時に、私はそろそろ死ぬ潮時だと思って、遺書のつもりで、小冊子『生と死の真実を求めて ― 肉体は滅びても人は生き続ける』(2019年10月10日)を書いている。しかし、その後まもなく、コロナのパンデミックが始まって、死ぬに死ねないような状況になった。世界中で猛威を振るうそのコロナの感染がまだ収まらないうちに、今度は、昨年2月に、ロシアがウクライナへ侵攻して、その戦争の惨状はいまも毎日のように報道されている。私は自分の最晩年で、コロナ禍とウクライナの戦争という二つの世界的な異常事態を身近に感じながら、東京の片隅で思いがけなく大きな手術を受けて入院生活を送ってきたことになる。

 手術の後、集中治療室で数日過ごした時には、ベッドで横になったまま点滴や酸素、心電図などの数本のチューブが繋がれ、ほとんど身動きも出来ない状態が続いた。一般病室へ移ってからも、何週間も、自分一人ではベッドから起き上がれなかった。大きな開腹手術であっただけに、92歳の老齢では、肉体的負担も重かったようである。鎮痛剤のお陰で、激しい痛みや苦しみを感ずることはなかったが、肝心の食欲が全くなく、はじめの2週間ほどは、病院食には一口も手をつけられなかった。体重は10キロほど落ちた。

 このままでは体力が回復しない。何か食べなければいけないと、運ばれてきたプレートの夕食を眺めていると、そのうちの小鉢に盛られた人参とほうれん草のおひたしが目についた。赤色の鮮やかな人参が、食べるのをためらっている私に、「わたしはいのちです。私を食べて下さい」と語り掛けているような気がした。緑のほうれん草も、おなじことばを私に投げかけているようであった。私は、こころを動かされて、やがて、そのおひたしをゆっくりと口に運んだ。それからは、食事ごとに、少しずつ食べる量を増やしていった。出された病院食を初めて全部食べたのは、1か月以上が過ぎた11月1日である。手術後36日目のスパゲッティの昼食であった。

 担当の医師からは手術の経過は良好であると告げられていたが、やはり入院生活は不自由である。コロナウイルスの院内感染もあったりして、家族との面会も一切禁じられていた。時折、家から届けてくれた本や新聞の束などもナースステーションを通じて受け取り、ベッドの上で読んでいた。点滴、採血、検温、服薬、手術後の傷の手当、医師の回診、レントゲンやCTの撮影などが繰り返されるだけで、私は一日のほとんどを、ベッドに横たわって過ごした。それが何週間も続くと辛く感じることもなかったわけではない。しかし、宇宙の摂理のなかでは、身の回りで起こることのすべては自分のために必要な経験である。こういう入院生活も私にとってはおそらく必然で、意味があるのであろう。自分の今生での最晩年を精神的に豊かにする、これも天から与えられた貴重な学びなのである。私は、今度の病気も手術もあまり苦にすることなく、すべてを感謝して受け入れていかねばならないと思っていた。そう思うと、気持ちが落ち込むこともなかった。

 私が、その、ベッドに縛り付けられていたような生活から解放されて、退院の日を迎えたのは、11月18日である。7週間ぶりに家に帰って、娘夫婦と双子の孫娘たちと、取り寄せてくれた握りずしを食べたときには、世の中にはこんな旨いものもあるのだと、身に染みて有難かった。手術の後遺症はまだ少し残っていて、私はいまも外来患者として病院に通っている。体力は年相応に衰えて、歩くのには歩行器が必要だが、気持ちだけは元気で、穏やかに毎日を過ごしている。今日で、退院してから2か月になるが、私は、改めて、自分が92歳になってもまだ死なずに、こうして生かされている意味をしみじみと考えさせられたりしている。




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      この世の長寿について考える           (2023.03.23)


 いつの世でも、人々の間では、長寿願望は根強い。長生きすれば幸せで、短命に終われば不幸であると、受け止められているのが普通である。しかし、なかにはそのようには考えない人もいる。鎌倉時代末期(14世紀)の仏教僧、吉田兼好もその一人であった。兼好は、日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者である。その随筆のなかで彼は、「長生きすると恥をかくことも多い。長くとも40歳そこそこで死ぬのが無難である」と書いている。ここでは、まず、それが書かれている『徒然草』7段について、みてみることにしたい。角川文庫の『徒然草』(今泉忠義訳注、2001年)を参考にして現代文に訳すと、この7段は、こう書きだされている。

 《あだし野の露のように、人の命ははかないものだが、その命の消えるときがなく、また鳥部山には火葬の煙が立ちどおしであるが、その煙のように立ち去らないで永久にこの世に住み通す習いであったなら、どんなにかものの情趣などはないことだろう。人の生命などというものは、いつ死ぬかわからないように、定めのないのがかえっておもしろいのだ。》

 ここで兼好は、人間が「永久にこの世に住み通す習いであったなら、ものの情趣などはない」といっている。これはもちろん、霊的な意味で生命が永遠であったなら、といっているのではない。「いつまでも死なないでこの世に生き続けたら」、といっているのである。それでは情趣などはない。「いつ死ぬかわからないように、定めのないのがかえっておもしろい」というのが、兼好の意見である。そして、この後、こう続けた。

 《この世で生命を持っているものを見渡しても、およそ人間ほど寿命の長いものはない。 短命の例としては、かげろうは生まれてもその日の夕方を待たないで死に、夏の蝉も春秋を知らないで死んでしまう。そうしてみると、人間の命は長い。だから、わずか一年の間でもしずかに送るという、そのことを考えてみただけでも、至極ゆっくりとした気持ちになれるのではないか。》

 こういったあとで、兼好は、「どうせ住み通せないこの世の中に、老いぼれて醜い姿になるまで生きのびたとしても何になろうか。命が長いと、それだけ恥も多い。いくら長くても、四十に足りない年ごろで死ぬのがみっともなくないというものだろう」という冒頭のことばを綴っている。この、40歳前に死ぬことを推奨する理由が、この後にこう続く。

 《その年ごろを過ぎてしまうと、容貌の醜いのを恥ずかしがる心もなくなって、人中に出しゃばったりすることを考え、余命いくばくもない身で子や孫を愛して、その子や孫が立身出世するさまを見とどけるまでの寿命を期待したりして、むちゃにこの世に執著する心ばかりが深くなって、物の情趣も何も、わからなくなっていくのは、あきれたものだ。》

 兼好は、こんなことを言いながら、自分自身はのうのうと60歳過ぎまで生きたではないか、というような批判もあるが、彼の生きた鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての当時でも、40歳前で死ぬというのは、おそらく早過ぎると思われていたであろう。

 もっとも、古い時代では、幼児死亡率が高かったから、たとえば、鈴木隆雄『日本人のからだ―健康・身体データ集』(1996)などによれば、日本人の平均寿命は、縄文時代(男14.6歳、女14.6歳)、室町時代(男15.2歳、女17.3歳)、江戸時代(男40.0歳、女42.0歳)となっていて、かなり低い。5歳平均余命でみると、縄文時代でも、男21.9歳、女22.0歳と、少し上がってくる。兼好の時代のデータは見当たらないが、5歳平均余命では、男女とも、おそらく、25歳を超えてはいなかったにちがいない。ただ、成人社会の感覚では、40歳を超えても生きるというのが、自然であったであろう。それを兼好は、40歳以上生きることをよしとせず、「命が長いと、それだけ恥も多い」と、言い切った。

 これに対して、「五十、百歳にも自ずから四季がある」と、早く死ぬことにこだわらない姿勢を見せたのが、幕末の動乱時代を生きた吉田松陰であった。吉田松陰は1830年9月20日、現在の山口県萩市で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、老中首座の間部詮勝暗殺を計画する。この結果、伝馬町牢屋敷に投獄されて死刑の宣告を受け、1859年11月21日に刑が執行された。享年29歳(数え年で30歳)であった。その吉田松陰が、死を前にして獄中で書いたのが『留魂録』である。そこには、こう書かれている。

 《私は三十歳で生を終わろうとしている。
 未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
 だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。》

 ここでは、「人の寿命には定まりがない」と述べ、自分の30歳の生涯も、「花を咲かせず、実をつけなかったことに似て」いても、「やはり花咲き実りを迎えたとき」であると心情を吐露している。そして、こう続けた。

 《人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。》

 夭折を惜しむとか、長寿を望んだり厭ったりするのではなく、人は何歳で死んでも、それぞれに充足した意味がある。それを松陰は、このように、それぞれに相応しい四季があると述べている。そして、「十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない」と続けた。その上で、最後に死んでいく自分の心境を、弟子たちにこう伝えた。

 《私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。
 もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。
 同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。》 (参照:古川薫『吉田松陰 留魂録』)

 9歳のときに藩校明倫館の兵学師範に就任し、11歳のときには、藩主・毛利慶親の前で見事な御前講義をしたという秀才の誉れの高かった吉田松陰は、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」などの多くの名言を残している。松下村塾での弟子たち、幕末の歴史に大きな足跡を残した久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義たちにも、多大の影響を与えた。そして、最後には、獄中でこのような『留魂録』を書き遺して、30歳で従容として死んでいったのである。見事な生涯であったというほかはない。

 霊的真理の観点からいえば、生命は永遠で、私たちはこの世と霊界との間で輪廻転生を繰り返していくから、早死にを特に悼んだり、長生きを殊更に羨望の的にすることもない。誰でも、何度も何度も、死んでは生まれ、生まれては死んで、早死にしたり、長生きしたりして、霊的向上の道を歩んでいるからである。松陰が霊的視点をもっていたとは考えにくいが、人は何歳で死んでも、それぞれに花を咲かせ、実をつけている四季がある、という松陰のことばは、生と死の霊的真実と根本的には軌を一にしている。ただ、それでも、通常は、この世では、夭折は嘆かわしく、長寿が目出度く望ましいと、考えられることが多いということであろう。

 つぎに、このホームページでもリンクさせていただいている大空澄人氏の『続・いのちの波動』の霊界便り「長生きは罰」を引用しておきたい。これは、氏が友人からの霊界便りを紹介(2022.03.23) したものである。優れた霊能者である氏は、ここで、こう切り出している。「彼岸の中日の夕方、墓参りに行ってみた。我が家の墓地の前に立ってみると8年前に他界した竹馬の友の気配がした。我が家の先祖ではなく他の家の者がその場に現れるのは異例なことである。彼からは次のようなメッセージが伝わってきた。」

 この前置きのあと、友人からのことばを伝えているが、これは霊界からのメッセージであるだけに、重みがある。死ぬことは怖いから何が何でも長生きしなければいけないというような、現世でありがちな思い込みからも、当然、解放されている。その65歳で霊界へ旅立ったという友人のことばは、こうである。

 《人間は長く生きる程、嫌なものを見たり体験しなければならないはずだ。年を取るほど楽しい事より嫌なものが増えてくるのではないかな。世間は長生きすることが幸せであるかのように言っているけど本当は違う。逆なのだ。君も早くこっちに来れば良いのに。そっちは楽しいところじゃないよ。人生はせいぜい65歳くらいで十分じゃないかな。》

 現在の日本人の平均寿命は、2022年版の『世界人口白書』(State of World Population)によると、男性は82歳、女性は88歳で、世界でも最も長生きしていることで知られている。この平均寿命からみても、65歳くらいで死ねば、まだ早過ぎると惜しまれるのは自然であるかもしれない。しかし、霊界からの視点では、このように、「長生きは幸せではない」という見方もされているのである。

 私たちは、今生に生を享けた時には、宇宙の摂理の中で、一人ひとりが決められた寿命をもって生まれるといわれるが、その事実は誕生の際に魂の奥深くにしまい込まれて、意識されることはない。それを意識できたのは、空海やスウェーデンボルグのようなごく少数の超能力者だけである。結局、私たちは、長生きの是非に捉われることなく、定められている自分の寿命を、何時でも、素直に受け入れることだけを考えていけばいいのかもしれない。

 シルバー・バーチは、「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです」と言っている。(『霊訓(1)』p.109) これは、地上生活を学校に譬えれば、私たちがどのような学校に入学して、何を学び、何時卒業するかを、自分なりに理解し納得したうえで、この世に生まれてきたということであろう。この意味では、短命は飛び級で一足早く卒業することであり、長寿は、学ぶべきことを学べ終えられずに、卒業が延び延びになっている状態だといえなくもない。そして、やはり大切なのは、在学年数の長短よりも、何を学び終えたかということである。この点についても、シルバー・バーチは、「長生き自体が大切なのではない」と、こうも言っている。

 《肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です。
 肉体が地上で永らえる年数を長びかせることは神の計画の中にはありません。リンゴが熟すると木から落ちるように、霊に備えができると肉体が滅びるということでよいのです。ですから、寿命というものは忘れることです。長生きをすること自体は大切ではありません。
 地上生活のいちばん肝心な目的は、霊が地上を去ったのちの霊界生活をスタートする上で役に立つ生活、教育、体験を積むことです。もし必要な体験を積んでいなければ、それはちょうど学校へ通いながら何の教育も身につけずに卒業して、その後の大人の生活に対応できないのと同じです。》 (『霊訓 (10)』pp.62-63)

 要するに、私たちの一生は、短命であっても長寿であっても、それなりに意味がある。短命が必ずしも嘆かわしいことではなく、長寿が常に目出度いわけでもない。天の摂理のなかで今生を生かされていることを肝に銘じながら、短命であれ、長寿であれ、自分に与えられている霊性向上の道を、着実に、明るく素直に歩んでいくように心がけていけばよいのであろう。




     **********



    生と死の真実の前に立ちはだかる壁        (2023.04.20)
       ― なぜ霊的真理が信じられないのか ―


          [目 次]
         はじめに
         1. 信心とはどういうものか
         2. なぜ急いで極楽浄土へ行きたいと思えないのか
         3. 霊的真理を理解するための魂の準備
         おわりに
  


  はじめに ―  二つの真理のことば

 2,500年前に悟りを開いて涅槃に入った釈迦は、生死輪廻を繰り返すこの迷いの世界を去って、極楽浄土へ往生することを説いた。3,000年前にこの世から霊界へ還って高位霊となったシルバー・バーチは、20世紀にこの地上に降りてきて、人のいのちは永遠であり、この世で死んでも、霊界で生き続けることを教え続けた。この極楽浄土が実在し、人の命が永遠であるというのは、私たちに示された動かしがたい真理である。それを支える数多くの傍証も存在する。もし私たちがそれらを正しく受け止めて、その真理を素直に信じることができれば、それは、私たちの人生にとって大きな福音であり、何ものにも替え難い貴重な宝になるはずである。
 しかし、世間では、そのような真理は、夢想・妄言の類いとして馬耳東風のように受け流されてしまうのが普通である。それでいて、自分自身が急に、思いがけない病気や事故に遇って死に直面し、余命がいくばくもないと知った時などには、驚き慌てて、全財産を投げだしても何とか命を長らえる方策はないものかと血まなこになったりもする。なぜ、目の前にあるその単純明快で重大な真理が受け容れられずに、そんな浅ましいことになるのか。それを考える手がかりの一つになるのが『歎異抄』である。本稿では、先ず『歎異抄』を取り上げ、それから、シルバー・バーチの教えにも触れていきたい。



  1. 信心とはどういうものか

 『歎異抄』の第2段は、遠路をものともせず訪ねてきた信徒たちに、親鸞が、「皆さんが十余国を越え、命がけの旅を続けてはるばると、関東からこの京都まで私を訪ねてこられた目的は、ただただ極楽往生の道を教えてほしいと考えてのことでしょう」と声をかけているところから始まっている。「命がけの旅を続けて」とは容易ならざることであるが、それには、次のような事情があった。
 かつて親鸞は、常陸の国を中心に下総、下野、武蔵などの関東諸国に他力本願の念仏を説いてまわっていたことがあった。その後親鸞は、1235年、63歳の頃、関東を去って京都に帰ったのだが、残された関東の信徒たちの間には、やがて信仰に対する考え方の相違から正統派と異義派との対立がおこり、その対立は年をおって激しくなっていった。その信仰上の動揺を鎮めるために、親鸞は、長男の善鸞を関東へ派遣した。しかし善鸞は、信徒たちの前で、父の親鸞は念仏以外にも往生の方策を知っていて、それを密かに自分に伝えた、というようなことを信徒たちに言ったのである。これが異端事件の発端となって、善鸞は1256年、父親の親鸞から義絶された。
 そのような混乱のなかで、一部の信徒たちが、あらためて親鸞から直接教えを受けようとして、関東の常陸の国から東海道十余ヵ国(常陸、下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城) をはるばるとこえて、京都へやってきたのである。
 東海道といっても、鎌倉時代であったから、「東海道五十三次」などが整備されていた江戸時代などよりは余程不便で危険も多かったにちがいない。その命がけの旅をしてきた信徒たちを前にして、親鸞は突き放すように次のように言った。

 「あなたがたは、私が念仏以外に往生極楽への道を知っているだろうとか、いろいろと経典以外の教えにも通じているだろうとか勝手に考えているようだが、それはとんでもない誤りである。それを教わりたいというのであれば、奈良や比叡山にすぐれた学僧が大勢おられるのだから、そういう人たちに会って往生の道を詳しくお聞きになればよいのだ」。

 ここで親鸞が、奈良(興福寺、東大寺)や比叡山(延暦寺、三井寺)の「すぐれた学僧」に言及しているのは、実は、彼らの僧侶としての学識・実践を認め、敬意を払っているからではない。
 当時の奈良の興福寺や比叡山の延暦寺などには数多くの学僧がいても、仏典の真髄を把握し、仏道を真に実践できるものは極めて少ないことを親鸞はよく知っていた。彼自身が比叡山における修業に見切りをつけ、山を下りて以来、彼等から異端視され迫害をうけてきた苦い体験をもつ。ついには越後国へ流されもした。その親鸞が、彼らに会って往生の道を聞け、と言っているのは、おそらく精一杯の皮肉で、実際は、彼らに聞いても往生の道など聞けるはずがない、と言いたかったのであろう。
 そしてその後に、親鶯は率直にそして強いことばで、彼自身の入信のいきさつを告白する。「私は、ただ念仏をとなえて阿弥陀仏に助けていただくだけだと、法然上人に教えていただいたことを信じるのみである。そのほかは何もない。念仏をとなえれば、本当に浄土に行けるのか、それとも地獄に落ちるのか、そんなこともどうでもよい。かりに、法然上人に騙されて、念仏したあげくに地獄に落ちたとしても、私は決して後悔はしないであろう」と。
 これは、ずいぶん思いきった言い方である。関東からはるばる命がけの旅を続けてやってきた信徒たちは、いま固唾をのんで親鸞の顔を見守っている。この緊迫した雰囲気のなかで、真剣な信徒たちの眼差しを前にした親鸞は、赤裸々な自分自身の姿をさらけ出して信念を披瀝しなければならなかった。まかり間違えば師としての信を失いかねず、仏道の教えにも疑問を抱かせることにもなりかねないことばである。そのようなことばを、確固たる信仰の証しとして信徒のこころに直裁にしみ込ませていったのは、おそらく親鸞のその時の気迫であったにちがいない。
 彼はさらに続けていう。「そのわけは、念仏よりほかの修業を励んで悟りを開けるはずであったのが、念仏に打ち込んだために地獄に落ちたというのなら、その時は師に騙された、という後悔もあるかもしれない。しかし、私はどのような修業もできない身だから、どうせ私には地獄がはじめから定められた行き場所なのだ」と。
 そして、最後をつぎのように結んだ。これは、信仰とはこういうものだと、親鸞が血を吐くようなことばで述べた真心からの告白であった。

 「阿弥陀仏の本願が真実であるならば、釈尊の教えにも嘘はない。釈尊の教えが真実であるなら、善導大師のお解きになったことにも誤りはない。善導大師のお解きになったことが真実であるなら、どうして法然上人の言われることが虚言でありえようか。そしてまた、法然上人の言われることが真実であれば、この親鸞の言うことも空ごとであるはずがない。これがつまり、私の信心なのだ。この上は、念仏を信じようが、捨てようが、それはあなたがたの勝手である」。
 
 この「法然上人の言われること」とは、「念仏さえ唱えれば、間違いなく極楽往生できる」という確言である。親鸞は信徒たちに、この師の教えに対する信心を真剣に伝えようとしていた。しかし、「念仏による極楽往生」というのは、わかるようで、一面では、なかなか実感を持ちにくい。信徒たちはそれを聞いただけで、どれだけ安心立命の境地になれたであろうか。
 ここでシルバー・バーチを思い起こすのだが、シルバー・バーチの、「あなたは死んでも死なない。霊界で永遠に生き続ける」というようなことばのほうが、もっとわかりやすく、誰にでも受け入れられそうな気もする。しかも、シルバー・バーチは、これを霊媒を通じて、自分自身のことばで私たちに直接語りかけているのである。
 シルバー・バーチに置き換えて言い直すと、前述の『歎異抄』第2段のこの最後の部分は、「大宇宙の摂理のなかでは、人の命が永遠であるというのが真実である。現に自分は3,000年前に地上で死んでも霊界でこうして生き続けている。その事実を伝えようとしている体験者の自分が嘘をつかねばならない理由はない。この上は、私の言葉を信じようが捨てようが、それはあなたがたの勝手である」、というようなことになるであろうか。
 しかし、シルバー・バーチが、このように半世紀にわたって語りかけてきた真理がいくらわかりやすいといっても、それですべての人々が現実に救われてきたわけではない。世間に広く深くいきわたっている「常識」が大きな壁となってこの真理を容易には受け容れようとはしないからである。この真理の前に立ちはだかる壁について、ここでまた、『歎異抄』に戻って考えてみることにしよう。


  2.なぜ急いで極楽浄土へ行きたいと思えないのか

 人間のいのちというのは、いま生きている間がすべてで、死んだらそれが最後で無になってしまうと思っているのと、いのちは永遠に続いて、霊界へ還っても人間は繰り返し生まれ変わるのだというのとでは、大変な違いである。そして、いのちが永遠に続くというのが本当であれば、それは、躍り上がって感涙にむせぶような大きな救いである。
 しかも、親鸞のいうように念仏を唱えて、死んだ後は、極楽とか浄土へと移り住むことになり、その極楽・浄土が光に包まれた壮麗な歓喜の世界であるとするならば、死ぬことは悲しみではなくて、心からの喜びでなくてはならない。本当に、そのような霊界とか極楽・浄土はあるのであろうか。
 この素朴な疑問について触れられているのが、『歎異抄』の第9段である。ここでは、親鸞に対して弟子の唯円が、「いくら念仏をとなえていても、どうも天に舞い地に踊るというような全身の喜びが感じられません。それに、真実の楽園であるはずの浄土へも、早く行きたいという気持ちが起こらないのはどうしてでしょう」と、率直に聞いている。
 親鸞も、それに対して率直にこう答えた。「実は私もそのことを不思議に思っていたのだが、そなたも同じであったか」と。そして、つぎのように自分の考えを披瀝している。

 「はるか遠い昔から今日に至るまで、生死を繰り返してきたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ見たこともない極楽浄土は恋しくないというのは、本当によくよく煩悩は強いものにちがいない。けれども、いくら名残惜しいと思っても、この世との縁が切れ、静かに生命の灯が消える時は、あの浄土へ行かざるをえなくなる。仏は、急いで浄土へ行きたいと思うことの出来ない者をことのほか憐れんで下さっているのだ。そうであればなおさら、大慈大悲の仏の本願が頼もしく、往生は間違いないと信じられる。逆にもし、天に舞い地に踊る喜びがあり、急いで浄土へ行きたいというのであれば、その人には煩悩はないのであろうかと、かえって疑わしく思われてしまうのだ。」

 これは、無明の闇のなかでは、「目から鱗」のことばになるかもしれない。いま、自分が住んでいるこの苦しみの多い、迷いの世界に執着して、あれほどすばらしい極楽・浄土へもすぐに行きたいと思えないのは、それほど人間のもっている煩悩が強いからだ、というのである。このような言い方には、強い説得力があると思われるが、ここで、改めて、「極楽浄土」の実存についても、見ておくことにしたい。
 親鸞の浄土真宗では「仏説阿弥陀経」というのがある。釈迦が大勢の弟子たちを前にして、西の方はるか彼方に、極楽という世界があることを教えているお経である。そこでは阿弥陀仏が今も法を説き続けている。その極楽というのは光り輝く壮麗な世界で、人は誰でも、阿弥陀仏の名号を唱えることによってその極楽に往生できる。そしてそのことは、東西南北上下の六法世界の数多くの諸仏によっても証明されているのだ、というような内容である。その「極楽」の叙述を現代文でまとめてみると次のようになる。

 「ここから西方に十万億の仏の国を過ぎたところに、極楽という名の世界がある。その世界には、限りない命と光をもった阿弥陀仏が住んでおり、いま現に教えを説いておられる。
 その世界に住む者たちには、体の苦しみも心の悩みもなく、ただ幸せがあるだけだ。その世界には、七重の石垣、七重の並木があり、それらは、金、銀、水晶等の宝石で飾られている。また、宝石から出来ている池があり、池の底には一面の金の砂が敷き詰められている。階段の上には御殿があって、七種類の宝石で飾られ、池の中には、車の車輪ほどもある大きい蓮の花が美しく咲いている。
 その世界では、常にすぐれた音楽が演奏されている。大地は黄金でできていて、昼、夜に三度ずつ、曼陀羅の花が降ってくる。白鳥、クジャク、オウム等、色とりどりの美しい鳥たちも、昼、夜に三度ずつ、優しい声で鳴く。そよ風が気持ちよく吹き渡り、宝石で飾られた並木を揺り動かして、美しい音が流れている。その美しい音は、あたかも百千種類の音楽を同時に演奏しているようである。」

 このお経のなかでも、「これは嘘ではない、本当のことなのだ」と何度も何度もくり返して述べられているのだが、しかし、「はるか西の彼方に極楽がある。これは嘘ではない」と言われても、世間の頑迷な常識に捉われている人々は、つい「本当だろうか?」と思ったりするであろう。
 地球は球形で一回りすると約4万キロである。今は飛行機で割合簡単に地球を一周できるから、日本から飛んで西へ西へと行けば、またもとの場所、つまり日本に戻ってきてしまう。極楽は一体どこにあるのか。地球の上ではなくて、それは、西の空の彼方にあるのだ、と言われても、そこには無限の大空が宇宙の果てまで広がっているだけである。それこそ何か、雲を掴むような話で、どうも実感が湧かないような気がすることもあるかもしれない。
 結局、極楽などというものは一種の気休めであるに過ぎない。人間というのは、他の生きもののすべてがそうであるように、死んだらそれでおしまいで、あとは灰になるだけだ、というように考える人が少なくないのも致し方のないことかもしれない。実際、人間が死んで葬儀が終われば、火葬場に運ばれて目の前で灰になっていくわけだから、「死んだらそれで終わりだ」という言い方には、それなりに、説得力があるようにも思われる。
 そのような「迷い」に対して、かつて空海は、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで死の終わりに冥し。」(『秘蔵宝鑰』)と言った。人間は生まれては死に、死んでは生まれて、何度も何度も輪廻転生をくり返すものだが、いったい何度生まれ変わったら、この生と死の真理が理解できるようになるのだろうという、空海の嘆きが伝わってくるようなことばである。親鸞が、「本当によくよく煩悩は強いものにちがいない」と言っているのも、このような人間の無明の闇の深さを言っているのであろう。

 ここで思い出す一つの情景がある。 むかし、戦後の焼け跡が周辺に広がる新宿の映画館で、学生時代の私が見たある外国映画の一つにつぎのようなシーンがあった。ヨーロッパのどこかの国の監獄で、一人の囚人が、30年も40年も狭い独房に閉じこめられて、よぼよぼの老人になってしまう。老人は、毎日、毎日、独房の高い小さな天窓から差し込む光を仰いでは、監獄の外の自由へのあこがれを募らせていた。
 第二次世界大戦の末期であっただろうか、その監獄もある日、激しい空爆を受けて、頑丈な建物も高い塀もみんな崩れ落ちてしまう。そのなかで、独房の老人は運よく生き延びて、瓦礫のなかから這い出してきた。そして、よろよろと崩れ落ちた監獄の外へ向かって歩き始めたのである。
 看守たちも生き残った者がいたかもしれないが、振り返ってみても誰も追ってくる様子がない。目の前には、広々とした野原が広がっていて、それは、老人が長い年月、ひたすらにあこがれてきた自由の世界のはずであった。老人は、また少しよろよろと歩き続ける。しかし思いがけないことに、その途中で、急に立ち止まってしまったのである。しばらく困惑したように考え込んでいた老人は、やがて、もと来た道を辿って、またよろよろと、崩れ落ちた監獄へ帰って行った。
 自由が束縛されても、孤独の苦しみがあっても、あまりにも長い年月それに慣らされてしまうと、もうそこから抜け出すことさえ不安になってしまう。浄土・極楽がいかに壮麗ですばらしいところであると聞かされても、唯円が疑問に思ったように、長年住んできたこの地上の煩悩の世界に慣れきってしまうと、あくまでもこの世にしがみつこうとして、あの世に「急いで行きたい」と思われなくなるのも、無理ではないのかもしれない。親鸞がいうように、「本当によくよく煩悩は強いものにちがいない」からである。


  3.霊的真理を理解するための魂の準備

 極楽浄土については、参考までに、シルバー・バーチが伝えている霊界の様子も、ここに取りあげておきたい。シルバー・バーチは、「私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、皆さんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです」(『霊訓 (10)』p.102)などと述べているが、自分が現実に住んで見ている世界であるだけに、その描写は極めて具体的である。
 霊界は階層社会であるから、極楽浄土のような上部の階層もあれば、一般には「地獄」といわれているような下部の階層もある。人それぞれが持っている霊格によって住む場所が異なるのである。そのことを念頭に置いたうえで、さらにシルバー・バーチのことばに耳を傾けてみたい。シルバー・バーチは、こうも言っている。

 「霊界にも庭園もあれば家もあり、湖もあれば海もあります。なぜかと言えば、もともとこちらこそが実在の世界だからです。私たちは形のない世界で暮らしているのではありません。私たちもあい変わらず人間的存在です。ただ肉体をもたないというだけです。大自然の美しさを味わうこともできます。言葉では表現できない光輝あふれる生活があります。お伝えしようにも言葉がないのです。
 ごく自然な形で霊界でも家に住みます。ですがその家は地上生活(の善行・徳行)によってこしらえられたものです。庭園も自然な形で存在します。手入れがいると思えば手入れをします。究極的にはそうしたもの一切が不要であるとの悟りに達しますが、それまではそうした(地上とよく似た)環境の維持に必要な配慮がちゃんとなされております。もしそうした配慮がまるでなされなかったら、地上から霊の世界への移行は大へんショッキングな出来ごととなってしまいます。
 霊界での生活は段階的に向上していくようになっています。各界層、段階、ないし表現の場は、下と上とが地理的にではなく進化的な意味で重なり合い、次第に融合しております。魂が向上し、より高い境涯への適応性が身につくと、自動的にその境涯に置かれるのです。これも完全な叡智の完璧な働きの一例です。何一つ偶然ということがないのです。
 霊的に病んでいる場合はこちらにある病院へ行って必要な手当てを受けます。両親がまだ地上にいるために霊界での孤児となっている子供には、ちゃんと育ての親が付き添います。血縁関係のある霊である場合もありますが、霊的な近親関係によって引かれてくる霊もいます。このように、あらゆる事態に備えてあらゆる配慮がなされます。それは自然の摂理が何一つ、誰一人見捨てないようにできているからです。」(『霊訓 (8)』pp. 115-117)

 このようにみてくると、釈迦の仏教にせよ、シルバー・バーチのスピリチュアリズムにせよ、私たちがこの世を去れば、「極楽」とか「天国」と呼ばれているような光明の世界への道が開かれていることは確かなようである。しかし、この世の煩悩の世界にどっぷりと漬かっている限り、それが高い壁になって、安心立命の境地に達するのは決して容易ではない。だから仏教では、読経、瞑想、座禅、難行苦行など、煩悩を克服するための修行を尊び、『歎異抄』の親鸞も、信徒たちに対して、信心の大切さを真剣に訴えようとした。
 一方で、シルバー・バーチも、霊的真理に接すれば誰でも安易に救われるといっているわけではない。その真理を真に理解するためには、魂にそれを受け容れる準備が必要である、と繰り返して述べているのである。この「受け容れる準備」とはどういうことか。シルバー・バーチは、なぜ、その大切さを強調するのであろうか。
 私たちが何度も何度もこの世に生を享けるのは、この世で様々な体験を通して霊性の向上を目指すためである。ところが、シルバー・バーチは、「地上というところは、バイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です」と言う。そのような霊性向上のための「触媒となる体験」がなければ、私たちの魂に真理を受け容れる準備が整わない。それを、シルバー・バーチは、続けて、こう教えている。

 「太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難問が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。
 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼(はがね)が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。
 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。
 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。
 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺へ連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。」(『霊訓 (10)』pp. 21-23)

 前稿の「この世の長寿について考える」のなかでも引用しているように、シルバー・バーチは、「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです」と言っている。(『霊訓(1)』p.109) 私はこのシルバー・バーチのことばに対して、「これは、地上生活を学校に譬えれば、私たちがどのような学校に入学して、何を学び、何時卒業するかを、自分なりに理解し納得したうえで、この世に生まれてきたということであろう」と書いた。
 これにさらに付け加えれば、この世で私たちが体験する様々な喜怒哀楽は、すべて、この地上の「学校生活」で霊性の向上を目指して学ぶために自分で選んだ教材である。だから、よく言われるように、人生には、乗り越えられない困難はない。乗り越えられないものを自分で選ぶはずはないからである。
 「苦しみ」の教材を通して私たちは「楽しみ」を会得する。「悲しみ」からは「喜び」を掴みとる。そして、「絶望」の教材からは、「希望」を学び取る。私たちは、本来、このようにして、霊性向上の道を一歩一歩、歩んでいくためにこの世に生まれてきたのではなかったか。
 この世は、「五濁悪世」であるがゆえに、そのような「教材」に満ち溢れている。教材というのは、その内容が難しいものであっても、それを学んで進歩発展するために用意されたもので、人々を悩ませたり苦しめるためにあるのではない。だからこそ、その教材の意味を取り違えて、ひたすらに安易な生活を求め続け、金持ちの家に生まれて、何の不自由も困難もなく遊んで暮らせるのが何よりの幸せであると思ったりするのは、大きな心得違いというべきであろう。それは、折角学校に入学しても、授業に出て学ぼうとせず遊び呆けている落第生をうらやましがるのと同類になるからである。


  おわりに

 釈迦が説いたように極楽浄土は実在する。しかし親鸞は、それが容易に信じられないのは、私たちの煩悩がよくよく深いからである、という。それを『歎異抄』でみてきたうえで、ここでは、シルバー・バーチの、「命は永遠である。私たちは死んでも霊界で生き続ける」というもう一つの重大な真理を取り上げてきた。ただ、この真理も、それで私たちが救われるには、それを受け入れる魂の準備が出来ていなければならない。そしてそのためにこそ、私たちは、様々な困難辛苦の「教材」を、霊性向上の観点から自分で選んだうえで、この地上に生まれてきたのである。
 私たちは、善人、悪人を問わず、富者、貧者、賢者、愚者等をすべて含めて一人残らず、「死んでも」死なずに、闇から光への道を永遠に歩み続ける霊的巡礼の旅人である。これまでも輪廻転生を繰り返してきて、この世に生まれるたびに、少しずつ学びを重ねて光への道を歩んできた。光とは神の謂いである。今生もまた、前世で学び残したものを少しでも多く学んで、一歩でも二歩でも、光に近づいていかねねばならない。それが、真理を受け容れる魂の準備を整えることでもあろう。
 結局、苦と楽は同じ一つのコインの裏腹であり、絶望は希望の別名であるとも言えそうである。霊的視点でみれば、本来、歩みの速い、遅いの差はあっても、不幸な人間というのは存在しない。自分が不幸だと思いこんでいる人が無数にいるだけである。そのことがなかなか理解できないでいるのも、私たちのもつ煩悩のせいなのであろうか。
 かけがえのない自分のいのちを慈しみ、今生を明日に向かって明るく幸せに生きていくためにも、改めて、ここに引用したシルバー・バーチの「苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それ以外に方法はありません。魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです」ということばを、胸に深く留めておきたいものである。




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      信じることの難しさ
          イエス・キリストの奇跡をめぐって ―         (2023.05.22)


 作家の遠藤周作さんは、1923年に東京都に生まれて、父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に洗礼をうけて、パウロという洗礼名ももっている熱心なカトリック教徒であった。周知のとおり、1955年に芥川賞を受賞し、谷崎賞を受けた『沈黙』や読売文学賞を受けた『キリストの誕生』をはじめ、キリスト教に関する多くの著作も世に出している。1995年には文化勲章も受けた。生涯をかけて、人間の生と死、信仰を見つめ続けた善意の人でもあった。

 そのカトリック教徒の遠藤さんも、しかし、イエス・キリストの復活のような奇跡は、信じてはいなかった。聖書に書かれた数々の奇跡を、一生懸命に考えて説明し、彼なりの解釈をしているが、やはり最後まで、磔刑にされて死んだイエスの甦りなどは信じ切ることはできなかったようである。「死後の世界」についても、半信半疑で、その実在を信じることができないまま、1996年9月に、肺炎による呼吸不全で死去した。

 現代のような科学万能の時代では、死後の世界や霊魂の存在、死んだ人間の甦りなどは、一般の「常識」からいってもあり得ないと考えて、あたまから受け付けようとしない人が世間には沢山いる。特に、高学歴の科学者や知識人といわれるような人ほど、その傾向が強いといわれるのも、無理のないことかもしれない。遠藤さんのようなカトリック教徒をも含めて、教会の神父や神学者でさえ、聖書の数々の奇跡については信じられないという人は、決して珍しくはないのである。

 でも、私たちは、この地球の上で生きているというよりも、大宇宙の摂理のなかで生かされている。広大無辺の宇宙の広がりのなかでは、米粒一つにもならないようなちっぽけな地球に住んでいて、その一つの点にすぎないような場所で発達してきた学問や科学で解明できないものは存在しない、と断定していいものであろうか。ほんとうは、一握りの人たちに金科玉条とされる科学を含めて、私たちの知っていることは真理のほんの一部にすぎないのであって、知らないことはまだまだ沢山あることを自覚する謙虚さが、特に現代の私たちには必要であるように思われる。

 時代を問わず、確かに、目に見えないもの、霊の世界などを信じるのは容易ではないかもしれない。そのことは、あの、イエス・キリストの弟子たちをみてもわかる。イエス・キリストは偉大な霊能者の一人で、生前、自分がユダヤ教に対する異端の罪で捕らえられ、十字架につけられて殺されることを弟子たちに予言していた。そして、死んだあと、三日の後に甦ることも予言している。しかし、そのイエスを敬愛する当時の弟子たちでさえ、実は、誰一人、その予言を信じてはいなかったのである。

 イエスがユダの密告で逮捕されたときには、弟子たちはみんな、イエスのように捕らえられることを恐れて、逃げ隠れていた。一番弟子のペテロでさえ、群衆に見咎められてイエスとの関わりを問いただされると、「そんな人は知らない」と、三度もイエスを否認したくらいである。イエスが十字架につけられることになっても、イエスを助けようとした弟子は一人もいなかった。結局、イエスは、弟子たちにも裏切られて死んでいったといっても決して過言ではないであろう。

 ところが、イエスは、十字架につけられたあと、予言通り三日後に甦った。そして逃げ隠れていた弟子たちの前に現れる。死んだはずのイエスの姿を見て、弟子たちは強い衝撃を受けたことであろう。しかし、それでもなお、その時にその場に居なかった十二弟子の一人のトマスだけは、まだ、その話を聞いても蘇りの事実を受け入れようとはせず、「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れてみなければ、決して信じない」と言い張ったのである。(「ヨハネ」20:25 )

 その五日後、今度はそのトマスも居るところへ、イエスはまた現れる。イエスはトマスに言った。「あなたの指をここにつけて、私の手をみなさい。手をのばして、私の脇に差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。トマスはことばもなかった。ただ「わが主よ、わが神よ」と畏れおののくばかりであった。イエスは言った。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」。(「ヨハネ」20:26-29)

 信じない弟子たちが信じる弟子たちに変わったのは、この復活を目の前で見てからである。疑うにも疑いようのない厳粛な事実を目撃した弟子たちは、このイエスの復活のあと、劇的に変わった。一度は師を見捨てて逃げ隠れしていた彼らが、猛然と立ち上がって結束し、熱い信仰に燃えて、多くの苦難をものともせず、罵られても、叩かれても、石を投げられて殺されそうになっても、文字通り生命を賭して師の教えを広めていくようになったのである。逆にいえば、このイエスの復活がなければ、その後の世界宗教としてのキリスト教はなかったといえるかもしれない。

 しかし、それでも、遠藤周作さんはこの復活の奇跡を信じることはできなかった。イエスを裏切ったあの弱虫の弟子たちが、一斉に立ち上がって様々な困難に打ち勝ち布教に献身したのには、「なにか筆舌では言えぬ衝撃的な出来事が起こったと考えるより仕方がない」といいながらも、『イエスの生涯』のなかで、つぎのように書いている。

 《なぜ弟子たちは荒唐無稽な、当時の人々も嘲笑した復活を事実だと主張し続けたのか。彼らを神秘的幻覚者だとか、集団的催眠にかかったのだときめつけるのはやさしいが、しかしそれを証拠だてるものは何ひとつない。謎はずっしりと重く我々の心にのしかかるのである。》(遠藤周作『イエスの生涯』新潮文庫、1992年、p.220)

 このように遠藤さんは、復活は「荒唐無稽」であり、それなのに弟子たちが一斉に立ち上がった契機は「謎」である、と言っている。そして、復活を認めなければならないとしても、「イエスは弟子たちの信仰において甦られた」としか言いようがないであろう、と神学者・ブルトマンのことばを引用している。(遠藤周作、前掲書、p.218)

 また、別のところでは、遠藤さんは、イエスが、死ぬ前に言った「父よ、彼等をお許しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(「ルカ」23:34)を取り上げ、この言葉が、「弟子たちが一斉に立ち上がった動機」になったと、次のように述べている。

 《この言葉は彼を死に追いやった大祭司や衆議会の議員たちや群衆だけに向けられたのではない。彼を裏切ったユダや弟子たちにも向けられたと考えるべきである。
 私がそう言うのは、イエスが死の直前、絶対的な愛と許しを神に願ったということが、師を捨てて四散した弟子たちを驚愕させ狼狽させたからである。自分たちが裏切った師は自分たちを憎み、恨み、怒っていたのではなかった。自分たちの弱さを理解し、その許しを神に願ったのである。それを知った時、弟子たちは文字通り号泣し、深い自責の念と呵責に身を震わせたにちがいない。彼等がふたたびイエスのために集まり、イエスの教えのために生きようと決心したのも、この言葉を知ったからだと私は思う。》(遠藤周作『人生には何ひとつ無駄なものはない』朝日文庫、2005年、p.114。『イエス巡礼』から再録)

 このように、遠藤さんに言わせれば、「弟子たちが一斉に立ち上がった動機」は、自分を裏切った弟子たちを許すために神に祈ったイエスのこのことばにあるというのだが、これは根拠としてはいかにも薄弱で、同調できない。私は、神学者・ブルトマンや遠藤さんの「復活の謎」に迫ろうとする熱意と善意を疑うことが出来ないだけに、このような苦しい推測を打ち出していることには、つい同情をも禁じ得ない。しかし、それでも、イエス・キリストが偉大な霊能者であるという視点を欠いたままでいることの決定的な欠陥を指摘せざるをえないのである。これがスピリチュアリズムとの受け止め方の違いであろう。

 ここで少し触れておくと、スピリチュアリズムには「物質化現象」というのがある。物理的心霊現象の一つで、一般的には、死者の全身あるいはその一部が生前そのままの形態で実験室に現れる現象をいう。この現象を科学的にはじめて証明したのはイギリスの世界的な物理学者で王立学士院の院長でもあったクルックス卿(Sir William Crooks, 1832—1919)である。彼は、フローレンス・クックスという霊媒を3年間にわたり調査研究して、この幽霊現象が正真正銘のものであることを発表した。

 パリ大学医学部の生理学教授で1913年にノーベル賞を受けたシャルル・リシェー(Charles Ricet,1855-1935)も、この物質化現象の真実性を確信し、「スピリチュアリズムの科学時代はクルックスの研究から始まる」と自著のなかで述べている。(田中千代松編『新・心霊科学事典』潮文社、1984、p.288) その、クルックス卿の研究の完全物質化の実例として、ケティー・キングという美しい女性が出現したことがあり、それをクルックス卿自身が撮影した鮮明な写真を、この『新・心霊科学事典』の口絵写真などで、現在、私たちは見ることが出来る。

 しかし、このような物質化現象の写真に頼るまでもなく、遠藤さんが、「荒唐無稽」として切り捨てているイエスの復活には、強力な証人が何人もいた。かつては、キリスト教徒を弾圧していたあのパウロもその一人である。

 パウロは、もともと、熱烈なユダヤ教徒としてパリサイ派に属し、キリスト教徒迫害の先頭に立っていた。その彼がキリスト教徒を迫害するためにダマスコへ向う途中、突然、天からの光に打たれて、「なぜ私を迫害するのか」というイエスの声を聞く。それ以来、あくなき迫害者であったパウロは、180度の大転向をとげて、使命感に燃えた宣教者になった。この「大転向」は歴史的事実である。そしてそれは、「復活したイエスの声」を聞くことがなければありえなかった。

 パウロは、その後、弟子たちの誰よりも熱心に、実に2万キロに及ぶ三度の大伝道旅行を含めて命がけの布教を続け、最後にはローマで殉教した。そのパウロが、イエスの死後の復活を疑問視する人がまわりにまだいることについて、生前、キリスト教徒に宛てた書簡のなかでつぎのように述べている。

 《あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もしキリストが甦らなかったとしたら、私たちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。さらに私たちは神にそむく偽証人にさえなるだろう。なぜなら私たちは神がキリストを甦らせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。》(コリント前書15:13-15)

 ところが、遠藤さんも、このパウロの書簡を引用しているのである。しかし、「この絶対的な自信、動くことのない確信は何よりも私たちを圧倒してしまう。どこからこの自信と確信は生まれたのか。もし(復活が)事実でないとするならば・・・・」といい、「イエスの復活を目撃しなかった」我々は、このような「謎をふしぎに思う」と、ここでも遂に「謎」で終わらせてしまっているのである。(遠藤周作、前掲書、p.220)

 パウロが、イエスの死後、イエスの声を聞いて回心したその当時、甦ったあとのイエスの姿を実際に見た信徒たちは、500人以上も居た。そして、その目撃者たちの大多数はまだ生存している、ともパウロは前述の書簡のなかで述べている。つまり、復活の生き証人はまだ大勢いたのである。しかし、イエスのことを熱心に考えながらも、その復活を「自分で目撃する」ことが出来るはずもなかった遠藤さんは、その奇跡を最後まで信ずることはできなかったようである。

 イエスが逮捕されたとき、自分も捕らえられることを恐れて「そんな人は知らない」と三度もイエスを否認したあの一番弟子のペテロも、イエス復活の目撃者の一人であった。すでに触れたように、イエスの甦りを信じなかったトマスの前にイエスが現れたのは、磔刑にされてから8日後であったが、そののち、イエスは、テベリヤ海辺で、弟子たちの前に3度目の姿を現している。その中にはペテロもいた。(ヨハネ、20:14-16)復活したイエスから、かつてのイエス否認を咎められることもなく、優しく、「私の羊を飼いなさい」と言われて猛然と発奮したペテロは、その後、エルサレムの教団建設の先頭に立ち、小アジアのユダヤ人に教えを広め、さらにローマでも宣教活動に命がけで献身した。ペテロもまた、パウロのように、劇的に変わったのである。

 しかし、ローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた周囲の人々から強く要請されて、ペテロは、渋々ながらローマを離れることに同意した。夜中に出発してアッピア街道を北へ逃避していたペテロは、夜明けの光の中に、こちらへ向かって来るイエス・キリストの姿を見る。ペテロは驚き、ひざまずいて尋ねた。Quo vadis, Domine?(主よ、何処へ行かれるのですか?)イエスは答えた。「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と。 

 ペテロは、おのれの弱さを深く恥じ、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。そしてローマで捕らえられ、64年に十字架にかけられて殉教したのである。ペテロは十字架にかけられようとしたとき、自分は、一時、イエスを裏切った罪深い使徒であるから、その罰をうけて十字架を逆さまにした「逆さ十字架」にかけてほしいと申し出て、磔刑はその通りになった。その場所が、いまのサン・ペテロ大聖堂であるといわれている。死後の彼は、カトリック教会における初代のローマ法王となった。「イエスの復活を目撃しなかった我々は、このような謎をふしぎに思う」と言っていた遠藤さんとは違って、パウロもペテロも、このように、イエス復活の生き証人であったのである。

 冒頭でも述べたように、その遠藤さんは死後の世界にも関心をもっていた。しかし、その存在には懐疑的で、やはり信じられないまま、73歳で亡くなった。これは遠藤さんと親しかった女流作家・佐藤愛子さんの『私の遺言』に書かれているが、遠藤さんは亡くなる半年ほど前に、佐藤愛子さんに「佐藤くん、君、死後の世界はあると思うか?」と、電話で訊いてきたのだそうである。

 佐藤さんは、昭和50年(1975年)に北海道の浦河という町に山荘を建てたときから、深夜の足音、鋭いラップ音、電灯の明滅など、つぎからつぎへと起こる超常現象に見舞われ、それ以来30年間悩み苦しんだうえで、霊能者たちに導かれて霊界の存在に行き着いた人である。だから佐藤さんは、「あると思う」とすぐ答えた。すると、遠藤さんはこう言った。「もしもやな、君が先に死んで、死後の世界があったら、『あった!』といいに幽霊になって出てきてくれよ。オレが先に死んだら、教えに出て来てやるから。」佐藤さんは、その時は「遠藤さんの幽霊なんて来ていらん!」と答えて、話は終わったということである。

 佐藤愛子さんは、当時、心霊問題の相談などで霊能者の江原啓之さんによく電話をかけたりしていた。北海道・浦河の山荘での超常現象の続発がきっかけになって、彼女は江原さんとも知り合い、その後、共著で『あの世の話』(文春文庫、2001年)を出している。遠藤さんが亡くなった翌年の5月中旬、彼女が江原さんと電話で話をしている途中に、急に遠藤さんが現れた。

 江原さんが、「あ、ちょっと・・・・待って下さい・・・・今、佐藤さんの部屋に遠藤先生が見えています」と言い出したのである。かつて浦河にいて助けを求めてきた佐藤さんに、霊能者である美輪明宏さんが、東京にいながら佐藤さんの家を的確に霊視したように、江原さんには、電話の相手の佐藤さんの部屋の様子がよく見えたのであろう。江原さんは、「遠藤先生がこういっておられます。死後の世界はあった、こっちの世界はだいたい、君がいった通りだ・・・・」と霊界からのメッセージを伝えた。佐藤さんは、感動した。そして『私の遺言』のなかで、つぎのように書いている。

 《私の身体を戦慄が走った。驚きや怖ろしさではなくそれは間違いなく感動の戦慄だった。私は思いだしたのだった。遠藤さんの生前の、あの会話を。・・・・もしオレが先に死んだら、教えに出て来てやるから・・・・・。
 遠藤さんはそういった。そしてその約束を守って出てきてくれたのだ・・・・・。呆然としている私の中に何ともいえない懐かしさと嬉しさがこみ上げてきた。わっと泣き出したい熱いものがたちのぼってくる。》(佐藤愛子『私の遺言』新潮社、2002、pp.257-258)

 これは、遠藤さんからのメッセージを受けた佐藤さんのその時の感動が直截に伝わってくるような述懐だが、スピリチュアリズムの世界では、高位霊のシルバー・バーチやラムサなどの例を挙げるまでもなく、このような「死者」からの通信は、特に珍しいわけではない。霊能者でなくても、作家では、イギリスのコナン・ドイルが著名な心霊学者でもあったが、1930年に亡くなってからは、霊界からこの地上へ、人々を救うための膨大なメッセージを送り続けた。その一部は、アイヴァン・クック編『人類へのスーパーメッセージ』(大内博訳、講談社、1994年)などに記録されている。

 また、このホームページの「霊界通信集」(A)には、私が浅野和三郎先生ご遺族のご了解を得て、『新樹の通信』を現代文訳にして載せている。そこでは、この世の通信と全く変らないような浅野先生親子の自然で親密な対話が幅広く展開されていて、ご子息の新樹氏は、この本の出版に際し、わざわざその序文も自分で書いて霊界から送ってきた。さらに、私自身の長年にわたる家族との霊界通信も、「霊界からのメッセージ」に載せている。2010年8月に亡くなったアン・ターナーからも私は手紙を受け取っているが、「寸感・雑記」(No.12)の「アン・ターナーの霊界からのメッセージ」は、その一例である。私はいま、正しい通信のための条件さえ整えることができれば、霊界の遠藤周作さんと、改めて、本稿で述べてきたような、イエス・キリストの奇跡について対話することも決して不可能ではないと思ったりしている。




     **********




     タイタニック号遭難犠牲者からの霊界通信         (2023.06.20)


          [目 次]
                 はじめに ― 不沈といわれていた豪華客船の遭難 ―
      1.長女エステルとの「対話」
      2.再会した父親に導かれて
      3.ブルーアイランドでの生活行動
      4.一段上の実在の世界へ
      5.無限の世界への旅の始まり
                おわりに



   はじめに ― 不沈といわれていた豪華客船の遭難 ―

 航空機による旅客輸送がまだ一般化されていなかった20世紀初頭では、北大西洋横断航路で、ヨーロッパの海運会社が客船による輸送でスピードを競い合っていた。そのなかで、イギリスのホワイト・スター社がスピードと豪華さを喧伝して世に送り出したのが、タイタニック号であった。全長260メートル、幅28メートル、総トン数4万6千トンの当時では世界最大の巨大豪華客船である。
 予定より約1か月遅れて、1912年4月10日、そのタイタニック号が処女航海で、サウサンプトン港を出航してニューヨークへ向かった。1等船室には上流階級、大富豪、政府高官、著名人などが、2等船室には中流階級の一般人が、そして3等船室にはアメリカで新生活を切り拓こうとする移民たちが乗っていた。乗船者の総数は、2,201名であった。
 その時期は、グリーンランドなどからの氷山が南下してくるので、北大西洋航路では最も危険な季節といわれていた。出港して4日目の午前9時には、早くも、近くを航行していた船から最初の流氷警報が届けられていた。しかし、なぜかタイタニック号はスピードを落とさず、全速に近い時速22ノット(41キロ)で航行を続けていた。出港の遅れもあって、エドワード・スミス船長がスピード重視に拘っていたからかもしれない。その日の午後9時40分には、二つ目の流氷警報があり、さらに午後11時30分には、三つ目の警報が入っていたが、無線士たちは乗客からの依頼された大量の電報の打電に忙殺されたためか、流氷警報には気がつかなかったともいう。
 タイタニック号のマストには見張り番がいたが、その見張り番も、不運なことに双眼鏡をサウサンプトンで積み忘れて、肉眼でしか見ていなかったらしい。突然、前方に迫ってくる巨大な氷山に気がついた時には、距離はわずか400メートルしかなかった。あっという間に、右舷前半部の船腹が氷山に接触して、喫水線の7メートル下を100メートルも切り裂かれながら進行し、やっと止まったのは午後11時40分であった。
 不沈とうたわれていたこの豪華客船も、午前1時頃から沈み始め、船体が完全に北大西洋の水中に没するまでには1時間以上もかかった。救助されたのは救命ボート14隻、カッター2隻、救命いかだ2個による711名であった。沈んでいく船の中では、タイタニック号の楽団員8名が、パニックに陥っている乗客を鎮めるために演奏を続けた。最後には、讃美歌「主の御許に近づかん」を流しながら船と運命を共にした感動の情景は、ジェームズ・キャメロン監督の映画「タイタニック」などにも描かれている。
 この楽団のバンドマスターであったのが、33歳のバイオリン奏者ウォレス・ハートリーである。彼にはプロポーズしたばかりの婚約者マリア・ロビンソンがいた。ウォレスの遺体が沈没から10日後に引き上げられたとき、彼の体にはケースに収められたバイオリンが縛り付けられていたという。そのバイオリンは、婚約者マリアから贈られたもので、“ウォレスへ、婚約を記念して、マリアより” と刻まれた銀の飾り板が取り付けられていた、と当時の新聞は伝えている。
 この映画では、レオナルド・ディカプリオが演じる画家志望の貧しい青年のジャックとケイト・ウィンスレットが扮する上流階級令嬢の運命的な出会いがあり、互いに惹かれるようになった二人も傾いた船から海の上に投げ出される。ジャックは、自分たちの近くに浮かんでいるドアの残骸を見つけて、その上にローズを押し上げた後、自分は波間に沈んでいった。生き残ったローズの心情を切々と伝える主題歌「My Heart Will Go On」 の哀切のメロディーも、私たちの胸を打つ。結局、この沈没事故で犠牲になった乗客の総数は約1,500名に達した。そして、そのなかには、本稿でこれからとりあげるイギリスで当代随一の言論人といわれたウィリアム・ステッド(William T. Stead)もいた。彼は、1849年の生まれで、この時、63歳であった。
 ステッドは、海軍の改革や児童・社会福祉などの法整備を大衆に訴え、イギリスの現代ジャーナリズムの基礎を作ったといわれる。スピリチュアリズムの勃興期に活躍した優れた霊能者でもあった。エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳、ハート出版、1992年)は、彼の霊界通信をまとめたもので、この編者(Estelle W. Stead、1880-1966)は、ウィリアム・ステッドの長女である。書名の「ブルーアイランド」は、彼が霊界から、「死後の世界は、明るく美しいブルーの国」と、伝えてきたことによる。原著は、The Blue Island ― Experiences of a New Arrival Beyond the Veil、Hutchinson & Co.、London, England、1922である。



  1.長女エステルとの「対話」

 このタイタニック号の大惨事が起こった頃、ウィリアム・ステッドの長女エステルは、シェークスピア劇団を引き連れて公演旅行にでかけていた。団員のなかの一人にウッドマンという霊感の鋭い男性がいて、この旅行中に近く起こる海難事故を予知していたという。事故が起こってからは、ウッドマンは、霊界からのメッセージを受信する霊的能力(自動書記)を発揮するようになって、後に、出版されることになるこの本、『ブルーアイランド』の大量の霊界通信を長女のエステルに伝えていくようになる。
 タイタニック号の沈没事故から2週間後、エステルは、当時イギリスで多才な霊媒として有名であったE・リート女史の交霊会に参加した。エステルは、父親が霊能者でスピリチュアリズムの熱心な宣教者でもあっただけに、交霊会に出ることにも違和感はなかったであろう。その会場で彼女は、タイタニック号の大惨事で犠牲になった父親と「再会」する。それを彼女は、そこで「父が顔だけを物資化して出現するのを見ました。そして語る声も聞きました。その声は、タイタニック号に乗船する直前に私に別れを告げた時の声と同じように、はっきりとしておりました。父との話は30分以上にも及びました」と述べている。そして、こう続けた。

 《これを突拍子もない話と思われる方が多いでしょう。が、紛れもない事実なのです。出席していた何人もの人が証言してくれております。私はそれを記事にして雑誌に掲載していただきましたが、その時の出席者全員が署名入りで証人となってくれました。
 その日から、十年後の今日まで、私は父と絶えず連絡を取り合っております。何度も語り合っておりますし、通信も受け取っております。その内容は、父が死後もずっと私たちの生活に関わっている確固たる証拠にあふれております。
 はっきり申し上げて、タイタニック号とともに肉体を失って霊界入りした十年前よりも、むしろ現在の方が心のつながりは強くなっております。もちろん死の直後は、その姿が見えなくなったということだけで大きな悲しみを覚えておりましたが、その後は別離の情はカケラも感じなくなっております。》 (エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳、ハート出版、1992、pp.14-15)

 すでに触れたように、エステルの父親でジャーナリストであったウィリアム・ステッドは、熱心なスピリチュアリズムの宣教者でもあった。タイタニック号で遭難して霊界へ移ってからも、この地上の娘を通じて、積極的に地上への交信を試みようとしていた。エステルの率いるシェークスピア劇団の団員であったウッドマンの優れた自動書記能力を頼りに、やがて、「死後」の状況を具体的に詳しく知らせてくるようになり、それが『ブルーアイランド』という題名で出版されたのである。その本の「まえがき」で、「著者」のステッドは、こう述べている。

 《これから私がお届けするものに興味をもってくださる方は多いことでしょうが、さらに多くの方にとっては、何の意味もなさないかも知れません。でも、私が課題として持ち出すものは、その気になれば、ある程度まで自分でその真実性を吟味することができるものにしたいと考えております。霊的直観力によって判断できるという意味です。
 読むに値するメッセージ ―― 神がその無限なる愛によって、私をその通路となることをお許しになった言葉であることを直観なさるはずです。本書は、生命の神秘に関する私の考えを述べたものではありません。私が説明したものにすぎません。
 全体としてキリスト教的色彩は免れないと思います。が、その解釈は、一般に受け入れられている伝統的キリスト教とは異なります。たとえばキリスト教では罪を悔いてイエスへの忠誠を誓えば、死後ただちに天国へ召されると説きますが、これはとんでもない間違いです。
 “死”は一つの部屋から別の部屋へ移る通路にすぎません。二つの部屋は装飾も家具の配置もひじょうによく似通っております。そこが大事な点で、皆さんにぜひ理解していただきたいことです。この世もあの世も、同じ神の支配下にあるのです。同じ神が全界層を経綸しておられるのです。》 (前掲書、pp.26-27)

 こうしてステッドは、この本の中で、タイタニック号の沈没直後の状況から語り始めた。このホームページの「学びの栞」(B)55-l ~ 55-m「私たちはどのようにして霊界へ移ってきたか」は、その沈没直後の状況の一部を抜粋したものである。ここでは、突然に霊界へ移された彼が、戸惑いながらも、地上時代に持っていた霊的知識が主要な点で百パーセント正確であることを知って、驚き感動したことなどが書き綴られている。本稿と併せてお読みいただければ有難い。本書では、この後、「ブルーアイランド」へ到着してからの描写が続く。
 ここで、ひとこと付け加えておかねばならないが、「ブルーアイランド」は、「明るく美しいブルーの国」であっても、霊界では新参者が霊的環境に馴染むことを目的として用意された階層である。あくまでも過渡的な世界で、霊界のいわゆる「中間層」にあたる。この階層で、霊的な準備が整えられると、つぎに、本格的な霊の世界、実在の世界へと進んでいくことになるのである。



   2.再会した父親に導かれて

 タイタニック号で遭難した約1,500人の霊たちはすべて救出され、一つの場所に集められ、やがて上空へ向かって垂直に、ものすごいスピードで上昇していった。しかし、非常に安定していて、不安な気持ちには少しもならなかったという。地球からどれくらいの距離まで飛んだのかはよくわからなかったが、うっとうしい空模様の国から、明るく澄み切った空の国へ来たような感じで、すべてが美しかった。到着してみると、先ほどまで生活していた地上の環境と少しも変らぬ現実感があって、そこで、それぞれに、かつて地上で友人であった者、家族であった者たちの出迎えをうけた。その様子を、ステッドは、こう語っている。

 《最初に述べておきたいのは、これから述べる体験が、タイタニック号が沈没してからどれくらいたってからのことなのか、感覚的によく分からないということです。時間的には連続していて断絶はないように思えるのですが、どうもその辺がはっきりしません。
 さて、私には二人の案内役が付き添ってくれました。地上時代の友人と、もう一人は実の父親でした。父は私と生活を共にし、援助と案内の役をしてくれました。何だか私には外国へ来て親しい仲間と出会ったという感じがする程度で、死後の再会という感じはしませんでした。それがその時の正直な心境です。
 つい今しがた体験したばかりの忌まわしいシーンは、もう遠い過去へ押しやられていました。死の真相がわかってしまうと、そういう体験の怖さもどこかへ消えてしまいました。つい昨夜のことなのに、まるで五十年も前のことのように思えました。お蔭でこの新しい土地での楽しさが、地上に残した者との別れの悲しさによって半減されるということにならずに済みました。
 タイタニック号の犠牲者の全員がそうだとは申しません。少なからざる人々が不幸な状態に置かれたことでしょう。が、それも、二つの世界の関係について何の知識も持たないからにほかなりません。そういう人たちは、二つの世界の間で一体どういうことが起こりうるのかを知らなかったわけです。それを知っていた私のような者にとっては、旅行先に到着して便りを書く前に、“ちょっとそこいらを見物してくるか”といった気楽な気分でした。悲しい気分など、まったくありませんでした。》 (前掲書、pp.50-51)

 このウィリアム・ステッドは、スピリチュアリズムに親しんできた霊能者でもあったから、「悲しい気分など、まったくありませんでした」と言っているのも当然といえるかもしれないが、このような「証言」には、私たちも改めて力づけられるような気がする。シルバー・バーチが繰り返し言っているように、「死」そのものは決して悲劇ではないのである。
 彼は、父親と友人に伴われて、早速、この新しい土地の見物に出かけた。父親は、地上にいた時よりも動作もきびきびしていて、若返っているようにみえた。「父子というよりは兄弟のような感じすらした」と、いうのがその時の彼の感想である。
 やがて、三人は、途方もなく巨大な建物の前にやってきた。円形をしていて、大きなドーム状の天井がついている。中をのぞいてみると素敵なブルーで彩られていた。地上で見かける建物と少しも変わりはないが、ただ、その美しさが違う。地上でジャーナリストであった彼は、詩人の心になりきって、その情景をペンで描きたくなった、という。
 その時の父親の説明では、その建物は一種の休養施設で、地上の新来者がよく集まるところということであった。ブルーアイランドには、このような建物がたくさんあって、様々な精神的活動に対する配慮がなされていると、彼は、つぎのように話した。

 《このブルーアイランドにはそうした建物が実にたくさんあるのです。中心部に集中しているのではなく、全体にまんべんなく建っております。そして、ありとあらゆる精神的活動に対する配慮がなされているようです。というのも、この世界の第一の目的は、地上を去ってやってくる者が地上の縁者との別離を悲しんだり、無念に思ったり、後悔したりする気持を鎮めることにあり、当分の間は本人がいちばんやりたいと思うこと、気晴らしになることを、存分にやらせることになっているのです。
 元気づけるための、あらゆる種類のアトラクションが用意されております。地上時代に好きだったことなら何でも――精神的なものでも身体的なものでも――死後も引き続いて楽しむことができます。目的はただ一つ ―― 精神的視野を一定のレベルまで高めるためです。
 書物を通しての勉強、音楽の実習、各種のスポーツ……何でもできます。信じていただけないかも知れませんが、乗馬もできますし、海で泳ぐこともできます。狩りのような、生命を奪うスポーツは別として、どんなスポーツ競技でも楽しむことができるのです。もっとも、こちらでは地上でいう“殺す”ということは不可能です。狩りと同じことをしようと思えばできないことはありませんが、再び死んでしまうということはありませんから、この場合の死は単なる“みせかけ”にすぎないことになります。
 これでお分かりと思いますが、そうした建物は新来者の好みの多様性に応じて用意されているわけです。身も心も運動競技に打ち込んでいた人間が、こちらへ来てから何もすることがないというのは可哀そうです。こちらでは疲労というものが生じませんから、思う存分それぞれに楽しむことができます。が、やがて、そればっかりの生活に不満を抱きはじめます。そして、他に何かを求めはじめます。といって、いきなり止めてしまうわけではありません。興味が少しずつ薄らいでいくということです。
 それと違って、たとえば音楽に打ち込んだ人生を送った者は、こちらへ来てからその才能が飛躍的に伸びて、ますます興味が深まります。その理由は、音楽というのは本来霊界のものだからです。ブルーアイランドに設置されている音楽施設で学べば、才能も知識も、地上では信じられないほど伸びます。》 (前掲書 pp.60-61)

  ブルーランドにこのような場が多く用意されているのには理由がある。そこへ来たばかりの者は、多かれ少なかれ、地上から引き裂かれたことによる悲しみや無念の気持ちを抱いている。それが時として障害になって、魂の進歩を遅らせてしまうことにもなる。そこで、とりあえず、その悲しみや無念の気持ちが消えるまで、当人がやりたいと思うことを何でもやれるようにするという神の配慮が働いているのである。霊たちは、はじめのうちは、こういう場で、楽しいこと、愉快なことに自分を忘れているだけであるが、それは、その次に徐々に始まっていく、霊的向上のための純化作用の準備期間であるともいえる。



  3.ブルーアイランドでの生活行動

 ここで、ブルーアイランドにおける生活行動の一端をみておきたい。生活や行動は、もちろん、それぞれに同じではないが、ステッドは、自分の場合を例にとって、つぎのように叙述している。霊界にいても、地上の縁のある人たちに対しては絶えず働きかけようとしているようで興味深い。

 《次に、こちらでの生活行動はどうなのかという疑問についてお答えしましょう。
 行動は自由自在です。肉体のような束縛は何一つなく、完全に自由です。さらに私の場合は、準備コースを卒業しましたので、どこへでも自由に行けるようになりました。地上時代に家族関係だった者のいる所、知人や友人だった者のいる所、そういう地上的な縁の人は誰一人いない所など、どこへでも出向いて、教えを受けたり教えてあげたりすることが出来るようになりました。ただし、まだブルーアイランドでの話です。まだ次の界層に定住するところまでは進化しておりません。
 今も述べた通り、どんな地域にでも自由に行けますから、地上界とも絶えず連絡を取っております。地上界の人が私のことを思ってくれると、その念が届きます。誰から送られたものかがすぐに分かりますから、必要とあればその人のもとを訪れてみることもあります。
 もっとも、誰からのものでも届くというわけではありません。たまたま私の書物を読んだとか、私のことが話題になったからといって、それが全部私に伝わるわけではありません。やはり地上時代に縁のあった人に限られます。そういう人の念は、まるで電話で聞くように、よく分かります。そして、直ちに行ってみることも出来ます。
 こういう具合にして、私たちは地上の人たちを援助することができます。その人の日常の行動や考えをよく分析して、その人にとって今何がいちばん大切であるかを判断した上で働きかけます。ですが、さっきも述べたように、いかに親密な間柄であっても、その時の条件しだいで不可能なことがあります。地上でも、アドバイスを与えることはできても無理強いはできないように、こちらでも、影響力を行使できるとはいっても、思いのままにできるわけではありません。
 こちらへ来てしまえば、もう、別離というものはありません。自分より上の界層の人とも、同等の人とも、下の界層の人とも、あるいは今なお地上にいる人とも、別れ別れになってしまうことは有り得ないのです。親和力と愛情のあるところに、別離とか断絶などという事態は生じません。
 肉体の死によってこちらへ来ると、地上の遺族は当然のことながら嘆き悲しみます。が、そのうち――長い短いの差はあっても――他界者についての記憶が薄らいでいきます。次第に思い出すことが少なくなり、脳裏から消えていきます。しかし、その人たちもやがてこちらへ来ます。すると、記憶を奥へ押しやっていた俗世的な雑念が取り払われるにつれて、かつての古い愛情の絆の存在に気づきます。昔のまま無傷で残っている場合もあれば、汚されている場合もあります。しかし、致命的な損傷を受けていることはありません。》 (前掲書、pp.107-109)

 この「著者」は、「こちらへ来てから、地上の遺族への未練が強すぎると、かえって寂しい思いをさせられることがあります」という。遺族たちはまさか故人が死後も生き続けているとは思わないのが普通であるから、死ねばこの宇宙から消えてしまったものと考える。ところが、故人の目には地上の生活の様子がよく見えるのである。足繁く帰っては、何とかして自分が生きていることを知らせようとする。しかし、その気持ちは遺族たちには通じない。そのことが故人にとっては寂しさと悲しみを増す結果となり、次第に遺族への関心が薄れていき、遺族が死んでこちらへ来るまで待つしかないと考えるようになっていく。
 死んだ遺族が、地上を去ってブルーランドへ連れてこられると、愛の絆によって、同じ波動をもつ人たちのところへ落ち着くことになる。しかし、地上時代に愛の絆があったからといって、必ずしも霊界へそれが持ち越されるとは限らない。「初めのうちは会う機会を与えられるかも知れませんが、愛の力の強さが偏りすぎている時は、しだいに引かれ合うことが少なくなり、やがて断絶が生じる」 ということも起こり得るようである。 (前掲書、p.110 参照)



  4.一段上の実在の世界へ

 このようなブルーランドからもう一歩上へ進むと、地上的感覚からほとんど脱し切った段階に至ることになる。ブルーランドの世界にすっかり魅せられていただけに、ステッドは、これと同じような素晴らしい世界がほかにも幾つか存在することがよく理解できなかった。地上の人間が死後の世界を信じられないようにである。しかし、その彼も、やがて、その一段上の階層の世界に連れていかれることになった。
 前述のように、ブルーアイランドは、あくまでも過渡的な世界である。新参者が霊的環境に馴染むことを目的としたもので、霊的な準備が整うと、本格的な霊の世界、実在の世界へと進んでいくのである。そこでは、地上での生活期間とは比較にならない永続的な生活が続いていくことになる。そこから、また元のブルーアイランドへ戻ってくることは可能で、実際に、多くの霊たちが、新しく霊界入りをする知り合いや家族たちを迎えるために降りてきて、面倒をみたり案内したりしている。しかし、それはあくまでも一時的な訪問であり、そこにいつまでも滞在することはない。ステッドは、ブルーランドへ来た時と同じように、物凄いスピードで空中を飛行して、到着した新しい世界の実在界について、つぎのように伝えてきた。

 《到着した場所の印象は、ブルーアイランドのあの鮮明な青々とした印象に比べると、取り立てて形容するほどのものではありませんでした。色彩にさほど目覚ましいものがなく、住民は一定のパターンにはまっているという感じでした。一見すると地上界に戻ってきたような印象で、何となく私には当たり前と思えるような環境のように思えました。他の者に訊ねてみると、同じような返事でした。それもそのはずで、各自にとってそこが、地上時代に培った霊的成長と民族の資質に似合った場所なのでした。摂理の働きで自動的にそういうふうに収まるのです。
 あなたも、いや、地上の人間すべてが、いつかは必ずこの界層に来るのです。そしてここでも、霊的成長のための学習と仕事を続ける一方で、残り少なくなった地上時代の習慣と考えをさらに抑制し、あるいは棄てていく努力を続けます。生活形態そのものは地上時代と同じですが、対人関係は緊密度を増していきます。
 家屋は地上と同じく自分の好みのものを所有し、気心の合った人たちと、見晴らしのいい丘の上などに集まって生活しています。まるで宮殿のような豪華な家に住んでいる人もいます。興味深いのは、そういう人たちは大抵地上でひどい貧乏暮らしをしていた人たちであることです。そういう暮らしを夢見ていたわけです。死後のブルーアイランドでの調整期間に、進化を促進するには、そういう潜在的願望を満たしておくことが必要との判断がなされて、豪華で安楽な生活が許されたと考えればいいわけです。
 しかし、その結果として、意図された通りの成果が見られない――豪奢な生活に甘んじてしまって進化が促進されない場合は、豪邸は没収され、改めて別の調整手段が講じられます。一人ひとりにそれなりの手段が講じられます。それまでの生活を維持したければ、それなりの努力をするほかはありません。
 この界層まで来ると、食べること、飲むこと、寝ることへの願望はもう消えてしまっております。荒けずりではあっても、物的なものから脱し切って、純粋な霊としての生活が始まりかけております。が、まだまだ錬成が必要です。そこで、この界層にも学問的と修養のための施設が用意されています。ありとあらゆる情報と知識が用意されています。向学心、ないしは向上心さえあれば、どの施設でも利用することが許されます。》 (前掲書、pp.124-126)

 このように、死後の実在の世界は、いたって自然であり、納得のいくことばかりであるという。地上時代に培った愛情はそのまま残り、純粋なものほど強烈さを失わない。家族愛も友情も変わることなく続いていくことになる。ステッドは、「死がもたらす変化の中でも最大のものは、視野の拡大とそれに伴う心の広さです。理解力が増し、洞察力が深まって、かつてのさまざまな難問や誤解が立ちどころに解けてしまいます。そして、ブルーアイランドからこの実在界へと歩を進めると―― つまり地上生活にまつわる因縁を解消し、借金を払い終ると、本当の意味での自由の身となって、望み通りのことが許されます」とも言っている。そして、こう続けた。

 《が、この世界での目的は、あくまでも向上進化です。それに悖るようなことをし始めると、たちまち自由が束縛されます。進歩を強要されるというのではありません。何をやってもいいのですが、地上時代の低俗な煩悩に動かされるようなことがあると、自動的に霊性が低下し、自由が束縛されるということです。高い世界にはそれなりの摂理があります。それを熟知し、それに則った生活を営まねばなりません。
 行動はまったく自由であり、地上界へ戻ってみることもできます。動きの速さはまさに電光石火で、二つの場所に同時に存在するのと同じくらいに行動することができます。
 この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝を生み出しています。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気に相当する雰囲気そのものが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。
 ここでの生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといってもよいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴することができるのは、地上で分別あるまともを生活を送った人間に限られます。無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀とが待ちうけております。
 げに、“蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない”のです。》 (前掲書、pp.130-131)



  5. 無限の世界への旅の始まり

 ウィリアム・ステッドがあの悲劇的な海難事故で地上を去って以来、地上の時間にしてかなりの年数が過ぎた。その間、霊界通信で絶え間なくかつての自分の生活の場、そして愛する者が今なお生活している地上界との連絡を取り続けていても、もう一度地上へ再生して生活してみたいと思ったことは一度もない。とくにブルーアイランドを卒業してこの実在界へ来てからはそうだという。
 ただ、霊界に住むようになった霊たちは、地上時代にはなかった新しい視力をもつている。私たちは彼らが見えなくても、彼等には地上の私たちが丸見えなのである。この「著者」も、地上の縁ある人々のしていることを見ていて、その間違いが明確に見て取れるような時には、今すぐにでも地上に生まれ出て直接諭してやりたい気持に駆られることがあるらしい。
 しかし、「そういう場合を除けば、地上生活をもう一度味わってみたいと思うことは、まずありません。それよりも、こちらでの見学や見物の旅、仕事、研究の方がよほど興味があります。それによって得た知識は、地上時代の知識とは比べものになりません。その中から皆さんにぜひ伝えたいと思うものを、こうしてお届けしているわけです」と、彼は述べている。
 このようなことばからも覗えるように、実在界の知的環境は、かなり密度の濃いもののようである。地上でジャーナリスト・評論家であった彼も、「こちらへ来てまず心掛けたことは、新しい環境への適応でした」と言い、つぎのように続けた。

 《何もかもが新しいのです。動作も意志の伝達も、みな違います。こちらでは言語を使ってしゃべることは、あまりありません。それよりもっと表現力に富んだ、直接的な方法があるのです。精神と精神とが直接的に感応し合うのです。もっとも、地上と同じように、ことばで話し合うことも、しようと思えばできます。
 その他にも、そちらとこちらの生活形態には勝手の違うことが沢山ありますが、その中でもいちばん有り難く思うことは、精神活動が物的な事情によって制約されることがないことです。地上では何らかの願望――お金が欲しい、仕事を成功させたい、楽しいことがしたい、もっと知りたい、等々――を心に宿しても、いざ実践しょうとすると、いろいろと制約があって、思うにまかせません。
 その点こちらでは、理に適ったものであれば何でも存分に叶えられます。真理や知識を得たいと思えば、信じられないほど即座に手に入ります。しかし、それだけに動機が間違っていれば、その報いも即座に降りかかってきて、その償いをしなければならなくなります。こちらでは動機がすべてなのです。》 (前掲書、pp.133-134)

 彼は、また、「あなたの今の霊性そのままが死後のあなたの姿と環境に反映します。死後にまとう霊的身体は、その地上生活の中でこしらえているのです。仕事の中身と思念の性質がこしらえるのです」 とも付け加えているが、これは、この世の私たちも、肝に銘じておくべき「忠告」であろう。
 この、今の霊性が大切であることについては、さらに別のところでも、このように繰り返されている。

 《地上でのあなたの心の姿勢がこちらでの意識レベルを決することは、これまで何度も説明してきましたが、同じことがこちらへ来てからも言えます。つまり現在の私の界層での心の姿勢が、やがて赴く界層での境遇を決するのです。上昇するかも知れないし、下降するかも知れない。幸福感が増すかも知れないし、減るかも知れない。そしてまた、そこでの私の心の姿勢によって、さらに次の段階での境遇が決まるという具合なのです。
 幸いにして向上の一途をたどったとしましょう。霊性が進化するほど、内部の霊的属性ないしは資質がますます発揮されて、いわば自給自足の生活の範囲が広がります。そうして向上していくうちに、ブルーアイランドで体験したのと同じ体験、すなわち、過去を総合的に検討させられる段階に至ります。
 一人でするのではありません。ブルーアイランドの時も高級霊が付き添ってアドバイスをしてくれましたが、こんどは、さらに高級な霊――神性を身につけた存在の立ち会いのもとに行なわれ、厳しい査定を受けます。
 その結果、もしかしたら、もう一度地上に再生して苦難の体験をした方がよいとの判断が下されるかも知れません。あるいは、まずまずの査定を受けて、さらに向上の道を進むことを許されるかも知れません。生まれ変りの手続きはこの段階に至って行なわれるのです。その段階に至った頃には、かつての地上生活、いわゆる前世の細かいことは忘れているのが普通です。
 その段階に至るまでにどの程度の期間を要するかは、一概には言えません。が、一般的に言って、ブルーアイランドを卒業したあと、実相の世界の生活を体験しながらそこに至る期間は、地上生活よりも長いのが普通です。界層が高まるほど、そこでの滞在期間は長くなります。》 (前掲書、pp.138-139)



   お わ り に

 ここでは、タイタニック号遭難者の一人であったウィリアム・ステッドが、事後直後の混乱を経て、彼のいう霊界の中間層「ブルーアイランド」から本格的な霊の世界「実在の世界」へと移っていった記録の一部を取り上げてきた。すでに触れたように、この「著者」は、スピリチュアリズムの勃興期に活躍したジャーナリストである。そしてこのような貴重な霊界通信を残してくれた霊能者でもあった。
 彼は、1849年の生まれだが、奇しくもその前年が「スピリチュアリズム元年」と呼ばれる年であった。ニューヨーク州西部の都市ロチェスターの片田舎にハイズビルという村があり、1848年3月31日に霊界と地上の間で初めて通信が成功して、そこで起こった殺人事件が解決した。このことがスピリチュアリズムの発祥につながっていったからである。
 また、彼がタイタニック号の事故で亡くなったのは1912年であるが、それから約10年後に、3千年前にこの地上に生きたという古代霊シルバー・バーチがロンドンに出現し、毎週一回、ほぼ60年に亘って霊的真理を語り続けた。日本にいる私たちも、遅ればせながらその教えを、いろいろと、『シルバー・バーチの霊訓』で学んできた。そしていま、この霊界通信『ブルーアイランド』を読み返していると、今更のように、死後の世界に関する霊的真理の重みを身に沁みて感じさせられる。
 本稿でも取り上げてきたように、ステッドは、霊界へ移ってからは、もう一度地上へ再生して生活してみたいと思ったことは一度もないようである。とくにブルーアイランドを卒業して実在界へ来てからはそうだという。しかし、霊的に無知で、そのような比較の視点も持つことが出来ないでいるこの世の人々は、この地上の世界の生活がすべてで、そこから引き離されることを極度に恐れる。そして、所詮は一瞬のまぼろしに過ぎない栄耀栄華を求めて、のたうち回るようにモノとカネに執着したりする。かつての私がそうであったように、霊的真理に無知であることは苦しい。
 私の小冊子『生と死の真実を求めて』にも引用しているが、シルバー・バーチは、「死ぬことが果たして痛ましいことなのでしょうか。このわたしも“死んでいる”のですよ。少しも痛ましくはありません」と言っている。そして、「地上というのは実にこっけいな世界です。生命にとって最も重大な体験である“死”をみんな怖がります。牢から解き放されることを怖がります。自由の身になることを怖がります。小鳥はカゴから出るのを怖がるでしょうか。なぜ人間はその肉体というカゴから出るのを怖がるのでしょうか」と付け加えた。私たちは、「万物の霊長」を自負していながら、このようなカゴの鳥さえ羨ましく思わなければならないのであろうか。
 これは、「霊界通信」などは妄言の類として受け流されがちな世間の風潮の中では、珍しい例といっていいかもしれないが、直木賞作家の高橋克彦さんも、この『ブルーアイランド』を読んでいる。そして、読み終えた感動を、「信じたい。すでに別れてしまった人たちともう一度逢える。何度か文章を心に刻みながら泣いた――。子どもを亡くした親たち、恋人や伴侶を失ったすべての人に、ぜひ読んでもらいたい。あなたの最愛の人たちは、今も元気であなたを見守ってくれている。これは本ではない。愛の啓示だ。現世に生きるぼくたちに与えられた最高のプレゼントである」と、書いた。このようなスピリチュアリズムに対する共感者が居てくれることは、私にとっても心強く、有難いことである。
 人は死なない。死ぬことが出来ない。死んでも永遠に生き続けるのである。いまの私は、この生と死の真実を何度でも繰り返したい気がしている。かつての私は、この単純明快で重大な真理に気がつかず、家族を失って何年もの間、嘆き悲しみ続けていた。どうすれば供養になるのかもわからずに、霊界の家族にも辛い思いをさせてしまっていた。その私自身に対する自戒の意味も込めて、本稿の最後に、改めて、高橋さんのこのことばを、ここに掲げておいた。




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     ヨーロッパの科学者たちの心霊研究         2023.07.21



   (一)

 米国ニューヨーク州北西部の港湾都市ロチェスターの片田舎にハイズビルという小さな村がある。その村の一軒家に、フォックス夫妻と二人の娘マーガレット(11歳)、ケイト(9歳)が移り住むようになった。1847年12月のことである。この家に住み始めて3か月が過ぎた頃から、夫人と二人の娘は夜になると不思議な現象に悩まされるようになる。この一軒家には、以前から幽霊が出るという噂があったらしい。しかし、フォックス一家がやってきてからは、特にその現象が目立つようになった。人の気配がして、頻繁にラップ音やノック音がしたり、家具が動いたりするのである。

 1848年3月31日の夜、こうした現象にもう慣れてしまった娘の一人が、パチンパチンと指を鳴らして「お化けさん、真似をしてごらん」と言ってみた。すると同じ数だけ叩く音が返ってくる。娘たちは面白がって指鳴らし遊びを始めた。それを見ていた夫人は、その場の誰にも答えられないような質問をしてみようと思いつく。そして「私の子ども全員(前夫との子供も含めて)の年齢を上から順番にラップ音で答えてください」と言った。すると即座に、すべての子どもの年齢が正確に返ってきた。そこで夫人は、「あなたは霊ですか? もしそうならラップ音を二回鳴らしてください」と言うと、ラップ音が二回した。夫人はさらにいろいろと質問を続け、最後に、「もしあなたが誰かに殺されたのならラップ音を二回鳴らしてください」と言うと、すぐにラップ音が二回鳴り、家全体が振動した。

 この話を伝え聞いて、村中は大騒ぎになった。そこで村の有力者ドゥスラーという人が中心になって、アルファベットを早口で言い、霊に望みの箇所で音を鳴らしてもらう、ということにした。それを根気よく実際に繰り返し行った結果、一つの通信文が出来上がった。それによると「音を鳴らした霊は、5年前にこの家に泊まって殺されたチャールズ・ロズマという名前の31歳の行商人で、500ドル奪われ地下室に埋められた」というのである。そして、その後の発掘調査で、男性の白骨死体が発見され、この殺人事件は解決した。

 ラップ音のような怪奇現象そのものは、フォックス家に限らず、それ以前にも各地でしばしば見られたことである。しかしこの事件は、怪奇現象を引き起こしていた何者かに地上側から語りかけ、そこに “通信”が成立した点で画期的であった。しかもその通信内容の“信憑性”が、具体的な証拠によって確認されたのである。この事件がきっかけとなり、霊媒を使って心霊現象を起こし、そのメカニズムを解明したり、霊魂の存在を証明するという心霊研究の道が開かれることになった。これが、このハイズビル事件のあった1848年がスピリチュアリズム元年といわれ、近代心霊研究の発端となった所以である。

 この事件は、当時の多くの著名な学者・判事・政治家・医者・聖職者などにも関心を集め、大きな反響を巻き起こすことになった。その中でも、ニューヨーク州最高裁判所の判事J・W・エドマンズ(John Worth Edmonds:1816—1874)は、この事件に特別な関心を寄せた一人であった。彼も、当初は、当時の一般的な学者と同様に、「自然法則に反するこうした現象は詐術だと考えてそれを暴いて公表するつもり」で調査を始めた。しかし次第に心霊現象は真実であるとの確信を持つようになる。そして、霊からのメッセージの哲学ないし宗教性の重要さに気づいて、1852年には、宗教問題や霊界における生活などを綴った著書『スピリチュアリズム』を出版した。さらに、1853年8月6日付の『ニューヨーク・ヘラルド』紙などに、「心霊現象が真実であることを人々に知らせることはやはり非常に重大な義務だと感じるようになった」などと書いたりしている。

 エドマンズは、州議会の議長を歴任したこともある屈指の著名文化人であり、有力な次期大統領候補の一人でもあった。そのために、このスピリチュアリズム信奉に対する彼の意思表明は、社会的な大問題になり、激しい論争を呼んだ。当時の社会では死後の世界はキリスト教の管轄であり、教会は「スピリチュアリズムは悪魔の仕業である」との立場から、死者と語り合う交霊会などは否定されていたからである。そのような風潮の中でスピリチュアリズムに傾倒したエドマンズは、激しい非難と中傷にさらされることになった。遂には、6年間務めたニューヨーク州最高裁判事を辞職せざるをえなくなった。

 しかし、一方では、このフォックス家事件がきっかけとなり、アメリカでは心霊現象を研究しようという動きが徐々に高まっていった。フォックス姉妹の体験した心霊現象の真偽の詮索からは離れて、交霊会も盛んに行われるようになった。やがて、その風潮はヨーロッパにまで波及して、英独仏などの各国で心霊ブームが沸き起こっていくことになったのである。

 イギリスのジャーナリスト・文人たちのなかでも、「英国現代ジャーナリズムの基礎を作った」といわれ、後にタイタニック号遭難の犠牲者になったウイリアム・ステッド(William Thomas Stead:1849—1912)をはじめ、「シャーロック・ホームズ シリーズ」の著者コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle:1859—1930)、「新聞界の法皇」といわれたハンネン・スワッハー(Hannen Swaffer:1879年—1962)などが、使命感に燃えて、スピリチュアリズムの普及に貢献した。霊的真理から最も遠いと思われていたはずの科学者たちの間でも、一部の人たちは、熱心なスピリチュアリズムの信奉者になっていった。以下、本稿では、ヨーロッパにおける、それらの科学者たちの心霊研究に目を向けてみたい。



   (二)

 ヨーロッパにおけるスピリチュアリズムの発展に大きな足跡を残したのがイギリスの化学者で物理学者でもあったウィリアム・クルックス博士(Sir William Crooks:1832—1919)である。彼は、ロンドンで生まれて、87歳の時にロンドンで死んだ。1848年に王立化学大学(Royal College of Chemistry)に入学して、有機化学を学び、その後、物理学の研究も続けた。1861年には、分光分析によりタリウムを発見し、1875年頃からは陰極線(放電現象)に興味を持って「クルックス管」を発明している。そのほか、テンサイからの砂糖製造の研究、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源に関する研究、都市排水に関する研究などでも知られていた。

 彼は、その早くからの業績が認められて、1863年に29歳の若さで英国の有名な学術組織である王立協会(英国学士院)の会員に選ばれている。続いて1875年にはロイヤル・ゴールドメダル、1888年にはデイヴィー・メダル、1897にはサーの称号、1904年にはコプリー・メダル、そして1910年にはメリット勲位を受けている。歴任した役職を見ても、王立協会をはじめとして化学協会、電気技師協会、英国学術協会などの会長を勤めており、まさに英国科学界の重鎮であった。

 そのウィリアム・クルックス博士が、1860年代の後半からは、心霊現象の研究も始めるようになった。「心霊現象研究協会」(SPR:Society for Psychical Research)の創設メンバーに加わり、1896年には会長にも就任している。「寸感・雑記」16の「信じることの難しさ」でも触れているように、彼は、物理的心霊現象の一つである「物質化現象」を科学的にはじめて証明したスピリチュアリズムの先駆者である。フローレンス・クックスという霊媒を3年間にわたり調査研究して、この幽霊現象が正真正銘のものであることを発表した。しかし、当時は、そのような発表が何の問題もなく受けいれられたわけではない。

 ハイズビル事件から十数年経っていたが、当時はまだ、心霊研究は、世間からは懐疑的な目で見られる傾向が強かった。それだけに、ウィリアム・クルックス博士のような「英国科学界の重鎮」が、心霊現象を独自に研究してみるという意向を公表した時のジャーナリズム界の反響は大きかった。クルックス博士が研究してくれれば、心霊現象や交霊などはみんなマヤカシであることを断定してくれるものと期待されていた。まさか博士がその真実を肯定することになろうとは、だれも予想していなかったのである。

 特に、博士を科学界の大御所として尊敬してやまなかった人たちの間には、失望と動揺が広がった。フランスのノーベル賞学者シャルル・リシェとポーランドの心理学者ジュリアン・オショロビッツは、クルックスが研究に着手すると聞いただけで、「博士ともあろうお方がなんということを! 博士は大変な過ちを犯された」と落胆していたという。(近藤千雄『人生は霊的巡礼の旅』ハート出版、1992、p.105参照)

 ところが、まる一年後に博士が王立協会に提出した心霊研究の最初の報告書は、心霊現象や交霊を全面的に肯定する内容になっていた。王立協会ではそれを受け入れる姿勢が全くなかった。当然のように、クルックスのその研究報告を協会の機関誌に掲載することを拒否した。クルックスは一年の研究期間中に、協会の役員の立ち会いを再三求めていたのに、ストークス会長をはじめとして、みんなそれを忌避していたから、それは予想通りの反応であった。

 そこでクルックスは、自分が編集主幹をしていた季刊誌〈科学ジャーナル〉Quarterly Journal of Science の七月号にこの自分の研究報告書「スピリチュアリズムの現象の研究」(Researches in the Phenomena of Spiritualism)を掲載した。そのなかには、クルックスの実験会に出現したケーティ・キングと名乗る女性霊の物質化現象の44枚の写真も、その霊姿が収められていたことで、社会的な大反響を巻き起こした。それでも、期待が裏切られたジャーナリズム界では、その研究の真実性を信じたわけではない。「もう一度、誰かほかの人に研究をやり直してもらうべきだ」などと、あくまでも心霊現象や交霊がまやかしであるという姿勢を崩さなかった。

 クルックスがこのように心霊現象や交霊の真実性を公表したことについては、科学者の中にも頭から毛嫌いする人が多かった。しかしその反面、「あのクルックス博士がまさか騙されるはずはない。何かがあるはずだ」という信念から、みずからもその心霊研究に着手した者もいなかったわけではない。そのうちの一人が、最初はクルックスの研究に真っ向から反対していたフランスのシャルル・リシエ博士である。リシエはノーベル賞を受賞した世界的な生理学者であった。

 その時のことを振り返って、彼は、「当時の科学的常識を絶対と思っていた私は、クルックス博士の見解を自分で実験して本当かどうかを確かめてみようなどと考える余裕など、カケラもなかった」と、告白している。そして、こうも言っていた。「人間というのは、人のやったことは頭からあざ笑うだけで平気でいられるものだ。恥ずかしい話だが、私もその一人だった。博士が写真を公表して、霊が物質化してその姿を写真に撮らせたこと、しかもその物質化像にも脈拍があったという報告を読んだ時、いかに尊敬申し上げる高名な物理化学者とはいえ、私は声に出して笑ってしまった。」(エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳、ハート出版、1992、p.173 参照)

 しかし、そのリシェも、その後、自分自身でも研究に乗り出して、それまでの学問的常識では説明のつかない超感覚的能力や異常心理(多重人格症)の存在に気づき、少しずつ霊的なものへの関心を強めていった。1892年には、イタリア人女性霊媒ユーサピア・パラディーノによる心霊実験会に出席して、驚異的現象を目の当たりにする。事実の前に圧倒された彼は、その時の感動をこう述べている。

 《ミラノでユーサピアの現象を見るまでの私は、クルックス博士はとんでもない過ちを犯されたと確信していた。ジュリアン・オショロビッツ博士も同じだった。が、その時はじめて私は真実に目が覚めた。そして、胸を搔きむしられる思いでオショロビッツ博士と同じくこう叫んだ――。「神よ、私が間違っておりました」》 (エステル・ステッド編、前掲書、p.174)

 リシェは、この後は熱心に心霊研究を続けて、スピリチュアリズムの普及に献身している。1923年には、Thirty Years of Psychical Research(『心霊研究三十年』)を出版して、心霊研究の歴史に大きな足跡を残した。



   (三)

 心霊研究とスピリチュアリズムの普及では、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(Alfred Russel Wallace, 1823—1913)も先駆者の一人である。彼は、イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者として著名であった。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、「ウォレス線」を特定した。そのため時に生物地理学の父と呼ばれることもある。チャールズ・ダーウィンとは別に自身の自然選択を発見し、ダーウィンの理論の公表を促した。また自然選択説の共同発見者であると同時に、進化理論の発展のためにいくつか貢献をした19世紀の主要な進化理論家の一人でもある。

 彼は、はじめは徹底した唯物論者であった。しかし、このウォレスも、1865年に姉ファニーと共に心霊主義の調査を始めている。イギリスの強力な物理霊媒として知られるガッピー夫人(アグネス・ニコル)の交霊会に出席して、彼女が出席者たちの手を握ったまま、腰かけた椅子ごとテーブルの上まで何度も浮かび上がるのを目撃した。夫人はまた、自宅から5キロ近く離れた場所へ瞬間的に移動するテレポーションも見せたりしている。

 ウォレスは、そのような交霊会での観察を何度も繰り返しているうちに、それらの心霊現象は自然的な現象であるという信念を受け入れるようになった。巷で行われている心霊現象で詐欺の告発がなされたり、トリックの証拠が提出されたりしても、彼は動ずる気配はなかった。少なくとも自分が体験してきたいくつかの交霊会での現象は本物だったという確信は揺るがなかった。ウォレスの心霊主義の公然とした支持は、1870年代に彼の科学的な評判を傷つけたが、彼のスピリチュアリズムに対する信念は、終生変わることはなかった。心霊現象の真実性については、もうこれ以上の確証を求める必要はない、と断言するようにさえなっていた。

 イギリスは、スピリチュアリズムが最も深く根を下ろした国の一つだが、その普及の先駆者になった一人がオリバー・ロッジ(Sir Oliver Joseph Lodge,1851—1940)である。彼は、ロンドン大学で科学を学び、1881年にリヴァプール大学で教えるようになる。1900年にリヴァプールを離れてバーミンガム大学に移り、1919年の引退までそこに留まった。1898年にランフォード・メダル、1932年にファラデー・メダルも受賞している。

 彼は、物理学者、著述家として著名である。初期の無線電信に用いられた「コヒーラ検波器」の発明者であり、点火プラグなども発明した。エーテルの研究でもしられている。また心霊現象研究協会の重要なメンバーで、心霊現象を肯定する立場での活動、著述にも熱心であった。彼は霊の世界について50年以上も研究し、その結果ますます宇宙を支配する超越的知性すなわち神への畏敬の念を深めたと述べている。科学的探究がかえって宗教心を深める結果となったのである。

 彼は、目に見えない世界こそ実在で、それはこの地球をはじめとする全大宇宙の内奥に存在し、物質というのはその生命が意識ある個体としての存在を表現するためにエーテルが凝結したものに過ぎないと主張していた。その著書は大小あわせて20冊を超えるが、いずれも現実界は虚の世界で霊界こそ実在界であるという、仏教の色即是空の哲学に貫かれている。

  ロッジは、ある心霊現象に係わる詐欺容疑の訴訟問題で証人として法廷に立ったことがあった。その時、ロッジの前に証言した人たちから、「"霊の世界"というのは一種の幻覚ですね」と質問されたが、彼は首を横に振って、「この世こそ幻影の世界なのです。実在の世界は目に見えないところにのみ存在します」と返答した、といわれている。

 彼は、1929年の著書『幻の壁』の中で、「われわれはよく、肉体の死後も生き続けられるだろうかという疑問を抱く。が一体その死後というのはどういう意味であろうか。もちろんこの肉体と結びついている 50~70年の人生のあとのひとに違いないのであるが、私に言わせれば、こうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない」と述べている。そして、「こうして物質をまとってこの地上に生きていること自体が驚異なのである、これは実に特殊な現象というべきである」といった後、こう付け加えた。「私はよく、死は冒険であるが楽しく待ち望むべき冒険である、と言ってきた。確かにそうに違いないのだが、実は真に冒険というべきはこの地上生活そのものなのである。地上生活というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体に宿って無事地上に出て来たこと自体が奇蹟なのだ。失敗する霊がいくらでもいるのである。」

 ロッジはまた、早世した自身の息子レイモンドと交霊したことを書いた『レイモンド』を出版している。この本は、日本でも大正時代に野尻抱影らが翻訳し、川端康成などに影響を与えた。(『レイモンド 人間永生の証験記録』野尻抱影訳、奎運社、1921 など) 彼は、イギリスの生んだ世界的物理学者であると同時に、その物理学的概念を心霊現象の解釈に適用した最初の心霊学者でもあった。

 イギリスにおけるスピリチュアリズムでは、もう一人、フレデリック・マイヤース(Frederic William Henry Myers: 1843—1901)を挙げておかねばならない。彼は、19世紀英国の古典文学者、詩人で、数多くの詩作に加えて、古代ローマの詩人ウェルギリウスやワーズワースの評伝等の業績が知られている。また、初期の深層心理学研究における重要な研究者でもあり、ウィリアム・ジェームズ、ピエール・ジャネ、テオドール・フルルノワ、カール・ユングらに影響を与えたと言われている。しかし、彼の名を後世に不朽のものとしたのは、心霊研究の開拓者としての大きな功績であろう。

 マイヤースは、幼いころからギリシャ語、ラテン語を中心とする古典教育を受け、14歳で詩のコンテストに優勝するなど才能を示し、次代を担う詩人になると期待されていた。詩人として立つ夢とその重責の間で葛藤し、最終的に詩人となることをあきらめるが、彼の詩人としての本質やロマン主義復興の影響は、後の心霊主義の研究にも表れている。

 彼は、牧師の息子であったが、信仰と理性を和解させることができず、キリスト教から離れた。キリスト教を離れたことで、霊魂が死によって消滅するという不安に悩み、1873年以降知人が開いていた降霊会に積極的に参加し、オックスフォード大学出身の霊媒ウィリアム・ステイントン・モーゼスの降霊実験に感銘を受ける。霊魂の死後存続の予感から、その証明のために心霊主義の研究を行い、彼の神なき世界において神のような存在であった恋人アニー・イライザの死を契機に、本格的に心霊主義を研究するようになった。そして、1880年代には、師であるヘンリー・シジウィック (Henry Sidgwick:1838‐1900、哲学者、倫理学者)らと共に心霊現象研究協会(SPR)を創立した。

 当初、彼は死者の霊との交流を目指していたが、やがて、心霊現象そのものについての思索を深めていった。精力的に心霊研究を行い、心霊現象研究協会の機関誌「会報」に論文を発表し、全ての論文に目を通し学術的水準の高さを保った。全2巻からなる大著『人間の人格とその死後存続』(Human Personality and its Survival of Bodily Death)は、彼の心霊研究の集大成であるといえる。またこの本は、スピリチュアリズム発展の契機となったハイズビル事件(1848年)以降の心霊現象全体を統一的に俯瞰する内容であり、「潜在意識」「天才における潜在意識の奔出」「催眠現象」「自動現象」などが扱われて、後の心霊学に多大な影響を与えた。

 マイヤーズは科学界から白眼視され、宗教からは非難されていた心霊事象を研究し、宗教の根本教義に関わる魂の死後存続や、キリストの復活を始めとする諸現象を、科学的に証明しようと考えていた。人格の一部は、外見上身体組織とは独立した仕方で作動でき、分離した人格はメタエーテルの場でその活動が顕在化する。これが霊であり、存続する個人エネルギーの顕現であると、というのが彼の意見である。

 彼はまた、人間の識閾上の部分でのコミュニケーション(知的・意識的交渉)が存在するのと同じように、識閾下の部分(無意識)でのコミュニケーションが存在するに違いないと考え、テレパシーはそこに関わってくるのではないかと推測した。従って、人間は互いに四肢(メンバー)であり、識閾下の部分で常に交渉しているのだから、テレパシーは愛の証明になり、これが聖者たちの共同体の地上における始まりであると考えたのである。

 こうして彼が創案した「超常 supernormal」「テレパシー telepathy」などの用語は現在も使われている。霊による現象と、霊媒や同席者の潜在意識やテレパシーによる現象を区別しなければならないと考え、彼は厳密な調査や実験を行った。この考え方は後のSPRの懐疑主義、特に心霊現象のほとんどは潜在意識とテレパシーによるものだとする姿勢につながったとも言われている。



   (四)

 先述のリシェと同時代にスピリチュアリズムの発展に尽くしたのが、フランスの天文学者・天文普及家・作家のニコラ・カミーユ・フラマリオン (Nicolas Camille Flammarion、1842—1925)である。フラマリオンは、1842年にオート・マルヌ県で生まれた。1858年にパリ天文台の共同研究者として、天文学者の第一歩を踏み出している。1883年にはジュイヴィー・シュル・オルジュ天文台を設立し、1887年に、フランス天文学会も創設した。その学会では初代学会長として、月報の出版なども主導している。

 1892年には、『火星とその居住可能性の諸条件』を出版した。彼はこの中で、詳細な分析と観測に基づき、火星には「カナリ」と海があり、火星人が住んでいるとした。彼は、火星には地球人よりも優れた種族が生存しているという仮説も示していた。カナリは彼らが建設した人工的な灌漑(かんがい)施設、すなわち運河であると主張した。なお、現在、火星のクレーターには、彼の名が冠されたものがある。

 フラマリオンは、1874年にシルヴィー・プチオーと結婚しているが、後に死別し、1919年には助手のガブリエル・ルノドと再婚した。1897年にジュール・ジャンサン賞受賞。1912年にレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受勲し、1922年にコマンドゥールに昇進した。1925年にジュイヴィー・シュル・オルジュで没した。

 彼は心霊研究にも熱心に取り組み、1865年に、心霊研究を扱った初めての本『未知の自然力』を書いている。この中で彼は、心霊現象の一般の真実性に関する検討を中心にして、「これらの力は、重力と同様、現実のものであり、また重力と同じく、目に見えないものである」などと述べている。1889年には、『未知の世界』も出版した。この本も、テレパシー、危機幻像、予知夢、透視能力などの真実性を証明しようとする試みであり、ここでは、彼は「霊魂と肉体とは独自に存在する実体であり、それは科学ではいまだ知られていない機能を有し、五感に頼ることなく、離れた場所からも作用することができる」という結論を導き出している。

 フラマリオンが、はじめてイタリア人女性霊媒のユーサピア・パラディーノに出会ったのは、リシェよりも5年遅く、1897年7月27日、モンフォール・ラモリにおいてであった。フラマリオンは彼女をパリに招待し、1898年11月、自宅で8回に及ぶ交霊会を開いた。その席には多数の科学者たちも出席していたが、彼等の眼前に、驚くべき超常現象がつぎつぎと出現する。

 彼は、「霊媒パラディーノによる現象は、私にとって、まったく疑問の余地のない確かな事実であり、すでに確立された自然科学の領域の外に、未知なる物理力が存在していると、確言できる」と、ためらいもなく断言している。そして、1933年、心霊現象研究協会 (The Society for Psychical Research)会長に就任した彼は、10月の講演において、60年にわたる心霊研究の結果を次のように要約した。

 《人間には未知の霊的な機能があり、幽姿を現すということもある。思考は心象を肉体の外に作り出すことができ、心霊の流れは大気を横切っていく。われわれは不可視世界の只中に住んでいるのだ。魂の機能は肉体組織の分解後も存続し、ごくまれにではあるが、死者は実際に幽霊屋敷に姿を現わす。このような現象が起こりうることに疑問の余地はない。また、テレパシーは生きている者同士だけではなく、死者との間でも可能である。》 (田中千代松編『新・心霊科学事典』潮文社、1984、p.377)

 ヨーロッパのスピリチュアリズムの先駆者としては、最後にもう一人、ドイツの科学者の名前もここに挙げておかねばならない。アルベルト・フォン・シュレンク・ノッチング男爵(Albert von Schrenck-Notzing:1862年—1929)である。彼は、ドイツの神経科医、性心理学者、催眠術研究家である。そして、心霊研究家でもあり、20世紀初頭における超心理学研究の開拓者の1人であった。

 シュレンク・ノッチングは、フランスのナンシー大学を卒業後、1886年から超心理学、特にテレパシーや霊媒の研究に従事し、ドイツ国内・国外で霊媒を用いた実験を行った。1909年にはアルジェリア出身のフランス人女性霊媒エヴァ・カリエールを調査対象とし、エヴァの起こした物質化現象を本物と認めたことでも知られている。エヴァ・カリエールの霊能力は、特に物質化現象で知られ、1920年代以降にはフランスの心霊研究家であるシャルル・リシェやギュスターヴ・ジュレの研究対象ともなって、エクトプラズム研究に大きく貢献した。そのエヴァ・カリエールの物質化現象の真実性を早くから認めていたのが、シュレンク・ノッチングであった。

 すでに、1914年には著作『物質化現象、霊媒テレパシー研究のための寄与』を発表しているが、当時はそのような研究が異端視されていたため、この著作はドイツの医学界に衝撃を与え、学会から激しく非難された。しかし妻の実家が裕福だったため、学会の反発に逢っても一向に生活に不自由することはなく、超心理学研究に没頭し続けた。ミュンヘンの彼の邸宅では定期的に交霊会が開催され、後にはミュンヘン大学心理学研究所の一室でも公開実験が行なわれている。この実験に立ち会った人物にはジャーナリストたちに加え、ハンス・ドリーシュやカール・フォン・クリンコフシュトレームといったドイツの著名な学者たちもいた。1922年12月20日から1923年1月24日にかけて3回行われた実験には、ドイツの小説家であるトーマス・マンが参加したことでも知られている。

 当時のトーマス・マンは著作『ブッデンブローク家の人々』で大きな名声を得ていた上、超常現象を否定する立場におり、名作家としての力量でシュレンク・ノッチングのペテンを暴くことを多くの人々から期待された。しかしマンは実験後、自分が心霊主義者でないとの立場を貫きながらも、この実験に対しては後の書簡で、霊媒の中に別人格が現れたこと、霊のようなもので物体が動いたことなどの現象を述べ、それらを事実として受け止め、トリックやペテンがなかったことを公言して大きな反響を呼んだ。後のマンのノーベル文学賞受賞第1作 Mario und der Zauberer(1930年、邦題『マーリオと魔術師』)は、この実験がモデルとなった著作である。

 物質化現象というスピリチュアリズムのなかでも最も非難を受けやすいセンシティブな領域で、揺らぐことなくその真実性を探求し続けた彼のその業績は大きい。特に、霊媒エヴァ・カリエールの身体から流出したエクトプラズムが、人間の顔や全身像を形作っていく物質化現象の全過程を自分の目で観察するだけではなく、数百枚におよぶ写真に記録を残して、他にかけがえのない客観的証拠を私たちにもたらした功績は特筆すべきである。それらは、はじめに挙げたイギリスのウィリアム・クルックスの業績と共に、スピリチュアリズムの貴重なレガシィになっているといえるであろう。


     [参考書]
   
エステル・ステッド編『ブルーアイランド』(近藤千雄訳、潮文社、1992
   近藤千雄『人生は霊的巡礼の旅』(ハート出版、
1992
   近藤千雄『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版、1993
       春川栖仙編『心霊研究辞典』(東京堂出版、1990
   田中千代松編『新・心霊科学事典』(潮文社、1984
   リン・ピクネット『超常現象の事典』(関口篤訳、青土社、
1994




         *****************



    霊的に無知であった人の死後の霊界での状況    (2023.08.22


 タイタニック号遭難者の一人であったジャーナリストのウィリアム・ステッドは、生前、心霊研究に打ち込み、スピリチュアリズムの普及に献身していただけに、霊界へ移ってからも、状況の急激な変化にあまり混乱することはなかった。「寸感・雑記」No.17の「タイタニック号遭難犠牲者からの霊界通信」でも触れているように、突然に霊界へ移されて、戸惑いながらも、地上時代に持っていた霊的知識が主要な点で百パーセント正確であることを知って感動している。「地上時代にスピリチュアリズムとの出会いによって驚くと同時に感動したのと同じように、私は、今度はこちらへ来てみて、地上時代に得た霊的知識が重要な点において百パーセント正確であることを知って、驚き、かつ感動しました。そうと知った時の満足はまた格別でした。学んでいた通りなので、驚きと喜びを同時に感じたものでした」(エステル・ステッド『ブルーアイランド』近藤千雄訳、ハート出版、1992、pp.31-32)、というのが、その時のステッドの感慨である。

 遭難直後は、「死んだ」ステッドも地球のすぐ近くにいて、彼の目にも、その現場のシーンがありありと見えていた。そして、彼自身が何よりも驚いたのは、本当は自分自身も大変な状態にあったはずなのに、あの混乱状態の中で、他の溺死者の霊を彼が救出する側の一人になっていたということであった。沈没していく船体、ボートで逃げる船客を見ていて、「救ってあげなくては!」と思った次の瞬間には、彼は、自分自身の茫然自失の状態から覚めて、水没して肉体から離れていく人たちを手引きする役をしていたという。

 1,500余名という大変な数の乗客が海に投げ出されて溺死し、波間に漂っていたが、霊界の大規模な救出作戦により、それらの死体から抜け出た霊たちが次々と宙空へと引き上げられていった。溺死したのに、みんな「生きていた」のである。中にはすこぶる元気な者もいる。死んだ後は霊体になっていることに気づかず、貴重品が惜しくて手に取ろうとするのに、どうしても掴めなくて、かんしゃくを起こしている者などもいた。やがて、そのような溺死した霊たちは、全て救出されて宙空の一つの場所に集められる。そのような仕事をステッドは手伝っていたのである。

 用意万端が整ったところで、死者が最初に訪れる霊界の中間層(それをステッドは「ブルーアイランド」と表現していた)へ向けて、その場全体が動き出した。「奇妙といえば、こんな奇妙な旅も初めてでした。上空へ向けて垂直に、物凄いスピードで上昇していくのです。まるで巨大なプラットホームの上にいる感じでした。それが強烈な力とスピードで引き上げられていくのですが、少しも不安な気持ちがしないのです」と、ステッドは振り返っている。(エステル・ステッド、前掲書、pp.37-38)

 その時のステッド自身は、遭難後の一瞬の混乱からすでに落ち着き、平常心を取り戻して周囲の霊たちへの献身に努めている。死後の様子が地上で学んでいた通りであることを知って、何ともいえない嬉しい気持ちにもなっていた。「ジャーナリストの癖で、一瞬、今ここに電話があれば! と、どんなに思ったことでしょう。その日の夕刊に特集記事を送ってやりたい気分でした」などと言いながら、「つい今しがた体験したばかりの忌まわしいシーンは、もう遠い過去へ押しやられていました。死の真相がわかってしまうと、そういう体験の怖さもどこかへ消えてしまいました。つい昨夜のことなのに、まるで五十年も前のことのように思えました。お蔭でこの新しい土地での楽しさが、地上に残した者との別れの悲しさによって半減されるということにならずに済みました」(エステル・ステッド、前掲書、p.51)とも、述懐している。

 その一方で、彼は、地上に残してきた自分の家族のことも気になりはじめていた。その時点では、タイタニック号沈没のニュースはまだ人々には届いていないはずであった。「ニュースを聞いたら家族の者はどう思うだろうか。その時の私の心境は、自分はこうして無事生き続けているのに、そのことを知らせてやるための電話が故障して使いものにならない」というような、じれったさを感じたりしていた。

 冒頭でも触れたように、ジャーナリストであったステッドは、熱心なスピリチュアリストでもあった。しばらく時間が経過して、やがて彼は、地上にいる長女エステルへの霊界通信を送り始めるようになる。その中で彼は、霊界へ移ってからは、もう一度地上へ再生して生活してみたいと思ったことは一度もない、とくにブルーアイランドを卒業して実在界へ来てからはそうだと繰り返している。彼にとっては、霊界とは安らぎと希望の世界で、その霊界の中間層も彼が「ブルーアイランド」といっているように、「明るく美しいブルーの国」なのであった。

 しかし、それは、タイタニック号の犠牲者にとって、全員がそうだというのではない。ステッドも、「少なからざる人々が不幸な状態に置かれたことでしょう。が、それも、二つの世界の関係について何の知識も持たないからにほかなりません。そういう人たちは、二つの世界の間で一体どういうことが起こりうるのかを知らなかったわけです。それを知っていた私のような者にとっては、旅行先に到着して便りを書く前に、“ちょっとそこいらを見物してくるか”といった気楽な気分でした。悲しい気分など、まったくありませんでした》と述べている。(エステル・ステッド、前掲書、p.51)

 それでは、この、「地上世界に生きていた時には、二つの世界の関係について何の知識も持っていなかった」少なからざる人たち、つまり、生と死の霊的真理に全く無知であった人たちは、霊界へ移ってからはどのような体験をすることになったであろうか。遭難して溺死したはずなのに「生きて」いる。そのことにまず何より驚き、困惑したことであろう。生きているという確かな実感があるのだから、実は死んだばかりだということに気がつかない人々も少なくはなかった。なかには、ステッドも述べているように、貴重品が惜しくて手に取ろうとするのに、どうしても掴めなくて、かんしゃくを起こしている者などもいた。少なからざる人々が不幸な状態に置かれていても、その「不幸な状態」はさまざまであった。(エステル・ステッド、前掲書、p.37 参照)

 タイタニック号の大惨事でおびただしい数の犠牲者が出た時には、すでに触れたように、霊界では、“見えざる力”によって大規模な救出活動が行なわれたが、スピリチュアリストの立場から、ステッドも、そういう不幸な状態に置かれている人たちを、いろいろと導いていく努力をしていた。そのうちの一人の遭難犠牲者の霊との、霊界通信の一つが残されている。これは、『ブルーアイランド』の「注釈」のなかで、訳者の近藤千雄さんが紹介しているが、事故以来、自分が死んだことにも気がつかずに迷い続けていた犠牲者の霊の興味ぶかい記録である。


  スピリチュアリズムに「招霊実験会」というのがある。これは、文字どおり“霊を招いて”霊媒に乗り移らせ、その発声器官を使って話してもらう一種の霊言現象である。ステッドは、霊界で、まだ生と死の真実がわからずに迷い続けている霊を覚醒させる仕事を続けていたが、時には、その目覚めを促進させるために、地上の、このような招霊実験会に頼ることがあった。タイタニック号遭難事故4年後の1916年に、米国の精神科医カール・ウィックランド博士が行なっていた招霊実験会に彼が出現したのである。以下、その時の状況を、ウィックランド博士の著書 (C.Wickland: Thirty Years Among the Dead) から近藤さんが抜き書きして和訳したものを引用させていただくことにする。この招霊実験会では、まず、ステッドが出てきて簡単に事情を説明したあと、事故犠牲者の一人の霊がまるで海に投げ出されて必死に助けを求めているような状態で、この実験会に現れた。そして、次のように対話が始まった。(以下、エステル・ステッド、前掲書、pp.39-46 参照)

 ―犠牲者の霊:「助けてくれ! 助けてくれ!」
 ―ウィックランド博士:「どちらから来られましたか」
 ―:「今ここを出て行った人が、ここに入れと言うものですから来ました」
 ―博士:「海の中にいたのですか」
 ―:「溺れたのです。でも、また息を吹き返しました。今の方の姿は見えないのですが、声だけは聞こえました。“ここに入りなさい。そのあといっしょに行きましょう” と言ったのです。ですが、どこにいるのか分かりません。目が見えなくなってしまった! 何も見えない! 海の水で目をやられたのかも知れませんが、とにかく見えません」

 ここで、私自身の解説を挟んでおくが、犠牲者の霊が「今ここを出て行った人」と言っているのは、その招霊実験会に来ているステッドのことである。この霊は、ステッドに招霊実験会に連れてこられて、ここに入るようにと言われた、と言っているのである。

 また、この霊は、溺れた後、「息を吹き返しました」と言っているが、死んでも「生きている」ことがまだわからず、死なないで「息を吹き返した」と思い込んでいる。ここで、この霊が「息を吹き返した」のに、「目が見えなくなってしまった」といっていることに注目しておきたい。この対話は、このあと、ウィックランド博士が、その見えない理由について教えている。博士は、こう語った。

 ―博士:「それは霊的な暗闇のせいですよ。死後にも生命があることを知らずに肉体から離れた人は、暗黒の中に置かれるのです。無知が生む暗黒です」
 ―:「今、少し見えるようになりました。少し見えかけては、すぐまたドアが閉められたみたいに真っ暗になるのです。妻と子供のそばにいたこともあるのですが、二人とも私の存在に気がつきませんでした。今はドアが開いて寒い戸外に閉め出されたみたいな感じです。わが家に帰っても孤独です。何かが起きたようには感じてますが、どうしてよいのか分かりません」
 ―博士:「ご自分が置かれている状況がお分かりにならないのですか」
 ―:「一体、私に何が起きたのでしょうか。この暗闇は何が原因なのでしょうか。どうしたら脱け出せるのでしょうか。自分のことがこんなに思うようにならないのも初めてです。いい感じになるのは、ほんのいっときです。今、誰かの話し声が聞こえます。おや、さっきの方が見えました。ステッドさんとおっしゃってましたね?」

 ここでは、霊が、「どこにいるのか分かりません。目が見えなくなってしまった!何も見えない!」と嘆きながら、海の水で目をやられたのかも知れない、などと言っているのに対して、博士は、「それは霊的な暗闇のせい」で、無知が生む暗黒だと教えている。死後にも生命があることを知らずに肉体から離れた人は、暗黒の中に置かれるのである。その暗黒のなかでは、霊は、わが家に帰っても孤独で、何かが起きたようには感じていても、どうしてよいのか分からない。その招霊実験会に、ステッドが来て、何かを話していたような感覚だけは、微かに感じ取っていたようである。博士は、答える。

 ―博士:「そうです。あなたが来られる前にステッドさんがその身体(霊媒)で挨拶されたのです。あなたをここへご案内したのはステッドさんですよ。ここに集まっている者は、あなたのように暗闇の中にいる霊に目を覚まさせてあげる仕事をしているのです」
 ―:「ひどい暗闇です。もう、ずいぶん長い間この中にいます」
 ―博士:「いいですか、“死”というものは存在しないのです。地上で始まった生命は肉体の死後も続くのです。そして、その霊の世界では、人のために役立つことをしないと幸せになれないのです」
 ―:「たしかに私の生活は感心しなかったと思います。自分のためにだけ生きておりました。楽しいことばかり求めて、お金を使い放題使っておりました。このところ、自分が過した生活ばかり見せられております。見終ると真っ暗になります。それはそれはひどい闇です。過去の生活の一つ一つの行為が目の前に展開し、逃げ出そうとしてもダメなのです。ひっきりなしにつきまとって、なぜこんなことをしたのかと責め立てます。たしかに、今思うと、わがままな選択ばかりしていたことが分かります。ですが、後悔先に立たずで……」
 ―博士:「地上で自分本位の生活ばかりしていた人は、大てい霊界へ行ってから暗闇の中に置かれます。あなたはこれから霊界のすばらしい側面を勉強して、人のために役立つことをすることが、霊の世界の大原則であることを理解しないといけません。その時に味わう幸せが“天国”なのです。天国とは精神に生じる状態の一つなのです」
 ―:「なぜそういうことを地上で教えてくれないのでしょうか」
 ―博士:「そんな話を、地上の人間が信じるでしょうか。人類は、一握りの人を除いて、大体において霊的なものを求めず、ほかのこと、楽しいこととお金になることばかり求めます。霊的真理は求めようとしないものです」

 ここで博士は、改めて、“死”というものは存在しない、ことを教えている。人のために役立つことをしないと幸せになれない、といい、地上で自分本位の生活ばかりしていた人は、大てい霊界へ行ってから暗闇の中に置かれることも、教えている。この霊が、「過去の生活の一つ一つの行為が目の前に展開し、逃げ出そうとしてもダメなのです。ひっきりなしにつきまとって、なぜこんなことをしたのかと責め立てます」と言っているのは、霊界の指導の一環で、この霊が「地上で自分本位の生活ばかりしていた」ことへの反省が迫られているのである。人のために役立つことをすることが、霊の世界の大原則であることを理解しないと、人間は幸せにはなれない。実は、この霊も、地上に生まれてきた意味は、そういうことを学んで霊性を向上させていくことにあったはずであった。しかし、現実には、「楽しいことばかり求め、お金を使い放題使う」自分本位の生き方をしてきた。それが霊性を曇らせ、霊界へ還ってからは暗黒の世界に閉ざされることになったのである。

 この霊は、「なぜそういうことを地上で教えてくれないのでしょうか」と訊いているが、これは愚問であろう。学ぶ機会はいくらでもあったのに、本人が学ばなかっただけである。博士は、「そんな話を、地上の人間が信じるでしょうか」と答えているが、地上に居る間は、自分自身が霊的真理など求めようともせず、もし耳にしても馬耳東風と聞き流したり、妄言の類いだと撥ねつけていたであろうことなどには思い及ばない。物的な欲望に身を任せて、蓄財と快楽の追及に現を抜かしてきたのもほかならぬ自分であったという反省も、「後悔先に立たず」というひと言だけで終わってしまっている。博士も言っているように、物質的欲求と霊的真理の希求は相容れないのである。この霊は、「ひどい暗闇です。もう、ずいぶん長い間この中にいます」と言っているが、それは、そのまま、自分の心の迷妄状態を示していることに、この段階ではまだ気付いていない。この霊は、この後、こう続ける。

 ―:「何となく奇妙な感じがじわじわと迫ってくるみたいです。おや、母さん! 母さんじゃないの! ぼくはもう大人なのに、何だか子供に戻ったみたいな感じがする。ずいぶん探したんだけど、ぼくはずっと暗闇の中で生活していて……なぜこんなに見えないのでしょう? この目、治ると思いますか、母さん? このままずっと見えないままですかね? 母さんの姿は見えるのに、それでも盲目になったような感じがするのは変だと思わない?」
 ―博士:「あなたは肉体が無くなって、今は霊的な身体に宿っているのです。だから、その霊体の目が開けば霊界の美しいものが見えるようになるのです」
 ―:「あそこにステッドさんがいるのが見えます。同じ船に乗り合わせた方です。なのにステッドさんは暗闇にいるように見えませんが……」
 ―博士:「あの方は地上にいた時から霊界のことや、こうして地上へ戻ってこれることを、ちゃんと知っておられたのです。人生というのは学校のようなものです。この地上にいる間に死後の世界のことを出来るだけたくさん知っておかないといけないのです。霊界へ行ってから辺りを明るく照らす光になってくれるのは、生命の問題について地上で学んだ知識だけなのです」
 ―:「そういうことをなぜ誰も教えてくれなかったのでしょうか」
 ―博士:「では、もし誰かがあなたにそんな話をしていたら、あなたはそれを信じたと思いますか」
 ―:「私がつき合った人の中には、そういう知識をもった人はいませんでした」

  この地上からは霊界は見えないが、霊界からは、地上が見える。霊界では、いわば、誰でもみんな霊能者である。この霊の場合にも、母親の姿は見えるが、それでも盲目になったような感じがするのは、まだ霊体の目が開かれていないからである。「霊界へ行ってから辺りを明るく照らす光になってくれるのは、生命の問題について地上で学んだ知識だけなのです」という博士のことばには重みがある。ここでも、この霊は、「そういうことをなぜ誰も教えてくれなかった」と聞いているが、これも浅はかな問いである。仮に誰かがそんな話をしても、それを素直に信じるような態度を持っていなかったからこそ、いまは暗闇のなかにいるのである。さらにいえば、真実を求める純真で素直なこころがあれば、仮に、地上でスピリチュアリズムに接することがなくとも、霊界で暗闇の中に閉じ込められるようなことはないであろう。霊界に還っても、霊的真理を素直に受け入れる素地があるからである。博士の霊との対話は、さらにこう続く。

 ―博士:「今年は何年だと思いますか」
 ―:「1912年です」
 ―博士:「実は1916年なのです」
 ―:「では今まで私はどこに行ってたのでしょう~ お腹は空くし、寒くて仕方がありませんでした。お金はたっぷりあったのです。ところが最近は、それを使おうと思っても手に取れないのです。時には暗い部屋に閉じ込められることもあります。その中で見せられるのは、過去の生活ばかりなのです。
 私は決して悪いことはしておりません。ですが、いわゆる上流階級の人間がどんなものかは、あなたも多分ご存知と思います。私はこれまで“貧しい”ということがどういうものかを知りませんでした。今回のことは私にとってまったく新しい体験でした。なぜ世の中は、死ぬ前にそれを思い知らされるようになっていないのでしょぅか。地上で思い知れば、私のように、今になってこんな苦しい思いをせずに済むでしょうに……」
 ―博士:「お母さんやお友だちといっしょに行って、その方たちが教えてくださることをよく理解してください。そうすればずっとラクになります」
 ―:「ステッドさんの姿がはっきり見えます。あの方とはタイタニック号で知り合ったのですが、お話を聞いていて、私には用のない人だなと思っておりました。年齢もかなり行っておられたようでしたので、霊的なことを趣味でやっておられるくらいに考えたのです。人間、年を取ると、一つや二つの趣味をもつものですからね。私にはそんなことに興味をもっている余裕はなかったのです。お金と、お付き合いのことしか関心がありませんでした。貧しい階級の人に会う機会がありませんでしたし、会う気にもなりませんでした。今はすっかり考え方が変わりました。ところが、こちらはお金に用のない世界です。母が私を待ってくれています。いっしょに行きたいと思います。何年も会っていないものですから、うれしいです。母が言ってます――これまでの私は気の狂った人間みたいに、まったく言うことを聞かないで、手の施しょうがなかったのだそうです」
 ―博士:「お名前を伺いたいのですが」
 ―:「ジョン・J・A と申します。皆さん方とのご縁をうれしく思います。お心遣いに深く感謝いたします。今やっと、これまで思いもよらなかったものが見えるようになり、聞こえるようになり、そして理解できるようになりました。母たちが迎えにやってきました。あのきれいな門を通り抜ければ、きっと私にとっての天国へ行けるのでしょう。
 改めて皆さんにお礼申し上げます。いつの日か、もう一度戻ってこれることを期待しております。さようなら」


 以上でこの対話は終わっている。この霊は自分の名前もジョンと名乗った。ジョンは、この対話が行われたのは、タイタニックが遭難した1912年だと思っていたが、実は1916年で、あれから4年も経っていることに気付いていなかった。その間、ずっと暗闇の中に閉ざされていた。「時には暗い部屋に閉じ込められることもあります。その中で見せられるのは、過去の生活ばかりなのです」と言っているが、それは、過去の生活が間違っていたことに気がつかせるための霊界の配慮であろう。

 ジョンは、地上に生きていた時には、「貧しさというものがどういうものかも知らない」上流階級の人間であった。金儲けと豊かな生活にしか関心がなく、貧乏人とは付き合う気もなかった。しかし、霊界に来て、はじめて、物的な財産には何の意味もないことを知るようになる。この招霊実験会で、ウィックランド博士からも改めて霊的真理を説き明かされて、それまで、いろいろとステッドから教えられてきた生と死の真実も、こころから納得できるようになったのであろう。ジョンは、「今はすっかり考え方が変わりました」というようになった。「今やっと、これまで思いもよらなかったものが見えるようになり、聞こえるようになり、そして理解できるようになりました」と感謝しながら、「地上で思い知れば、私のように、今になってこんな苦しい思いをせずに済むでしょうに……」と、反省もしている。ここで、ようやく、ジョンの目からは鱗が落ちた。4年間の暗闇からも抜け出すことができた。仏教でいえば、「成仏」したのである。




     **********



       40年目の「91日」を迎えて  2023.09.01


   (一)

 今年も「9月1日」が巡ってきた。サハリン沖の海上で大韓航空機事件が起こった1983年9月1日からは今日でちょうど40年目になる。事件当時、私はノース・カロライナ州立大学の客員教授として、長女は、同大学の留学生としてアメリカのノース・カロライナ州の首都ローリーに住んでいた。夏休みを利用して東京から来ていた妻と長男が、この日、帰国の途中、この飛行機に乗り合わせて犠牲になったのである。ローリーの自宅で、アメリカ時間の8月31日の夜、夕食後のテレビで、その飛行機、ニューヨーク・ケネディ空港発KAL007便が、「予定時間になっても到着せず」というニュースを聞いた時の激しい衝撃は、40年を経たいまも忘れられない。

 まんじりともせずその夜を明かした私と長女は、その翌日、大学も休んで、慌ただしく帰国の途についた。東京では、遺族に割り当てられたホテルに住みながら、結成された遺族会に出て、真相究明や慰霊祭のことなどを話し合う以外は、ほとんどホテルの自室のベッドで横になっていた。1か月後、私と長女は、アメリカへ戻って、何とか大学での講義と授業の生活を取り戻そうと努めてみてが、ショックから立ち直ることは出来なかった。体調がすぐれず、ベッドから起き上がれないような半病人の状態が続いた。遂にアメリカ滞在を諦め、大学を辞めて、11月初旬に私たちは日本へ帰った。

 札幌の自宅で、ほとんど寝たきりの状態が続いて、ようやく、翌年の4月から、在籍中の小樽商科大学に復帰した。悲歎に暮れながら、私は、仏典や聖書を読むようになっていた。霊的な教えを求めて、多くの霊能者がいるというS教団にも通うようになった。そして、これは二重の苦しみであったが、事件の真相究明にも取り組まなければならなかった。調べれば調べるほど、ソ連の防空態勢を探査するために大韓航空機の意図的領空侵犯を強要した米軍の非人道的犯罪行為が浮き彫りになっていった。私は、独りで機関紙を毎週発行してその犯罪行為を告発しながら、血を吐くような思いで、『妻と子の生きた証しに』や『疑惑の航跡』などの本を書いた。8月になって、東京で設立された『大韓航空機事件の真相を究明する会』では、瀬谷英行、田英夫両参議院議員らと共に代表理事の一人に選ばれて、それからは定期的に、飛行機で東京の研究会へ出かけるようになった。



   (二)

 翌年、1984年9月1日の一周忌には、私も他の遺族たちと稚内へ行って、洋上慰霊祭に参加した。チャーター船『第二宗谷丸』に乗りこみ、はじめてソ連領海内に入って、モネロン島近くの007便墜落現場まで行った。小雨の降る中で慰霊祭を行なったあと、50数名の遺族たちは舷側に立って、それぞれに花束と涙を暗い海の上に落とした。

 事件現場の海を目の前にして立っていると、深い悲しみの中で、この事件を引き起こした犯罪者たちに対する抑えようのない怒りがこみ上げてくる。私たちは稚内に引き返す途中、船中で20人近くの内外記者団を前に、遺族会の名前で声明を出した。「われわれは、大韓航空機撃墜事件の一周年にあたり、理不尽にも一瞬にして生命を奪われた愛する家族たちの怨念を体し、人道と正義と平和を世界に訴えるために次の通り声明する」という切り出しで、大韓航空の殺人飛行に抗議し、民間航空機と知っていたはずでありながら撃墜したソ連の蛮行を弾劾した。そして、アメリカについてはこう述べた。

  《アメリカの軍情報組織は、KAL 007便の航路逸脱の一部始終を熟知していて、同機を救える立場にありながら、一片の警告を発しようともせず、乗客乗員269名を死に至らしめた。これはアメリカの人道に対する許し難い犯罪である。われわれは、その軍事優先の人命軽視と非人道性を強く糾弾し、あわせて、故意としか考えられない同機のソ連領空侵犯は、米軍情報組織と緊密な連携のもとに行なわれたのではないかという重大な疑念を重ねて表明する。》

 それから1年が経過して、その間に私たち遺族は、稚内市のサハリンを臨む宗谷岬の高台に「祈りの塔」を建立した。この「祈りの塔」は、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、遺族会の資金と、稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに建立されたものである。事件後3年目の1985年「9月1日」には、2周忌の慰霊祭が、建立されたばかりのその「祈りの塔」の前で行われた。

 この塔は、「鶴が大きく羽を広げ、天空に首を持ち上げる姿」をしており、事件の真相と真の平和を鶴のように首を長くして願い求める様子を表している。19.83mある塔の高さは事故発生の年を、16枚の羽は遭難者の母国を、そして、269枚の白御影石は遭難者の数と一致させている。この塔の裏面には、私が書いた和文と英文の「事件概要」のプレートが嵌め込まれ、前面左側には269人の犠牲者の名簿が刻まれている。その中には「武本富子」「武本潔典」の名前も入っている。右側には碑文「愛と誓いを捧げる」が刻まれているが、これは、もともと私が原文を書いたもので、最初は、つぎのようなことばが連ねられていた。

  《愛しい人たちよ、1983年9月1日の未明、あなた方を乗せた大韓航空007便は安全運航の責任と義務を完全に放棄し、定められた航路から500キロも外れて故意にソ連領空を侵犯しました。そのためにソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、何の罪もないあなた方まで犠牲にされてしまったのです。

  アメリカ政府と軍部はこの領空侵犯を熟知していて、はじめから終わりまで克明に追っていたはずであったのに、なぜ警告して救おうとはしなかったのでしょうか。ソ連政府と軍部はこの航路逸脱を二時間半にわたって捉えていながら、どうして軍用機と間違えて撃墜してしまったというのでしょうか。

  愛しい人たちよ、あなた方の生きる喜びを無残にも奪い去った大韓航空と米ソの人命軽視を私たちはあくまでも糾弾し、事件の真相を明らかにしていくことを誓います。あなた方の犠牲を決して無駄にさせないためにも、いのちの重みと平和の尊さを広く世界の人々に訴えていくことを誓います。

  愛しい人たちよ、どうかいつまでも安らかにお眠りください。》

 この碑文は、しかし、「祈りの塔」の敷地が国有地であるという理由で、関係当局の間では問題になったようである。日本政府は、国会で真相究明の決議を満場一致で可決していながら、アメリカ政府の、事件の真相を隠蔽しようとする情報操作が明らかになっても、それを批判することには消極的であった。ソ連に対しても、北方領土問題があって、強くは刺激したくないという思惑があったようである。結局、この碑文は骨抜きにされてしまった。当たり障りのないことばに改変された現在の碑文はつぎのようになっている。

 《あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。
 事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう 
 わたしたちは あなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません 
 わたしたちは 生命の尊さと武力のおろかさをひろく世界の人々に訴えていくことを誓います
 愛しい人たちよ
 安らかにお眠りください》

 この2周忌の慰霊祭の後も、私は、毎年、9月1日には稚内へでかけて、この「祈りの塔」の前で行われる慰霊祭に参加してきた。東京で設立された『大韓航空機事件の真相を究明する会』でも、週末に定期的に開かれていた研究会に、飛行機で往復しながら一度も休まずに参加し続けた。「9月1日」の直前には、「究明する会」でも、毎年、議員会館で記者会見を開き、田英夫、瀬谷英行両参議院議員や私を含む代表理事の名前で声明を発表していた。その記者会見で、私たちが、第1回の声明を出したのは、1985年8月28日である。

 その翌年、1986年の春、私は小樽商科大学も依願退職して東京へ移った。私は、その頃はもう、社会的な名誉とか地位のようなものには、何の魅力も執着も感じなくなっていた。それからも、「究明する会」会員の諸氏と共に、新聞、雑誌に度々真相究明を訴える記事を載せ、1988年には、「究明する会」の研究結果を『大韓航空機事件の研究』の大著にまとめて刊行した。そして、1991年に入ると、私は大きな転機を迎えることになる。同年4月に、私は7年間務めた「大韓航空機事件の真相を究明する会」の代表理事を辞任して、初めて真相究明運動からも離れ、ロンドン大学客員教授として渡英したのである。


   (三)

 その頃には、ようやく、私も「シルバー・バーチの霊訓」を読み、その重大さに気づくようになっていた。大英心霊協会のことも知って、ロンドンに住んでからも、ロンドン大学に通う傍ら、度々大英心霊協会を訪れた。その売店で、シルバー・バーチの霊訓の原典を買い集めて、その一部を翻訳したりもした。

 東京では、S教団の霊能者たちから数十回の霊言を受けてきたが、その内容に納得できたことは一度もなかった。もしも、この大英心霊協会の霊能者たちからも納得のいく霊言が得られなかったら、私はもう一生救われない。そういう切羽詰まった気持ちのなかで、こころの準備を十分に整え、やがて、大英心霊協会でミーディアムたちとの接触を始めた。アン・ターナーとの運命的な出会いもあった。そして、ここで初めて私は、その真実性を疑うにも疑いようのない数々の霊言を受けて、霊的に目覚めたのである。妻と長男の「生存」を確信できるようになり、ようやく、長年の悲嘆と苦しみから解放された。

 大英心霊協会のミーディアムたちは、自分たちの霊能力を人々のために役立てるという奉仕活動に徹していた。私は、十数人のミーディアムたちから、つぎつぎに霊言を聞いていったが、彼らの霊言には、格段に高い真実の重みがあった。そのなかでも、アン・ターナーの霊能力は特に優れていて、私は、日本へ帰ってからも、毎年のようにロンドンを訪れては、彼女の霊能力の恩恵を受けていた。しかし、そのアン・ターナーも、「寸感・雑記」No.12,「アン・ターナーの霊界からのメッセージ」に書いてあるように、2010年8月22日に肺がん亡くなり、霊界へ還っていった。彼女は、霊界でも、私の妻や長男と会い、2011年に、その状況を私に伝えてきたこともある。

 このアン・ターナーからは、彼女の生前、ロンドンで数々の予言を受けたことが、強く記憶に残っている。特に、長女の結婚や、子どもが二人生れるなどと告げられた時には、私も長女も、まだ悲歎と絶望から立ち直っていなかった時であっただけに、すぐには信じられなかった。しかし、やがては、すべてが、その予言通りに実現した。

 私が彼女と会ったばかりの時に、彼女は私に、「あなたはこれから教師になる」と言ったことがある。私が、「実は、いまの職業は教師です」と言うと、彼女は、「私が言っている教師は、その『教師』ではない。霊的な指導者という意味だ」と、答えた。また、大英心霊協会の別のミーディアムも、同様のことを私に言った後で、「その仕事を助けるために、若い女性が現れるだろう」と予言した。その時も、半信半疑であったが、その「若い女性」の出現も、やがて間違いではなかったことを知るようになる。


   (四)

 1年間のイギリス生活を終え、1992年の春、ロンドンから帰国してからは、都内の大学で教える傍ら、霊的真理に目覚めていった私の体験を本や雑誌に書くようになり、あちらこちらで、無料の講演会も行うようになった。その私の最初の講演会の開催を設定し、運営を手伝ってくれたのが、溝口祭典の佐々木薫さんであった。彼女が、予言されていた「若い女性」だったのである。それ以来、佐々木さんは、私の講演会活動を陰に陽に支えてくれる有能なアシスタントになってくれた。

 やがて佐々木さんは、私の講演の内容などをひろく知ってもらうために、私にホームページの開設を勧めるようになった。そして、パソコンの操作にくわしい彼女は、私に代わって、新しいホームページをすべて自分一人で作ってくれた。2003年3月に開設されたそのホームページの閲覧回数のカウンターは、2021年12月で100万回を超えた。それが、いまも続いている、この「ともしび」である。

 その佐々木薫さんは、2016年春にがんにかかっていることが判明し、その後入院して7月7日に亡くなった。告別式は、7月10日に行われた。100人ほどの参列者が座っていた式場には、宝塚女優のマリー・アントワネットのプロマイドのように華やかで明るい彼女の遺影が、黒ではなくピンクの額縁いっぱいに、あふれるような微笑みを浮かべてバラの花に囲まれていた。式場の入口の壁には、彼女からのメッセージが顔写真付きで、つぎのように貼り出されていた。

  《私の葬儀は、楽しく、みんなで笑ってほしい。
   笑顔で臨んでください。
   もしも一回涙がこぼれたら
   そのすぐ後に
   2回笑ってください。》

 式場では、導師を務めた彼女の懇意の住職は、読経のあとの説話で、彼女のことを「菩薩のような人」と言っていた。式が終わって、葬儀場を出ると、西の方角の空の上に、うす曇りのなかで霞んでいる太陽のまわりには大きな輪ができていて、その輪がきれいな七色の虹になっていた。みんなでそれを見上げていると、誰かが、「あれは佐々木さんの虹かもしれないね」とつぶやいた。

 こうして、アン・ターナーは2010年8月22日に他界し、佐々木薫さんも2016年7月7日に霊界へ還っていった。個人的には、私は長男で、姉二人、妹二人と弟がいたが、2016年9月には、上の妹が84歳で亡くなって、私は両親、姉妹、弟をみんな失ったことになり、一人になった。その私は、いま93歳にもなって、東京の片隅で余喘を保っている。


   (五)

 2019年に89歳になった時、自分の余命も長くはないはずだと考え、遺書のつもりで、「生と死の真実を求めて」という小冊子を書いた。しかし、2020年に入ると思いがけなくも新型コロナのパンデミックが始まって、死ぬに死ねないような状況になった。2022年2月には、これも思いがけなくロシアのウクライナ侵攻が始まり、この戦争は一年半以上も続いて今もまだ収束の気配はない。それに、2022年9月27日には、私は救急車で大学病院へ運ばれ、急性腹膜炎、大腸管穿孔で、その日のうちに大きな手術を受けるというハプニングもあった。1か月半後に退院したが、この入院生活は、全く予想もしていなかった体験であった。そして、それからもさらに時が流れて、今日は、40年目の「9月1日」を迎えている。

 何度も思うのだが、あれからもう40年も経ってしまった。40年前のあの頃は、本当に悲しかった。生きていくのが苦しく、悲嘆と絶望のなかで、涙を流しながら妻と長男の遺影の前でお経を読んだりしていた。藁にもすがる思いでS教団にも通い続けて、数多くの霊能者とも接触した。そのようななかで、事件の真相究明もしなければならなかったのは辛かった。アメリカ軍部の犯罪を確信して、国防長官であったキャスパー・ワインバーガーと国務長官のジョージ・シュルツ、大統領のロナルド・レーガン宛に、何度も抗議文を送り続けていたが、当時は、彼らを罵り憎みながら、怨念の塊になっていたことが、私の魂を曇らせて、霊能者たちの霊言をも受け入れる妨げになっていたかもしれない。

 しかし、40年目の「9月1日」を迎えたいまの私には、あの頃の悲嘆も絶望もない。何年もの間、霊界の妻と長男とも、もう十分に「文通」を重ねてきて、彼らが何の不自由もなく、幸せに過ごしていることをよく知っている。私が大韓航空機事件に巻きこまれた意味も、いまではよくわかっていて、そのために、自分が不幸で惨めであったという思いも消えている。彼らが、事件の「犠牲者」であったと思うのも、霊的な観点からいえば、おそらく正しくはないだろう。すべては、天の計らいであった。妻と長男の遺影の前に手をあわせても、いまは、長い間、私が霊的に無知蒙昧であったために、その間、彼らにも辛い思いをさせていたであろうことを詫びたい気持ちだけがある。

 大韓航空機事件を起こした犯罪者たちに対する憎しみも、いまは無くなっている。この世には、昔も今も、自己や自国民の利益・権益のみを追求して、紛争を起こしたり、戦争を仕掛けて多くの人々を殺傷する独裁者や権力者が跡を絶たない。一方では、肩書や地位、財産を手中に収めるためには血眼になるが、社会奉仕や隣人愛などには全く無縁の自己中心主義者なども、世界中のどこにも数多くはびこっている。それらは、みんな、心の貧しい、霊格の低い存在である。霊界へ還れば、一瞬のこの世での栄耀栄華の仮面は、すべて剥ぎ取られて、その独善の所業に対しては、一分一厘の過不足のない償いをさせられることになる。イエスが言っているように、「自分が蒔いた種は自分で刈り取らねばならない」のである。大韓航空機事件を惹き起こした犯罪者たちも、彼らが蒔いた種を、自分たちで刈り取らねばならないであろう。

 1983年9月1日の大韓航空機事件で妻と長男を失ったことは、いままで私が生きてきた93年の間で、もっとも悲しい体験であった。しかし、この事件に巻きこまれたからこそ、私は霊的真理に目覚めることができたともいえる。この世は、魂を磨くための学校で、霊性を向上させるために必要な教材として、さまざまな試練が与えられる。だから、与えられる試練にはそれぞれに意味があるし、乗り越えられない試練はない。それが永遠の生命を持つ私たちが理解していかねばならない宇宙の摂理である。そして、もし私たちがその真理を今生で受け容れることがなければ、また生まれ変わって、つぎの世に学びが持ち越されることになる。

 これは、私が親しくしていた複数の霊能者から一再ならず言われてきたことだが、私は、自分の過去生で、何度も霊的真理に接する機会がありながら、社会的地位や名誉に傷つくことを恐れて、その受容を拒んできた。しかし、今生では、この事件を契機に、悲歎と絶望のなかで否応なしに霊的真理を学び始めることになり、いまは、宇宙の摂理や生と死の真実を私なりに理解できるようになっている。頑迷で学びの歩みが遅く、悲歎の中での「9月1日」を何度も繰り返してしまったが、霊界からも導かれて、長い間の霊的無知からも脱け出すことができたことは、有難いことである。

 しかし、その私も、今はもう、89歳を4年も超えて、歩くのにも歩行器に頼っている。遠方への旅行は困難で、今年の「9月1日」は40年目の節目の年であるのに、稚内へ出かけることはできない。東京にいて、「祈りの塔」をはるかに思い浮かべながら、あの飛行機に乗り合わせた乗客たちの霊界での幸せのために、こころからの祈りを捧げるだけである。




     **********




      私の霊的巡礼の旅        (2023.10.25)


   (1)霊的巡礼の旅の始まり

 1983年9月1日の大韓航空機事件で妻と長男を亡くした私は、アメリカのノース・カロライナ州立大学の教職を中断して帰国し、札幌の自宅でほとんど寝たきりのようになっていた。

 11月下旬のある日、私はふと思いついて、妻・富子の友人の青木さんの家を訪ねた。彼女は、運命鑑定などをしている霊能者である。その時の私は、「溺れる者は藁をもつかむ」心境であったかもしれない。何か、生きていくための心の支えが必要であった。青木さんはそういう私の心境もわかっていたらしい。ぽつりぽつりと語る私のことばに耳を傾けたあと、「まだこれから 3年は苦しまれるでしょうね」と、私に同情を示した。

 彼女は事件のあと、富子と潔典(きよのり)のために 2週間の供養をしてくれたのだという。そして、霊界の富子と潔典とも話をしたとも言った。このことばは私を驚かせた。彼女は静かに語りだした。「霊感を感じましてね、精神を統一していると清らかな雰囲気に包まれて潔典さんが現われたんです。私は最初それは富子さんだと思ったのですが、よく見ると潔典さんでした・・・・・」

 私は内心の動揺を抑えながら黙って聞いている。(そんなことが本当にありうるのであろうか)まさか、と思う。その時の私は、霊の世界については全く無知であった。彼女は続けた。「潔典さんはですね、はじめに『有難う』とおっしゃって、それから『楽しかった』と言われました。私が、『アメリカ旅行が楽しかったのですか』と聞きますと、潔典さんは『いいえ、アメリカ旅行だけではなく、今までの生活がすべてです』 と答えられました。」

 ここまで聞いて、私はこころのなかで思わず「あっ」と叫んでいた。これも直観である。「ありがとう・・・・楽しかった・・・・今まので生活がすべて・・・・」これは潔典のことばだ。父親の私にはわかるのである。私は涙をぽろぽろと落とした・・・・・。

 以上は、私が89歳の時に書いた小冊子『生と死の真実を求めて』(2019.10.10)の第二章の一部を要約したものである。これが、私の霊界からのメッセージに触れた最初の体験である。私が期せずして踏み出すことになった、いわば、霊的巡礼の旅の始まりであった。


   (2)未知の婦人からの電話に導かれて

 それからしばらくして、ある日の夕方、札幌市内の野々原と名乗る女性から電話がかかってきた。北海道大学の学生食堂に勤めていると言っていたが、私には面識がない。彼女は「昨夜、潔典さんの夢を見ました」というのである。この電話のことも、私が霊界からのメッセージに関心を持つようになった重要な契機になったので、ここに繰り返しておきたい。

 当時はまだ、事件については、しばしばテレビや新聞に取り上げられていた。その前日も、彼女は、たまたま事件を報じているテレビで、冨子や潔典の写真を見たらしい。そして、夢の中に現れた潔典から「ぼくの父に会ってほしい」と頼まれたのだという。テレビ局に電話して、私の電話番号を聞きだし電話しているのだと、遠慮がちの低い声でおずおずと言った。潔典から「ぼくの父に会ってほしい」と頼まれたというのは、ただ事ではない。私はすぐにその翌日、彼女の家へ出向いた。

 野々原さんは中年の寡婦で、中学生のお嬢さんと2人で暮らしている。真言密教S教団の信者で、霊界の存在や、死後の生命のことも信じているようであった。S教団では霊能者も二百数十人もいて、霊界との交信も日常的に行われているという。事件前の私なら、そういう話ははじめから受け付けようとはせず、「夢のなかで頼まれた」などという話も一笑に付したかもしれない。しかし私は、黙って 2時間ほども、真剣に彼女の話に耳を傾けた。青木さんから霊界の潔典からの霊言を受け取ったばかりであったし、その時の私には、霊的な話を非常識だとか、荒唐無稽であると忌避するような余裕は全くなかった。野々原さんが所属しているのは、S教団の札幌支部で、本部は東京の立川にあるという。私は、札幌支部の支部長を紹介してもらって、その翌日、札幌支部へ出かけた。

 札幌支部長は菅野さんという温厚な感じの老婦人であった。彼女は、自分の私室に私を迎え入れてくれて穏やかな口調で、いろいろと教団の教えや霊界の話をしてくれた。菅野さんには、その三日後、東京・立川の教団本部で会合の予定があるというので、私も連れて行ってもらった。教団本部では、偶然に教主さんとも会い、法務主任のYさんを紹介されて、応接室のようなところで、ここでも、ずいぶん長い間、Yさんから S教団や真言密教についての話を聞いた。Yさんが霊界のすばらしさを話しながら、「私も早く死にたい」などと言ったことに衝撃をうけたりした。それからは、札幌へ帰ってからも、私は、しばしば S教団の札幌支部へ通うようになった。霊界のことを少しでも知りたいという一心からである。

 しかし、霊界について関心を深めていく一方で、私にはどうしてもしなければならないことがあった。大韓航空機事件の真相究明である。これは、悲歎に暮れていた私には二重の苦しみであったが、避けては通れなかった。私が個人で集めた資料からも、事件は、ソ連の防空態勢を探知するためにKAL007便に領空侵犯を強要したアメリカ軍部の謀略である疑いが深まっていた。事件の翌年8月には、東京で設立された「大韓航空機事件の真相を究明する会」にも代表理事の一人に選ばれ、週末の研究会には、飛行機で往復して、欠かさずに参加していた。個人でも真相究明を訴える「APPEAL」を毎週発行しながら、新聞、雑誌などにも寄稿した(「遺族はなぜアメリカを弾劾するか」岩波書店、「世界」1985年10月号、『疑惑の航跡』潮出版社、1985、など)。1986年春からは、小樽商科大学を依願退職して、東京に移り、真相究明運動を続けた。この真相究明運動については、2023.09.01の「寸感・雑記」(40年目の「9月1日」を迎えて)などにも書いてきたので、ここでは取り上げない。


   (3)「霊言」を受け入れられない閉ざされた心

 私は、東京でも、折をみては立川のS教団の本部へ通い続けた。S教団では、「接心」という行事がある。例会のあとで信者たちが2,30人のグループに分かれて円陣をつくって座っている中に教団認定の「霊能者」が1人ずつ入り、「霊言」を聞くことになっていた。いくらか教団の雰囲気にも慣れてきて、やがて私も、その接心に参加するようになった。

 私が最初に本部で接心を受けた時には、輪の中に瞑想して座っている私の前に、いきなり若い霊能者が寄ってきた。彼は、「あなたの内臓が弱っているが、何か苦しいことがあるのか」と訊いた。内臓が弱っているのかどうか私にはわからないが、苦しいことはある。悲しくて苦しいからここへ来ているのである。しかし、私は、事件のことも妻と子を亡くしていることも言わなかった。その霊能者も、私の妻や子が霊界にいることには気が付いていないようであった。その時の「接心」は、 私の健康問題についてあれこれ言われただけで終わった。

 S教団本部の「接心」で、霊能者と何度も対峙しているうちに、「身近な家族が霊界にいる」などと言われたこともあったが、それ以上、具体的に霊言で示されたことはなかった。札幌では、青木さんから、潔典や富子からの霊言をすでに聞いている。「有難う、楽しかった、アメリカ旅行だけではなく、今までの生活がすべて」などという潔典からのことばは、いかにも潔典らしいことばで、私は直感的にそれが真実の声であることを感じ取って涙を流したのだが、そのようなレベルの霊言を聞いたことは、ここの「接心」では一度もなかった。

 青木さんは、富子や潔典のことや事件のこともよく知っていたのに対して、S教団の霊能者たちは、事件と私のことは何も知らないという違いはあったかもしれない。私は、S教団の霊能力が高いといわれる幹部の「特別接心」というのも高い料金を払って何度も受けてみた。しかし、何年もの間、「接心」と「特別接心」を受け続けて、霊能者の前に座ったのも数十回を超えたが、結局、私は、こころから納得できるような霊言は何一つ得ることはなかった。

 しかしその非の一端は、おそらく、霊言を受ける側の私にもあった。当時の私は、事件の真相究明活動でアメリカ政府の犯罪が明らかになっていく中で、大統領のロナルド・レーガンや国防長官のキャスパー・ワインバーガー、国務長官のジョージ・シュルツなどを激しく憎み、罵り、毎月、抗議文を送り続けたりしていて、心は重く暗く閉ざされていた。怨念の塊になっていたことが障碍となって、霊界からの霊言を受け難くしていたことはあったかもしれない。

 それからも、そのような状態でさらに何年か過ぎた。その間私は、霊界についての教えや霊言には少しずつ慣れていったような気がする。いつかは真実に迫る霊言を聞くことができるかもしれないと、微かに希望を繋いでいた。真相究明運動の方は、1988年に、「究明する会」の研究成果が『大韓航空機事件の研究』として 510ページの大冊にまとめられ三一書房から刊行された。その後、1991年春からは、私は、7年間の真相究明運動から初めて離れ、ロンドン大学客員教授として、1年の予定でイギリスへ渡った。

 ロンドンでは、大学へ通う傍ら、大英心霊協会を度々訪れるようになった。この大英心霊協会については、前稿「40年目の『9月1日』を迎えて」や拙著『天国からの手紙』(学研パブリッシング)などにもいろいろと書いてきたが、煩をいとわず、ここでも触れておきたい。


   (4)ロンドンの大英心霊協会

 大英心霊協会はスピリチュアリズムの殿堂で、優れた霊能者が沢山いることは知っていたが、はじめの半年くらいは、それらの霊能者の前に座って一対一で霊言を受けることはしなかった。 もしここでもS教団で受けてきたような霊言の内容で終わってしまうのであれば、私はもう一生救われない。切羽詰まったような気持ちで、霊的真理の勉強を深め、霊言を受け入れる心の準備をしなければならないと思っていた。

 この頃にはすでに、シルバー・バーチの教えに接するようになっていた。『シルバー・バーチの霊訓』(近藤千雄訳)が1985年から1988年にかけて潮文社から順次出版されていたが、それらを全部買い集めたのは、1988年に『大韓航空機事件の研究』を出版するという大仕事を終えてからであった。私はロンドンに落ち着いてから、大英心霊協会の売店でもシルバー・バーチの霊訓原本をすべて買い入れて繰り返し読んだ。その重大性に気づき、自分でも一部を翻訳したりしている。

 大英心霊協会では、公開デモンストレーションというのがある。霊的真理の普及のために無料で一般に公開しているものだが、私も出席して、霊言を受ける雰囲気に慣れていこうとした。そして、1992年1月30日、私は大英心霊協会で初めてミーディアム(霊能者)の前に一人で座った。

 ミーディアムの前に座って一対一で霊言を受けることを、大英心霊協会では「シッティング」(Sitting)といっていた。ほとんど奉仕活動である。そのシッティングでのアン・クーパーは中年の落ち着いた感じの女性で、ちょっと祈りを捧げた後、はっきりした口調で語り始めた。霊界の富子、母、潔典、弟の耕治などがつぎつぎに私の目の前に現れているようであった。私のことは何も知らないはずの彼女が、私の家族の一人ひとりを目の前に見ているように極めて正確に描き出していく。

 潔典については、「あなたの息子さんは、身長 5フィート8インチ(約173センチ)くらいに見える。黒い髪、美しい顔で非常に好ましい青年だ・・・・ たいへん知能が高い、私には説明し難いが、人間の心を世代を超えてコミュニケートさせる方法のようなものを研究しているらしい・・・・あなたに強い感情を送っている、姉とは年齢があまり違わないのではないか・・・・・・」などと彼女は言った。

 潔典の身長は 174センチである。「知能が高い」も、潔典の知能はおそらく私よりもレベルが上で、大学での成績は1、2学年とも「全優」であったから、彼女の言ったことは間違ってはいない。姉との年齢差は1年2か月だから、これも言われた通り「あまり違わない」。これらのことばは途切れ途切れに語られているので、予約していた 30分の時間は瞬く間に過ぎたが、明らかに正確度の極めて高いことばの数々を受け留めて、私はこころの高揚を抑えきれずに、なかば夢見心地で、大英心霊協会を後にした。

 このアン・クーパーには、2月4日にも会って、2度目のシッティングを受けた。その日、協会の控室でたまたまアン・ターナーにも会った。その時は、彼女がミーディアムであることも知らず、私はまったく偶然に会っただけだと思っていたが、後にそれは、霊界からの導きであったことを知るようになる。2月11日には、アン・ターナーのシッティングを受けて、彼女の卓越した霊能力により、遂に妻と長男との奇跡的な「再会」を果たしたのである。


   (5)アン・ターナーに導かれて

 彼女は、私のことを全く何も知らず、聞こうともしなかったが、私の前に霊界の長男が立っていることを伝え、「聡明な顔つきで、身長 は5フィート8インチくらいに見える」と、前回のアン・クーパーと同じようなことを言った。そして、アン・ターナーは、続けて、長男が、「感動した面持ちで自分の名を『キノーリ』、または『クヨーニ』と名乗っている」と私に言った。そして、何度か、「キュオーニ」「キヨーニ」「クヨーニ」と独り言を言うようにつぶやいた。「潔典」(きよのり)がそう聞こえるのであろう。

 私は、はっとした。これは潔典だ、潔典に違いない、と思った。ほかの名前なら、このように聞こえるはずがない。しかし、それでも、念のために、「それは英語の名前か」と聞いてみた。彼女は、「そうではない。外国語の発音で私にはよくわからないが、私にはそのように聞き取れるのだ」と答えた。

 潔典(きよのり)という名の発音は、確かに、日本語に慣れていない英米人には聞き取りにくい。これを一度聞いてだけで、正確に繰り返すことのできる英米人は殆どいないであろう。そこで私は、思い切って訊いてみた。「その発音は『キヨノリ』と違うか?」 それに対して彼女は答えた。「そうだ、キ・ヨ・ノ・リだ。キヨノリと言っている」。彼女はまた、潔典が霊界へ移ったのが1983年であること、航空事故であることも正確に指摘した。あり得ないようなことが現実となって、私は茫然となった。

 それからも彼女は私を前にして、独り言を言うように、淡々と妻と長男のことばを次々と私に伝えた。それらのことばには、疑うにも疑いようのない真実の重みがあった。ただひとつ、この時のアン・ターナーとのやり取りの終わりのほうで、私には納得できなかった「情報」があった。彼女が、私の足元を指さしながら、「キヨノリが、あなたの左足に大きな傷跡(scar)があると言っている」と述べたのである。“scar”は「傷跡」で、聞き間違える様な単語ではない。「大きな傷跡」というのであれば、何らかの怪我で多量の出血もして包帯でぐるぐる巻いたりしたことであろう。しかし、私には、そのような怪我をした記憶はない。私は、即座に、「そのような傷跡はない」と答えた。ところが、彼女はひるまなかった。「それは、古い傷跡で、もう消えかかっているのかもしれない。よく探してみよ」と言った。

 私は、自分の足のことは自分がよく知っている。ないものはないのだと思った。だから、「傷跡はない」と、重ねて答えた。その時は、彼女のその霊言の部分が「明確な間違い」と思い込んで、初めてちょっとした失望を感じたかもしれない。私は、シッティングを終えて、ヴィクトリア駅へ向かって歩きながら、「どうしてあんなことを言われたのだろう」と、ぐずぐず考え続けていた。そして、5分も歩かないうちに、はっと、気がついて立ち止まってしまった。“scar”は「傷跡」で、私は切り傷のようなものだけを想像していたのだが、火傷の跡もburn scar ではないか。それなら、私は小学校4年生の時に、湯たんぽで足に大きなやけど(a serious burn)をしたことがある。

 冬の夜、寝ているうちに湯たんぽのカバーが外れて、足の皮膚がじかに長時間湯たんぽに触れ、朝起きてみたら大きな水ぶくれが出来ていた。いわゆる「低温やけど」である。それが治った跡が右足に、鶏卵ひとつほどの大きな傷跡になって残っていたのである。潔典がまだ幼稚園のころ、一緒に風呂に入った時にこの大きな火傷の跡を見つけて、どうしてこんなものがあるのかと訊かれたので、私が湯たんぽで火傷したことを話して聞かせてことがあった。それを潔典は覚えていたのであろう。ただ、その傷跡は私の右足であるが、アン・ターナーは、「あなたの左足」と言った。しかし、それも間違いではないであろう。私の右足は、前に立っている潔典から見れば、左足になる。間違っていたのは私のほうで、私は“scar” について粗忽な勘違いをしていたのである。

 私は、その後も、矢継ぎ早にアン・ターナーのシッティングを受けた。大英心霊協会の他の十数人のミーディアムからも極めて正確度の高い霊言をつぎつぎに受けて、私はこころから霊界での妻と子の生存を確信するようになった。長年の悲嘆と絶望の苦しみからも初めて解放されて、私は生き返った。ロンドン大学客員教授の一年間の任期を終えて、1992年4月に帰国してからは、霊性に目覚めていった自分の体験を本や雑誌に書き、無料の講演会で話し、ホームページも開設して、シルバー・バーチの教えを中心に、生と死の真実を人々に語り伝えていくようになった。


   (6)霊界へ還っていったアン・ターナー

 日本へ帰国してからも、私は毎年のように、夏休みや春休みにイギリスへ出向いて、彼女の自宅を訪れ、霊界からの妻と長男からのメッセージを受け取っている。特に、長男・潔典の誕生日である 6月5日には、毎年、私から潔典宛ての手紙を書き、それに対する返事を、アン・ターナーを通じて、潔典から受け取るのが慣わしになっていた。彼女が後にウェールズへ転居した後も、それは一度も欠かさず続けけられていたが、2008年の6月になって初めて、その「文通」は中断された。アン・ターナーの右肺にがんが見つかり、病院で受けはじめていた化学療法のせいで、体力と気力が衰えてきたからである。

 その年2008年の8月5日、集中強化放射線治療を受けるために、指定されたサウス・ウェールズの放射線専門病院を、アン・ターナーは夫君のトニーに伴われて訪れた。たまたま、8月5日は、彼らの結婚記念日でもあった。予約は午前11時であったが、10時前にはもう病院に着いたらしい。アン・ターナーはかなり緊張していたという。待合室に隣接する小さなコーヒー・ショップで、夫君とお茶を飲みながら診察の時間を待つことにした。

 そのコーヒー・ショップの片隅には、200~300冊くらいの古本を並べた書棚があって、その売上金は、がん研究のために寄付されることになっていた。お茶を飲み終わった夫君のトニーが立ち上がって、その書棚の前でふと目に留まった一冊の本を取り上げた。それが1983年の大韓航空機事件を扱った R.W.Johnsonの 『SHOOT DOWN (撃墜)』であった。トニーからその本を受け取ったアン・ターナーは、この「偶然」にことばを失うほど、ひどく驚いたらしい。わざわざその本の写真を撮って私のところへ送ってきた。そこには、次のように書かれていた。

 《……そこで、トニーが取り上げたただ一冊の本が、大韓航空機事件を扱ったこの本だったのです。これで、私は、富子さんと潔典君が来てくれていることがわかりました。富子さんと潔典君は、私が、その病院を選んでその日に訪れていることが、治療のためには非常によいことだ、などと話してくれました。》

 夫君のトニーも霊能力者であるが、私は彼には家族のことは何も話していない。私の妻と長男が大韓航空機事件の犠牲者であったことも知らなかったはずである。しかし、そのときは何かを感じ取っていたのかもしれない。アン・ターナーにも、事件のことは私自身からはほとんど何も話していないが、彼女は、霊界にいる私の妻や長男とはミーディアムとして何度も会い、話をしているので、事件だけではなく、富子と潔典のことは、それぞれの容貌から性格、人となりを含めて、熟知していたといってよいであろう。

 アンとトニーは、そのとき、富子と潔典も、その場に来ていることを察知して、一度に緊張や不安が消し飛んだという。やがて診察室に呼ばれて、その病院での最初の診察を受けたときには、富子と潔典はアンの手を握りしめて、彼女を励まし、慰めていたらしい。その様子が彼女の手紙には、こう続けられている。

 《トニーも私も、信じられないほど元気づけられたのです。緊張が一度に解けて、すっかり楽になりました。私が診察室へ入ってからも、富子さんと潔典君は、そばにいてくれました。私の手を握って私を慰め、温かい愛と癒しの力で私を包んでくれました。私が診察の間、目を閉じているときにも、ふたりからの光が感じ取られました。
 誰があの本を、この待合室に寄付したのかわかりませんが、霊界では、私が 2008年の8月5日に、そこへ行くことを予知してその本を置いてくれていたのでしょう。それは、霊界からも見守ってくれていることの証しです。毎日、霊界から愛を送ってくれていることに、私たちは感謝しています。》

 霊界では、すべてお見通しで、8月5日にアン・ターナーがその放射線専門病院に来ることも、彼女よりも先に知っていた、というのであるが、それはおそらく、その通りであろう。ただ、アンは、その日にその病院で、最初の集中強化放射線治療を受けることになると思っていた。しかし、それは、そうではなかった。その日の診察は、右の肺がんの大きさや位置を改めて確かめ、強度の放射線を正確にがんに照射するための予備的な診察であったらしい。手順を誤ると生命に関わるので、その予備的処置には、その後の診察を含めて何週間もかかった。そして、やっと、最初の放射線を照射する日が決まった。それは9月1目であった。奇しくも、大韓航空機事件の起こった日と同じで、私の妻と長男の命日である。この同じ9月1日に、時差の違いはあるが、遠く離れたイギリスのウェールズで、アン・ターナーは生命のリスクが決してないとはいえない最初の強力な放射線治療を開始していたのである。別の手紙で、彼女は、その「偶然の一致」を、こう伝えてきた。

 《あなたが稚内で、慰霊祭に参加しているとき、私は最初の放射線治療を受けていました。そのときも、富子さんと潔典君は、私に癒しのエネルギーを送ってくれていました。私はそのことを、こころから感謝しています。》

 その日も、富子と潔典は、放射線治療室に横たわるアン・ターナーのそばにいて、癒しの手を差し伸べていたというのは、不思議といえば不思議であるが、彼女にはそれがわかるのであろう。アン・ターナーは、事件後、無知で頑迷な私を救い出すのに大きな役割を果たしてくれた。私は彼女のお陰で、悲歎と絶望の淵から生き返ることが出来た。富子と潔典も、その彼女には、私と同様に、あるいは私以上に、深い恩義を感じているはずである。彼らは彼らなりに、少しでも、彼女への誠意と感謝の気持ちを示したかったのかもしれない。

 そのアン・ターナーは、9月1日からの放射線治療で、期待以上の成果があったらしい。少なくとも、肺がんのそれまで以上の成長は止められた。彼女はその後も病院通いは続けたが、そのころの手紙では、肺がんを根絶することは無理にしても、いまは、がんが「冬眠状態」になったと医者に言われている、とあった。そして、「私はいまはとても元気です」と、付け加えていた。

 その療養生活の間に、彼女は、かねてからの念願であったスピリチュアリズムの本を書きはじめ、翌年の 2009年に、夫君のトニーとの共著で 『LIVING BREATHING SPIRIT(「霊は元気に生き続ける」、Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex, 2009)を出版した。さらに次の年の春には、同じく夫君との共著で、『WALKING WITH SPIRIT(「霊と共に歩む」、Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex, 2010)も出版している。この二冊とも、その中には、私との十数年に及ぶ手紙のやり取りや、霊界にいる私の妻と長男への「文通」なども含まれている。しかし、この出版の後、アン・ターナーは、肺がんが進んで、2010年8月22日に、霊界へ還っていった。いまとなっては、この二冊の本は、私に遺された彼女の形見になった。

 私は、霊界の妻や長男を含めて、このように、彼女とはいわば家族ぐるみの付き合いをしてきた。彼女は富子や潔典ともすっかり「顔見知り」になっていたから、これはこの後でも触れるが、霊界でも懐かしい「再会」を果たしていた。しかし、私自身は、もうこの世では彼女とは会えなくなってしまって、やはり、淋しい気がしてならなかった。葬儀は2010年8月31日に行なわれたが、その頃の私の体力では、アンの家のあるイギリスのウェールズまで行けそうもなかった。香典を送って、トニーに霊前に私からの花束を捧げてくれるようにお願いした。


   (7)アン・ターナーと私の家族との霊界での再会

 その翌年、2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生した。私は、その頃、『天国からの手紙』の原稿の終章を書き始めたところであった。この『天国からの手紙』の出版も、実は、天の計らいであった。霊界の潔典も企画の段階から関わっていたようである。すべて霊界からの示唆と支援により、ことがすらすらと運ばれていった感じで、私が発案して出版社へ持ち込んだのではない。かねてより、霊能者たちからの「予言」で、この種の本を出版することになることは知らされていたが、アン・ターナーの死後、しばらくして、思いがけなく出版社の学研パブリッシングと編集者たちからの要請をうけて、この本を書き始めることになったのである。その時の本書担当の編集者のひとりが Sさんで、彼女は有能な霊能力者である。

 この本は、東日本大震災の 2か月後に出版されて、2011年6月5日には、東京都江東区の清澄庭園「大正記念館」で、出版記念講演会が開かれた。6月5日は潔典の誕生日なので、講演会終了後、近くのレストランで、編集者の方々が、潔典の誕生祝いを兼ねて、出版祝賀会を開いてくれた。編集者の Sさんは、この本の出版にあたって、霊界の潔典から、題名が『天国からの手紙』になること、江原啓之さんに推薦文を依頼することなど、度々メッセージを受け取っていたようである。そのなかには、私宛の手紙も何通か含まれていた。この出版祝賀会の時も、Sさんから席上で、潔典から私への新しく届いた手紙を手渡された。

 そのなかで、潔典は、「アン・ターナーはこちらに参りました。神々様のお使いになるべく、日々、修行に励んでおります、僕たちとは縁で結ばれた方です。お互いにお互いを救う境遇にあります。こちらにおいても、現世のお父さんたちをも含めて、お互いに導き、助け合うことが行われるのです・・・・・」などと、書いている。そして潔典は、アン・ターナーから託された私への手紙を、「アン・ターナーからお父さんへ」として、つぎのように彼女のことばを伝えてきた。

 《私たちは縁があって、めぐり合い、共に歩んでまいりました。私はこの縁を大変有難く思っています。こちらに来て、キヨノリとめぐり合い、富子さんともお会いしましたが、思っていた通りの方々でした。素晴らしい方々です。
 私はおふたりに大変お世話になりましたが、これも、ショウゾウ、あなたとの縁が結びつけてくれたものです。さまざまなつながりの中で、人と人が和すること、これこそ日本人が本来もつ素晴らしい資質ですね。 
 いま日本は、大震災で大変な時にありますが、あなたのその苦しみの経験から得たものを用いて、多くの人々が目覚める導きができることを、こころから願っています。
 霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ、ショウゾウ――、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしています。どうかお体に気を付けて、それまで、多くの人々を導く活動を続けて下さい。
 そうそう、たまには、トニーにも連絡してあげてくださいね。私は元気でいることをお伝えください。それでは、またお会いしましょう。―― アン・ターナー》

 以上の、アン・ターナーに関する部分の記述も、「寸感・雑記」No.12 (アン・ターナーの霊界からのメッセージ)に書いてきたことを、煩をいとわずに要約してここに再録した。


   (8)霊的巡礼の旅の一つの到達点

 いま、改めて振り返ってみると、1983年9月1日の事件に遭遇して悲歎と絶望に打ちのめされながら、その年の11月下旬に「藁をも掴む」思いで訪れた札幌の霊能者青木さんから、潔典のことば――「ありがとう・・・・ 楽しかった・・・・今まので生活がすべて・・・・」を聞いて涙を流したことが、遠い夢のなかの出来事のように思い出される。シルバー・バーチは「あなたがた人間は、永遠の生命の旅路の途中で、今ほんのいっときを地上で過ごしている霊的巡礼者です」と言っているが、私の場合は、この潔典のことばが、文字通りの「霊的巡礼の旅」の始まりであったかもしれない。

 そのあとは、「父に会ってほしい」と夢の中で告げられたという見知らぬ婦人からの電話で、霊界についての勉強が始まることになった。東京に移って、事件の真相究明運動に打ち込む傍ら、S教団本部で、何年もの間、「霊能者」たちから数十回も霊言を受けるという体験もあった。何一つ、納得できる「霊言」はなかったが、しかし、私にとっては、そのような「挫折」も必要であったに違いない。

 やがて、『シルバー・バーチの霊言』にも接するようになり、1991年に大きな転機を迎えることになる。4月に「真相を究明する会」の代表理事を辞職し、ロンドン大学客員教授として渡英した。ロンドンでは、大学に通う傍ら、大英心霊協会でも、霊界通信のデモンストレーションに参加するなど、霊的体験を積み重ねるようになった。そして、十数人の優れた霊能者たちから導かれ、アン・ターナーにも逢って、初めて妻と子の生存を確信できるようになった。1992年の春に帰国してからは、自分の霊的体験を講演やホーム・ページで人々に語り伝え始めた。

 さらに時が流れて、2011年6月5日には、東京都江東区の清澄庭園「大正記念館」で、新著の『天国からの手紙』の出版記念講演会が開かれた。講演会が終わった後では、編集者たちが出版祝賀会を開いてくれたが、その席上で編集者のひとりで霊能者のSさんから、アン・ターナーからの、前掲の、霊界で富子や潔典と再会したことを知らせる手紙などを受け取った。この手紙は、私の1983年に潔典のことばで始まって以来の長い逡巡と紆余曲折を経た霊的巡礼の旅の、一つの到達点であったといえるかもしれない。

 私も、そう遠くない将来、霊界で私の家族やアン・ターナーと会うことになるであろう。私はアン・ターナーとの奇しき縁を思い浮かべながら、いまは、このように、霊界でも、妻と長男がアン・ターナーと直接に会って話し合えていることを、これも天からの配剤として、こころから神に感謝したい気がしている。




          **********




      34年前の教え子への手紙        (2023.11.22)


 先日いただいたあなたからの2度のメールを読み返しながら、改めて、もう34年前になる、あなた方英文科一年生に対する「海外英語研修」のことなどを懐かしく思い出しています。あの海外英語研修は、私が跡見短大で教えるようになって初めて取り組んだオーストラリア・ブリスベンでの海外授業でした。あなた方一年生の45名を引率して、1989年7月24日に成田を出発し、私たちは先ず、ハワイのホノルルへ向かいました。ホノルルでは専用バスで市内観光をしたのち、ホテル(Outrigger Waikiki Tower)にチェックインして、その翌日は、終日フリータイムをとりましたが、これは海外研修のオリエンテーションを兼ねて、オーストラリアだけではなく、アメリカの一部も見ておいてもらいたいと考えたからでした。

 それから、7月27日にシドニーへ飛び、国内線に乗り換え、ブリスベンに到着して、スタディセンターでホストファミリーと面会後、一人一家庭のホームステイが始まったのでした。このホームステイ先を一人ひとりに割り当てるのには出国前からかなりの神経を使いましたが、結果としては、予想以上に好調に進んだようです。まだ、学生たちのホームステイなどがあまり行われていなかった頃のことでしたが、現地の人たちは、あなた方を、みんな家族のように歓迎してくれて、幸先のよいスタートになりました。到着後、ウェルカム・パーティーがあって、その翌日7月28日からのあなた方の研修の記録が残っていますが、次のようになっています。

   [研修地 クィーンズランド州ブリスベン市郊外]
  グループA(15名)Rochedale State School
  グループB(15名)Kimberly Park Plaza
  グループC(15名)Logan Uniting Church

7月28日(金)~ 8月14日(月) 英語集中授業。
 月~金曜日、1日3時間(9時~12時)90分授業2回。1週8回、3週24回。
  午後はクラブ活動、フィールド・トリップ週2回、
 ブリスベン市内観光、ローンパイン・コアラ保護区見学、ゴールド・コースト観光など。
 最後の日の夕方には、ホームステイ先の家族たちを招待したサヨナラ・パーティーがあって、
 その後、終了証授与式。
8月15日(火)9時、ホストファミリーに別れを告げて、バスで空港へ。
 AN(アンセット・オーストラリア航空)機で13時20分シドニー着。専用バスでシドニー市内観光。
 夕方、市内のホテル(Gazebo Ramada Hotel)にチェックイン。
8月16日(水) シドニー市内、終日自由行動。
8月17日(木) 13時25分シドニー発UA(ユナイテッド航空)機でホノルル経由、成田へ。
8月18日(金) 午前6時10分、成田着。

 こうしてこの最初の「英語海外研修」は、順調に、そして数多くの忘れがたい思い出を残して、成功裡に終わりました。現地で少人数クラスを担当して下さった先生方やホストファミリーたちからも多くの賞賛の声が寄せられ、あなた方が「素晴らしいYoung Ladies」と高い評価を受けたことは、その後の「英語海外研修」の大きな励みになりました。この海外研修につては、私は後に、英文科の広報紙 EVERGREEN 12号でも、特集を組んで、写真入りで紹介しているほか、雑誌「英文宴」6号でも、発足の経緯などを含めて書き残しています。その中の一部には、私は、こう書いています。

 《1989年からは、現地調査と十分な検討を経た上で、「英文」授業科目としてのホームステイによる「英語海外研修」を発足させた。ホームステイは必ず「一人一家庭」の原則を貫くことにした。このような形での約一ヶ月の英語圏での生活は、学生たちにとっては極めて有意義な生活体験の場になる。しかしこれも、引率者としては、参加学生たちの英語学習のみならず、健康や生活、安全面での責任も一手に引き受けなければならず、決して楽ではなかった。私は、出発から帰国まで毎日、文字通り、参加学生たちの無事を祈り続けていた。》

 あなた方は、1989年に跡見へ入学して、私が担当したこの「英語海外研修」や「比較文化論」などを受講してくれたのですが、実は、その頃の私も、跡見では、新設されたばかりの英文科に招かれて2年を経たばかりでした。いわば「新米教師」として、手探りで英文科の基礎固めに参画していたのです。それまでの私は、札幌に住んでいて、長年、国立大学で教えていました。文部省在外研究員やフルブライト上級研究員に選ばれて、いくつかのアメリカの大学の客員教授なども経験していましたから、いくらか海外生活には慣れていました。

 私の海外生活は、戦後の日本がまだ貧しさから脱け出せていなかった1957年に、給費留学生としてアメリカへ船で渡り、2年間、オレゴン大学で大学院生活を送ったことから始まっています。1958年の春休みには、大学が企画してくれた一週間のオレゴン州周遊旅行に参加して、その時初めて、一般家庭でのホームステイを体験しました。毎日場所が変わる度に、新しいホームステイ先の家族から歓待を受けたことが貴重な思い出になっていました。そのうちの一軒の家族とは、それ以来、50年以上も文通を続けていましたから、これは、ちょっとした「記録」になるかもしれません。

 その年の3か月の夏休みには、アメリカ大陸を車で横断して、ニュージャージーの避暑地のホテルで2か月間アルバイトをしながら、ニューヨークやワシントンD.C などを歩きまわり、帰途はグレイハウンド・バスで南部や中西部の諸都市などもひろく見てまわって、ほぼアメリカを一周するという体験もしました。当時のアメリカは、夢のように豊かな国で、何処へ行っても、日本との貧富の大きな格差をいやというほど感じさせられましたが、同時に、生活のいろいろな場面で、ものの考え方や生活習慣の違いなども痛切に認識させられていました。その体験の一部は、このホームページの【プロフィール Ⅲ】のなかの「アメリカ留学の思い出」や拙著『アメリカ光と影の旅』にも書き残しています。

 そういう体験もあって、私はその後、大学で教えるようになってからも、英語教育では、日本語と英語の違いとその文化的背景について学ぶことの重要性を強く認識していました。そういう観点からも、英語海外研修には、強い関心をもっていましたが、国立大学では、教員が海外へ出るのには、出入国の度に、学長を通して文部大臣に報告しなければならないなど、国家公務員としての面倒な出入国規定があったりして、海外での授業などは考えにくい状況が続いていました。それだけに、跡見では、当時はまだ珍しかった「英語海外研修」や私の専攻の「比較文化論」なども授業科目として開設させてもらったことは、私にとっては、たいへん有難いことでした。

 私は、1989年の春四月、桜が咲き誇るあの茗荷谷キャンパスに入学してきた若々しいあなた方を前にして、赴任後間もなくの女子短大での教職に全力を集中していました。私の授業は、跡見でもおそらく最も厳しい授業ではなかったかと思いますが、あなた方は優秀で、教室では私語一つせず、よくついてきてくれたことを、私はいまでも深く感謝しています。この「厳しい授業」では、「比較文化論」の講義について書いたつぎのような文も残っています。

 《今年も例年通り、始業のチャイムが鳴る前に教室に入っていただいて、チャイムが鳴り終わると同時に講義を始めるということで、一年間通してきました。遅刻者が途中で教室に入ってきて、私が叱りつけることもありましたが、それはいつも、きちんと時間を守って熱心に受講している多くの学生諸君の気持ちを乱して欲しくないという思いからです。
 私は、本当は、遅刻してはいけないとか、欠席するなとか言うのは、あまり好きではありません。もし講義がくだらないのであれば、遅刻しても、欠席しても当たり前だと思っているからです。立場を変えて考えればわかることで、私が学生で、私の教師がくだらない講義をすれば、私は平気で遅刻するというより、欠席するでしょう。そんな教師が多いのであれば、学校をやめるでしょう。
 もっとも、教師の立場からすれば、「すばらしい」講義をしているつもりなのに、学生が理解できず、「くだらない」と思われるのは心外だという嘆きもあるかもしれません。しかし、教育の場では、基本的には、理由がなんであれ、学生にとってくだらないのは、くだらない講義なのです。
 遅刻と欠席に話を戻しますと、私は、遅刻や出席率にこだわっているのでありません。ただ時間が惜しいのです。皆さんの勉強を乱されたくないのです。私はあの90分の時間の枠内にどれだけの内容を詰め込めるか、何度も考え、プランをたて、準備をします。
 一回一回の皆さんとの出会いが、私にとってはとても大切で、これはあまり誇張ではなく、たとえ1分でも無駄にしたくはない気持ちがあります。私の1分は、125人の受講生に対する125分だという意識があるからです。しかしこれは、私自身の問題です。皆さんにはちょっと忙しい思いをさせたかもしれませんが、今年もどうにか時間をフルに使った授業を続けることができました。
 一年間、たった24回の授業ですが、皆さんのこころに伝わってくれればと、いつも私が胸に抱いていた一筋の「願望」がありました。それは、大学に来て学ぶ意味であり、学問の目的は何かということです。それに勉強は楽しいということです。知識は力だということです。知らないで苦しみ悩むことからの脱却です。そして何よりも、真実の自分に目覚めるということです。》

 あなた方は跡見で二年間学んで1991年に卒業しましたが、実は、私もあなた方の卒業式が終わったすぐあと、跡見を離れています。ロンドン大学客員教授として渡英し、一年間、ロンドンに住んでいました。ロンドン大学では、今度はイギリスから日本を眺めて、日本文化を教える立場に変わりました。大学に通う傍ら、「比較文化論」の著作も続けていましたが、これは後に、『英語教育のなかの比較文化論』と『イギリス比較文化の旅』の2冊になって出版されています。そのうち、1993年に出版された『英語教育のなかの比較文化論』のほうは、全国学校図書館協議会選定図書になり、幾つかの大学で、「比較文化論」の教科書や参考書として使われていたようです。

 私は、1992年の春に帰国してから、跡見でまた、「英語海外研修」や「比較文化論」を担当していました。この「比較文化論」では、あなたも覚えておられると思いますが、毎時間、講義の終わりに15分間で「出席ノート」に感想や講義のまとめなどを書いてもらっていました。その中には、あなたがメールでも触れられたような、つぎのような感想もありました。

 《私は去年の夏、イギリスへの英語海外研修に参加していたので、今日の講義で学んだ英語と日本語の違いはその時にも先生から教えてもらっていた。しかし、何度聞いても頷いてしまう。
 "river"は「川」ではない、"mountain"は「山」ではない、と言われても、はじめは何のことかさっぱりわからなかった。"sparrow"もなぜ「すずめ」ではないのか。このことを先生のお話や本などの説明を聞いて初めてわかったとき、どれだけ感動したかいまでもよく覚えている。
 しかしこれらのことは、本当は今になって感動すべきことではなく、もともと知っていなくてはならないことなのだ。英語を日本語に訳すことが英語学習のすべてではない。ことばと同時に文化を知ってこそ初めて英語が身につくのである。(英2A 長谷川智美)》

 どこの大学でも、文章を書くのを嫌がる学生たちは少なからずいますが、それは、書くべき内容を持たないのに書くことを強要されるからでしょう。この「比較文化論」でも、はじめのうちは戸惑っていた受講生たちもいましたが、すぐに書くことに慣れていってくれたような気がします。この時の講義については、後に私は、こう述べています。少し長いのですが、あなた方にもかつて理解していただいたような内容をつぎに再録してみましょう。

 《この時間には、私がロンドンに住んでいた1991年の暮、クリスマス休暇をパリで過ごした時に撮ったビデオを見ていただきました。サクレ・クール寺院の下の石の階段のところで、一人の若い女性が「雀」に餌を与えている場面を写したものです。
 しかし、餌を与えるといっても、まわりにばらまいているわけではありません。女性がさしのべた手の平に多くの雀が群がって、手の平の上の餌を食べているのです。別の機会に、ノートルダム寺院の裏庭でも、ベンチに腰掛けた老人の手の平に群がって餌を食べている雀を見たことがありますが、パリの雀はこのようにあまり人間を恐れないのです。
 このような光景を、私はスコットランドの片田舎でも目撃しました。日本では見られないことで、これがこの講義のはじめにもお話しした稲作文化と牧畜文化の違いでもあるのです。
 フランス語では雀のことを "moineau" といいますが、このmoineauであれ、英語のsparrowであれ、日本語に直訳して「雀」と丸暗記してしまうと、この手の平に群がって餌を食べているmoineau や sparrowの姿が見えなくなってしまうのです。
 私が撮ったビデオはちょっとしたショックであったかもしれません。「・・・無知の恐ろしさ、自分自身の視野の狭さを感じた。よく私は、視野を広げたいとか口にしてきたけれど、何もわかっていなかった。何が視野を広げることなのか、何をするべきなのか、視野を広げるとはどういうことなのか、ほんの少しではあるが、そのきっかけが掴めた気がする。このような違いにもっと興味をもって、これからの勉強に取り組んでいきたい」(英1A 阿部加奈子)というような感想がいくつかありました。
 この時間にはもう一つ、洪水についてのお話もしました。日本語の「洪水」は 英語の"flood" ではありません。洪水は、日本では夏や秋にしばしば大きな災害をもたらし、悲惨なイメージがありますが、少なくともイギリスの "flood"には、そのような悲惨なイメージは全くなく、冬の、あるいは初春の、ちょっと誇張して言えば、一種の「楽しい」風物詩でさえあるのです。
 イギリスの気候は、日本とは逆で、夏は乾燥して冬は湿潤である傾向が強いことも私たちはみてきました。一般的には雨量も日本の半分ほどですが、その少ない雨も、夏よりもむしろ冬に多く降りがちです。平均気温も日本に比べるとかなり低く、土も石灰質で痩せていますから、これでは農作物は育ちません。
 地形も、特にイングランドの東南部は、広々とした一続きの平野で、これがイングランドの3分の2を占めています。その北部にはペンニン山脈がありますが、その中で最も高い山クロス・フェルでさえ893メートルですから、あとの山もたかがしれています。
 湖水地方のカンブリア山地は、例外的に高い山が多い地域で、そのなかのスカフェル山は979メートルです。これがイングランドでは文字通りの最高峰ですから、急峻な山地の多い日本とは違って、イギリスの地形がいかに平坦であるかがよくわかります。"mountain" は「山」ではないし、"river"も流れが緩やかで、日本語の急流小河川が特徴である「川」とは違うという意味はこういうところにもあります。"flood"も、まったく災害ではなくて、冬のひととき人々の目を楽しませてくれる幻の広い水たまりなのです。》

 最近は、地球温暖化が進んで、世界的に予想外の異常気象が起こるようになり、ヨーロッパやアメリカでも、旱魃、豪雨、大洪水、猛暑による広範囲な山火事などが起こるようになりました。イギリスの “flood”なども、今では、イメージが少し変わりかけているかもしれません。しかし、水と熱と土に恵まれないために辛うじて人々が肉食で生き延びてきたヨーロッパの厳しい生存環境のなかで育まれてきた文化の伝統が、そのうちの言語の一つである英語の中にも色濃く反映されている状況は、基本的には、いまも変わっていないでしょう。あなた方と私は、34年前の昔に、日本からみると極めて異質な、その文化と言語の様相の一端を、ともに学んできたのでした。

 あなたからのメールで、「私たちはいま53歳になる年齢になり、それぞれの人生を送っていますが、みんな今でも武本先生の “山はmountainではない”という言葉を強烈に覚えています! このホームステイの経験と、先生の授業からの学びは、確実にいまの私たちに影響を与えてくれています。ぜひ、みんなを代表してひとこと感謝をお伝えしたくてメールを書かせていただきました」と、あなたは書いてくれていました。私にとってはたいへん有難いことばで、このメールのことばに惹きこまれて、私は、久しぶりに、もう遠い昔の思い出になってしまった「英語海外研修」や「比較文化論」のことを長々と、書き連ねてきました。写真も送っていただきましたが、あのゴールド・コーストでのあなた方の若々しく明るい表情が、私にはいまも鮮烈に蘇えってきます。

 その私も、いまは93歳になりました。2001年に跡見を定年退職してからは、跡見学園女子大学名誉教授の称号だけが、いまの私と跡見とを繋ぐ細い一本の糸のように残っていますが、茗荷谷のキャンパスを訪れることもなく、東京の片隅の寓居で、気の向くままに読書したり、時にはパソコンに向かって原稿を執筆したりしながら、なんとか穏やかに余喘を保っています。読みたい本はまだ沢山ありますので、退屈することはありません。

 あなたからのメールで、もう34年前になるあの時の「英語海外研修」参加メンバーの一部の人たちと、毎年、年末の同じ日にいまも楽しい集まりを続けていることを知りましたが、これは久しぶりに跡見の卒業生から聞く嬉しいニュースでした。私は年齢相応に足腰が弱って、遠出は難しくなっています。しかし、気持ちだけは元気のつもりで、かつては卒業生たちのグループとよく会っていたように、また、のこのこと出かける「空想」にふけったりしました。せめて空想の上でも、あなた方のその「楽しい集い」に参加させていただいて、気楽に昔話でもしているような気持ちで、この長い手紙を書いています。

 あなた方も、卒業後30年余の間に、それぞれにいろいろな人生を送ってこられたことと思いますが、諸行無常で五濁悪世の世の中では、悲しい、辛い思いをされることもあったかもしれません。私も、93年も生きてきて、いろいろと喜怒哀楽の人生を体験してきました。敗戦後の焼け野原になった大阪で、餓死寸前の飢餓に耐えていた中学生時代の経験もありますし、後年には、家族を失って、悲嘆と絶望の中で、何年もの間、生きていくのがとても辛く思えたこともあります。昨年9月下旬には、ホームページのこの欄No.13の「生と死の狭間で」にも書いているように、救急車で大学病院へ運ばれ、急性腹膜炎の緊急手術を受けて一か月半入院するというハプニングもありました。しかし、そのような私でも、あなた方よりも長く生きている間に、少しわかってきたことがあります。

 例えば、あなたも気付いておられるかもしれませんが、社会生活の中でいろいろな悲しみや苦しみに出合って、自分が不幸だと思っている人が珍しくはありません。しかし、本当は、不幸というのは、単なる仮象でしかないのではないでしょうか。世の中には「幸せ」はあっても「不幸」などはなく、不幸と思っている人がいるだけだというのが真実だと思えるのです。悲しみや苦しみにはそれぞれに意味がありますし、それらは自分の人間としての成長には必要な体験です。越えられない困難はないといいますが、その困難も私たちが成長する糧として必要なもので、それはむしろ、恩恵の別名であるのかもしれません。

 それから、世の中には、お金が貯まらず、財産もないので貧乏だと嘆いている人も少なくはありません。もっと収入が増えればと、与えられることに執着しがちです。しかし、大切なことは、与えられるよりは、与えることでしょう。与えられないから貧乏なのではなくて、与えようとしないから「貧乏」なのです。誰でも、いくらでも、ほほえみと優しさを与えることが出来ますし、それをまわりの人々に与えている人は、決して貧乏ではありません。むしろ、与えることを知らない金満家よりも、こころははるかに豊かで、人間としても美しく、優れています。

 また、世間では、大金を手にして、何の悩みも苦しみもなく、贅沢三昧の暮らしをしている人を羨んだり、幸せな人と思いがちです。しかし、それも、浅はかな勘違いでしょう。それでは、折角学校に入りながら、宿題や試験を嫌がって授業を受けようとせず遊び呆けているのと同じで、人間として成長していく体験や学びを失ってしまうことになります。イエス・キリストも、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(ルカ:18-25)と言いました。ここでも大切なことは、「天に宝を積む」ことで、この世で自分の財産を増やすことではありません。

 私たちは、誰でも、何度も生まれては死に、死んでは生まれて、輪廻転生を繰り返しながら、様々な体験を通して、光に近づいていきます。この光を神と言い換えてもいいかもしれません。この実相は、数十年から多くとも100年くらいの、短かく狭い人生の視野からは、捉えることができないでしょう。しかし、この短い視野を永遠の長さに広げていけば、この世で不幸と思われていることも、実は、幸福のための触媒であることがわかってくるような気がします。永遠の尺度から見れば、究極の不幸と思われている人間の死でさえ、決して不幸ではないことも理解できるようになると思います。

 ただ、「不幸」というものがなくとも、人間はそれぞれに個性があって、この世で様々な生き方をしていますから、光への歩みの速い人と遅い人の違いがあるのは否定できません。しかし、私たちは、決して、独りで生きているのではありませんから、歩みの遅い人でも、大いなる力に導かれていつかは必ず光に到達するはずです。だから、他人を羨むようなこともなく、希望を持って自分の道を素直に歩んでいけばよいのだと思います。この「大いなる力」に導かれていることを知って、素直な気持ちで希望を持って生きていくというのが何よりも大切で、それが、私たちがわざわざこの五濁悪世に生を享けてそれぞれに喜怒哀楽を体験しながら成長していく、人間としてのあるべき姿になるのではないでしょうか。

 平安時代の高僧であった空海は774年に生まれて835年に亡くなりましたが、自分の死ぬ日時を、3月21日の寅の刻(午前3時~5時)と予言して、予言通りに死んでいきました。弟子たちには、「嘆くなかれ」と戒めながら、「生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」ということばも遺しています。人間というものは、いったい何度生まれ変われば生と死の真理を理解できるのであろうか、という嘆きが感じられるようなことばですが、このことばは、私たちに、今生での真実の生き方が、どうあるべきかを問いかけているともいえるでしょう。

 あなたは私のホームページも見て下さっているようですが、先日は、たまたま、日本有数の優れた霊能者である浅野 信さんの「自分に起こるすべての出来事には意味がある。起こったことに感謝せよ」 という文を引用しました。(「学びの栞」B 50-t) この「自分に起こるすべての出来事には意味がある」というのは、自分に起こることはすべて自分の成長のために必要だから起こっているということでしょう。そして、自分に必要なことが起こっているのであれば、それらのすべては、自分にとってはいいことなのです。だから、起こったことには感謝しなさい、ということになります。

 少し唐突ですが、ここでふと、むかし新聞に載っていた作家で登山家の田中澄江さん(1908—2000)の記事を思い出しました。「神を知るために」と題して、彼女の23歳の時の思い出を綴った文です。私のホームページの「随想集」No.68「神を知るために生まれる」(2009.10.01)のなかでも引用していますが、田中さんは、こう書いていました。

 《自分は、どこから来て、どこへゆくのか。自分は何をしに、この世に生まれて来たのか。物ごころついて以来、心に持ったはずの問いかけを、まだ、私は持ちつづけ、まだ、問いつづけている・・・・・
 二十三歳のとき、芝白金三光町の聖心女子学院の教師となり、マザー・ラムという英国人から公教要理の講義を受けた。開口一番、ひとは何のために生まれましたか。神を知るためですねと言われたとき、大粒の涙が机の上にぼたぼた落ちて、そうだ、本当にそうだ、神を知るために生まれたのだと、全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。》(「朝日新聞」1991.3.11)

 名残が尽きないような気がしますが、長々と書いてきたあなたへの手紙は、このへんで終わりにしたいと思います。年末恒例の集いでまたお会いになるかつての学友の皆さんには、くれぐれもよろしくお伝えください。34年前のあなた方と、あの「英語海外研修」や「比較文化論」での思い出を共有するご縁を改めて感謝しながら、あなた方の年末恒例の集いが今年もまた楽しいひと時になることを陰ながら願っています。そしてまた、あなた方一人ひとりの日々の生活が、足ることを知らぬ物欲や虚栄に流されず、世間にはびこる利己主義からも離れて、どうか安らかでありますようにと、こころからお祈り申し上げています。




     **********




      人間の煩悩と霊性の開発       (2023.12.26)


    (一)

 私は、1983年に妻と子を亡くして悲嘆に暮れていた頃、毎日朝夕、仏壇に向かって「仏説阿弥陀経」を唱えていたことがあった。「仏説」というのは、文字通り、仏様が説かれた、という意味である。「如是我聞一時仏在舎衛国・・・・・」という書き出しで、「ある時釈尊は、千二百五十人もの多くの修行者とともに舎衛国の祇園精舎に滞在していた。その時に釈尊は、長老の舎利弗に言った」というふうにこのお経は始まる。その後に続くのが、釈尊自身のことばである。その内容をごく簡単に現代文にまとめると、次のようになる。

 《ここから西方に十万億の仏の国を過ぎたところに、極楽という名の世界がある。その世界には、限りない命と光をもった阿弥陀仏が住んでおり、いま現に教えを説いておられる。
 その世界に住む者たちには、体の苦しみも心の悩みもなく、ただ幸せがあるだけだ。その世界には、七重の石垣、七重の並木があり、それらは、金、銀、水晶等の宝石で飾られている。また、宝石から出来ている池があり、池の底には一面の金の砂が敷き詰められている。階段の上には御殿があって、七種類の宝石で飾られ、池の中には、車の車輪ほどもある大きい蓮の花が美しく咲いている。
 その世界では、常にすぐれた音楽が演奏されている。大地は黄金でできていて、昼、夜に三度ずつ、曼陀羅の花が降ってくる。白鳥、クジャク、オウム等、色とりどりの美しい鳥たちも、昼、夜に三度ずつ、優しい声で鳴く。そよ風が気持ちよく吹き渡り、宝石で飾られた並木を揺り動かして、美しい音が流れている。その美しい音は、あたかも百千種類の音楽を同時に演奏しているようである。
 生きている者は、わたしの教えを聞くならば、この世界に生まれたいと願いをたてるべきである。わたしがいま、阿弥陀仏のすぐれた徳をたたえているように、東西南北上下の世界でも、数多くの仏たちがおられて、それぞれの国で、三千大千世界を長い舌で覆い、教えが真実であることを証明しながら、こういわれているのだ。「世の生ける者たちよ、そなたたちは今こそこの阿弥陀仏のすぐれた徳をたたえ、すべての仏によって護られているこのお経の教えを信じなさい」と。》

  このなかの「三千大千世界を長い舌で覆い」というのは、釈尊の説法が嘘ではないことを示す言い方である。釈尊の三十二ある身体的徳著の一つで、その舌の大きいことは、顔面を覆うほどであるといわれていた。舌が鼻を覆えば、その説くことばに偽りがないと考える風習がインドではあった。私は、ここで述べられていることを、釈尊が「嘘ではない、嘘ではない」と何度も繰り返されていることにこころを打たれていた。極楽が本当にそのように素晴らしいところであるのであれば、死ぬことにも希望が持てることになる。亡くなった妻や子も、その極楽へ行けるようにと、真剣に祈りたい気持ちになったりもした。そのような時に目についたのが『歎異抄』である。



    (二)

 『歎異抄』の第9段には、親鸞の弟子の唯円が、極楽浄土がそれほど素晴らしいところなのに、早く浄土へ行きたいという気持もちが起こらないのはどうしてか、と疑問をもったことが記されている。唯円が親鸞に向かって、「いくら念仏をとなえていても、どうも天に舞い地に踊るというような全身の喜びが感じられません。それに、真実の楽園であるはずの浄土へも、早く行きたいという気持ちが起こらないのはどうしてでしょう」と、率直に聞いたのである。親鸞もそれに対して率直に答えた。「実は私もそのことを不思議に思っていたのだが、そなたも同じであったか」と。そして、こう自分の考えを述べた。その原文と、それに併記して大意をつけると、つぎのようになる。

 《よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。
 また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。》

 (よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、喜ばないでいるからこそ、いよいよいつ死んでも極楽へ行けるのは間違いないと思われるのである。喜ばねばならないところを、喜ばせないようにしているのが、煩悩のしわざである。それを阿弥陀仏は、百もご承知で、煩悩具足の凡夫を助けると仰せられたのだから、他力の悲願は、このような私たちのためであったと知らされて、いよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。
 また、早く極楽へ往きたいという気持ちになれずに、少し病気にでもなると死ぬのではないかと、心細く思うのも煩悩のしわざである。はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ変わり死に変わり迷い続けてきたこの苦悩の世界には執着しながら、まだ見ぬ安らぎの極楽浄土は少しも恋しいと思えないというのは、よほどその煩悩が強いために違いない。)

 私は、こういう文章に少しずつ、目が開かれていくようになった。いま、自分が住んでいるこの苦しみの多い、迷いの世界に生き続けることにこだわって、あれほどすばらしい極楽・浄土へもすぐに行きたいと思えないのは、それほど人間のもっている煩悩が強いからだ、というような言い方には、私なりに、納得できるような気がしたのである。その時、私は、むかし学生時代に、戦災で周辺に焼け跡の広がる新宿の映画館で見た、ある外国映画の一つのシーンをまざまざと思い出していた。それは、次のようなシーンである。

 ヨーロッパのどこかの監獄で、思想犯であったろうか、一人の囚人が、30年も40年も独房に閉じこめられてよぼよぼの老人になってしまう。その老人は、毎日、独房の高い小さな天窓から差し込む光を仰いでは、監獄の外の自由へのあこがれを募らせていた。 ところが、第二次世界大戦の末期と思われるが、その監獄もある日、激しい空爆を受けて、高い塀も頑丈な建物も崩れ落ちてしまう。だが、その独房の老人は運よく生き延びて、瓦礫のなかから這い出してきた。そして、よろよろと外へ向かって歩き始めたのである。

 しばらく歩いて振り返ってみたが、誰も追ってくる様子はない。目の前には、広々とした野原が広がっている。彼方には、街の姿も見える。それは、老人が長い年月あこがれてきた自由の世界のはずであった。老人は、また少しよろよろと歩き続ける。しかし、途中で立ち止まってしまったのである。老人は、しばらく考えていたようだが、やがて向きを変え、またよろよろと、崩れ落ちた監獄へ帰って行った――。たとえ監獄であっても、そこで衣食住を与えられて何十年も生きてきた後では、もうそこから離れて生きることは、不安になったしまうのである。これは、煩悩にまみれた人間が監獄のような「五濁悪世」のこの世での生活にあくまでもしがみつこうとして、苦悩のない安寧の世界へ移るのを怖がるのと同じ心理ではないであろうか。

 上に引用した『歎異抄』第9段のこの文は、さらに、このように続けられている。

 《名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え。踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候いなまし。》  

  (名残おしいことだが、娑婆の縁がつきてこの命が終われば、あの極楽へ行くことになる。阿弥陀仏は早く極楽へ行きたいと思えない者を、ことさら憐れんでくださっているのだ。それを思えば、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲が頼もしく、極楽へは間違いなく行けると思うべきである。それを、喜びのあまり、早く極楽に行きたいと思っている人がいるとしたら、かえって、その人には、煩悩がないのだろうかと、不思議に思われるのではないか。)

 要するに、煩悩にまみれたわれわれ凡夫には、いかに極楽が素晴らしいところであっても、すぐに行きたいと思わないのは当たり前で、早く死んで極楽へ行きたいという人がおれば、むしろ、そういう人のほうが煩悩はないことになって異常に思える、というのである。このように説明されると、人間が何よりも死ぬのを嫌がるのが、わかるような気がしていた。



    (三)

 つぎに読んでこころに残ったのが、『基督信徒のなぐさめ』(岩波文庫、1983)である。著者の内村鑑三(1861—1930)は、日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者として知られている。1877年に札幌農学校入学し、教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークの強い感化力によってキリスト教の洗礼を受けた。1881年に農学校を首席で卒業してからは、北海道開拓使民事局勧業課に勤め、勤務の傍ら、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立している。その後、アメリカへ渡り、マサチューセッツ州のアマースト大学を1887年に卒業した。

 その内村が、明治24年(1891年)に第一高等学校の教員であった時に、教育勅語奉読式において、明治天皇の親筆の署名に対して、敬礼をしなかったといういわゆる「不敬事件」を起こした。キリスト教徒に対する反発もあって、世間からは国賊と罵られ、激しい非難が高まる中で、内村は辞職する。その心労で妻加寿子が病死した。その後に続く、流浪・窮乏の時代に、内村が書いた処女作がこの『基督信徒のなぐさめ』である。

 キリスト教の「無教会」という言葉は、この著作で初めて使われた。1939年には、岩波文庫として初版が出版されている。この本の第一章が「愛するものの失せし時」で、内村は、このなかでこう書いている。

 《余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙も ---時にはほとんど神をも--- 失いたり、しかれども再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えたり、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真正の配合はかえって彼が失せし後にありしとは。
 然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。》 (内村鑑三『基督信徒のなぐさめ』、岩波文庫、1983年版、pp.27-28)

 この著書については、内村は序文で、「この書は著者の自伝にあらず、著者は苦しめる基督信徒を代表し、身を不幸の極点に置き、基督教の原理を以て自ら慰めんことを勉めたるなり」と書いているが、それでも、少なくともこの章は、自分が引き起こした不敬事件のために愛する妻を失ったという深い悲しみが背景になっていることは否めないであろう。愛する者を「彼」と書いて、ここでは、第三者の立場に身を置いているが、限りなく「自伝」に近い、といえるかもしれない。

 この章では、内村は、愛するものを失って、一時は絶望のあまり、ほとんど「神をも失う」状況に陥るが、しかし、そこから立ち直った後では、前述のように「万を得て一つを失わず」の境地に達することになる。この「万を得て一つを失わず」の言葉の持つ意味は重い。その頃の悲嘆と絶望の底に落ち込んでいた私には、こころに強く響いた。このことばに憧れもした。勿論、内村がその境地に至るまでの過程には言い知れぬ数々の苦悩があったが、その一部を、改めてここで辿り直してみたい。

 内村は、愛する者の死に対して、「生命は愛なれば愛するものの失せしは余自身の失せしなり」と悲しむ。そして、「彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとっては最大不幸なりしに相違なし」と、愛する者が「死せざるもの」であり、天国で再会できることを知っていても、その死は自分の「最大不幸」であると嘆く。愛する者からは生前、多くを尽くされながら、それに報いることがなかったことも、悔やまれてならなかった。「報ゆべきの彼は失せ、免を乞うの人はなく、余は悔い能わざるの後悔に困められ、無限地獄の火の中に我身で我身を責め立てたり」と内村は書いている。その内村は、嘆きながら、ある日、愛しき者の墓を訪れる。花を手向けて、祈ろうとすると、彼の耳にどこからか、つぎのような「細き声」が聞こえてきた。

 《汝何故に、汝の愛するもののために泣くや、汝なお彼に報ゆるの時をも機をも有せり、彼の汝に尽せしは汝より報いを得んがために在らず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全身全力を以て汝の神と国に尽さしめんがためなり、汝もし我に報いんとならばこの国この民に事えよ、かの家なく路頭に迷う老婦は我なり、我に尽さんと欲せば彼女に尽せ、かの貧に迫められて身を恥辱の中に沈むる可憐の少女は我なり、我に報いんとならば彼女を救え、かの我のごとく早く父母に別れ憂苦頼るべきなき児女は我なり、汝彼女を慰むるは我を慰むるなり、汝の悲嘆後悔は無益なり、早く汝の家に帰り、心思を磨き信仰に進み、愛と善との業を為し、霊の王国に来る時は夥多の勝利の分捕物を以てわが主と我を悦ばせよ。》 (内村鑑三、前掲書、p.26)

 この「細き声」は内村の身に染みたが、それでも彼の苦悩は尽きない。そして、その最大の悩みは、自分が「あらん限りの熱心を以て祈り続けた」のに、神はその祈りに応えることなく、「最大の不幸」を自分に与えたということであった。彼は、「神もし神なれば何故に余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或いは祈祷は無益なるものなるか、或いは余の祈祷に熱心足らざりしか、或いは余の罪深きが故に聞かれざりしか、或いは余を罰せんがためにこの不幸を余に降だせしか、これ余の聞かんと欲せし所なり」と述べて、神に対する不信をも抱いたりする。その結果、内村は、神に祈ることも数か月間やめてしまったこともあった。

 内村の苦悩はなおも続く。そして、その長い苦悩の果てに、彼はこう考えるようになる。「ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛するものを取りされり、父よ、余は信ず、我等の願うことを聴かれしに依りて爾を信ずるは易し、聴かれざるに依りてなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものなれば爾必ず我の祈祷を聴かれしならん」

 ここでは、内村は、愛する者の命を救ってもらえなくとも、なお、神への信心を失うことはないと神は知っているがゆえに、「愛するものを取り去った」というのである。それを、内村は、神の自分に対する「特別の恩恵」として捉えるようになった。この境地に辿り着いた内村は、また信仰を取り戻して神への感謝があるだけになる。そして、それが、「然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり」という、冒頭のことばになった。彼は、このことばをさらにこう続けている。

 《余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何時かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉しく逝かんのみ。》 (内村鑑三、前掲書、p.28)



    (四)

 最後に、以上の三書に始まる私の霊的真理への歩みをまとめておきたい。まず、冒頭にあげた『仏説阿弥陀経』については、私は、むかしから、葬儀や法事の時などに僧侶の読経で何度も聞かされてきた。妻と子を亡くしてからは、しばらくの間は、藁にも縋る気持ちで、自分でも毎日のように読経するようになっていた。そのうちに『歎異抄』を読むようになり、『基督信徒のなぐさめ』との出会いもあった。やがて導かれるようにして霊界についても学ぶようになり、何年かを経て、シルバー・バーチに辿り着いた。その間に、霊界の妻と子との数多くの霊界通信も経験している。だから、いまでは、霊界の存在については、あまりにも自明のこととして、かつてのように疑問に思うことはない。

 霊界のすばらしさについても、シルバー・バーチを挙げるまでもなく、霊界から送られてきた数多くの傍証や証言がある。例えば、生前スピリチュアリズムの発展に大きな貢献をしてきたイギリスの作家コナン・ドイル(1859‐1930)は、自分の死後の霊界からの通信で、こう述べている。

 《私は、ことばに言い表すことの出来ないほど美しい世界にいます。この現実を、地上にいる私の友人たちに伝えることが私の最大の願いです。私がやってきたこの霊界がどのようなものであるかを理解してもらわなければ、このよろこびを分かち合うことが出来ません。ですから私は、死後の世界についての真実を広く知らせなければという衝動を、こちらへ来てますます強く感じているのです。》 (アイヴァン・クック『コナン・ドイル』大内博訳、講談社、1994、p.160)

 霊界がいかに美しい所かを述べた『仏説阿弥陀経』の描写があながち誇張とは思えないような霊界からの通信もある。3人の幼児の母であるアメリカ人霊能力者のジュディ・ラドンが、それをこう伝えている。

 《こちらには、この上もない美の世界がある。光が隅々までゆきわたり、あらゆるものに光がみなぎっている。建物は、たいてい美しい大理石のような材料でできており、塵やほこりはないから、どこもきれいで新しい。自然のままの優雅な田園もある。土は独特の黄金色で燦然と七色にきらめき、あたり一面には神秘的で華麗な色彩がある。空は無数の虹がかかったようにほんのりと明るく、湖は生命力と美に輝いている。美しい樹木や灌木や藪や牧草地があり、花々は地球では想像できないほど美しい。》 (ジュディ・ラドン『輪廻を越えて』片桐すみ子訳、人文書院、1997、pp.39-40)

 (二)で取り上げた『歎異抄』第9段では、その素晴らしい極楽へなぜ早く行きたいと思ないのか、という疑問に対する答えとして、親鸞は凡夫のもつ煩悩が妨げているのだと答えているが、この答えに対応するものとしては、シルバー・バーチの「霊性の開発」を挙げることが出来るであろう。霊界は素晴らしいところであるが、それを地上の人間が理解し受け容れられようになるためには、霊的に進化して魂の準備が整わなければならないというのである。シルバー・バーチはそれを、つぎのように述べている。

 《地上というところは、バイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。
 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難問が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。
 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼(はがね)が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。
 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。(中略)
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。》 (『シルバー・バーチの霊訓 (10)』近藤千雄訳、潮文社、1988、pp. 21-23)

 このように、シルバー・バーチは、魂が目を覚ますためには、魂がその琴線に触れる体験をしなければならない、と言っている。私たちはみんな、霊性の開発を目指して、この世に生まれてくる。逆に言えば、私たちは、霊性の開発がまだ不十分であるがゆえに、現世に生をうけた。だから、魂が目を覚まして、霊性が十分に開発されれば、もう、この世に生まれてくることはない。それが、仏教でいう解脱である。

 仏教では、霊性が十分に開発されるまで、何度でも輪廻転生を繰り返すと教える。『歎異抄』第9段で親鸞がいう「煩悩」は、いわば、霊性未開発の様態である。霊性が十分に開発されるまで、つまり、煩悩が無くなってしまうまでは、極楽の素晴らしさにも気がつかないし、早く極楽へ行きたいとも思えない。これは、シルバー・バーチが、魂が目覚めなければ、霊界の存在にも気がつかずに、苦悩の人生を死を恐れながら生き続けることになる、というのと同様といえよう。

 『歎異抄』は、煩悩を無くすための方策には触れていないが、おそらく第一に心がけねばならないことは、足ることを知って、物欲、金銭欲、名誉欲等々、さまざまな欲望を抑えることであろう。五濁悪世のこの世は、五濁悪世であるがゆえに、そのための修行には格好の場となる。それを、シルバー・バーチの場合は、この世で困苦の真っ只中に置かれてはじめて霊的真理を理解するための触媒が働くという言い方をしているのである。

 つぎに、(三)の「愛するものの失せし時」で、内村が、愛するもの失って悲嘆に暮れた体験を経て、「然り余は万を得て一つを失わず」と言っているのは、人間は霊的存在で、この世で死んでも、霊界で永遠に生き続ける、という生命の実相が理解できたということであろう。私自身も、長い無明の彷徨を経て、死んだと思っていた愛する家族の死後存続が確信できるようになってからは、同様の心境になった。この永遠の生命については、シルバー・バーチは、いろいろなところで、何度も繰り返してのべているが、下記はそのひとつである。ここでは、美しく素晴らしい霊界が厳として存在することを述べた後で、改めて、人間は死後も霊的存在として生き続けることを、こう教えている。

 《私たちの世界は、皆さんには到底想像できないほど豊かで美しい世界です。皆さんの聴覚を超えたオクターブの世界、皆さんの視覚の限界を超えたスペクトルの世界がどうして説明できましょう。どうにもならないほど説明が難しいのですが、それでも実在しているのです。
 物質の世界に生まれて来た以上は物質の法則によって制約を受けざるを得ません。が、皆さんも霊なのです。魂が宿っているのです。それはいかなる物的なものよりも上です。霊が主人であり物質は召使いです。霊は不変の実在であり、物質には永続性はないのです。
 その霊が去ると肉体はもろくも崩れてチリと化します。形体を変えてしまいます。そして二度と同じ形体には戻りません。一方、真実のあなたである霊は生き生きと輝いた姿を見せております。心臓だの肝臓だの肺だのによって生かされているのではないのです。肉体に生きるエネルギー、あるいは生命を維持する上で必要なものすべてを供給しているのは霊なのです。》 (前掲書、『シルバー・バーチの霊訓 (10)』、p. 102)

 ここで、もう一つ、シルバー・バーチが「生命に死はない」ことを強調して「あなたは死のうにも死ねないのです」とまで述べている例を付け加えておきたい。このような「証言」を読んでいると、内村の「然り余は万を得て一つを失わず」ということばも、むしろ当然だとさえ思えてくる。シルバー・バーチは「すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです」と述べた後、こう続けている。

 《物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。》 (サイキック・プレス編 『シルバー・バーチは語る』ハート出版、pp.13-14)

 繰り返しになるが、世間ではみんな煩悩にまみれて、生と死の真実にも気がつかずに、この世に生きている。かつてそれを嘆いた空海は、「生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」と言った。その煩悩から完全に脱却するのが仏教の解脱であろう。一方で、スピリチュアリズムでは、霊的無知の迷妄から抜け出すために、シルバー・バーチが、飽くことなく霊性の開発を説いてきた。仏教でも、スピリチュアリズムでも、その教えの根幹で軌を一にしているのは、死後の世界の実在であり、生命の永遠という霊的真理である。それが十分に理解できて高い霊性に達しておれば、私たちはこの世に生まれてくる必要はなかった。改めて今世にまた輪廻転生してきたのは、その霊的真理を、今度こそ、しっかりと学び取るためであることを、生命の真実を学ぼうとする私たちは忘れてはならないであろう。




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      天為であった家族別離の試練         (2024. 01. 25)


 私は、妻と子供二人の、家族四人でのアメリカ生活を、二度経験している。最初は、私が文部省在外研究員に任命された1973年の12月から1975年の2月までで、二度目は、フルブライト上級研究員に選ばれた1982年9月から1983年の10月までである。この最初のアメリカ生活の時は、私は、かつて大学院時代を過ごしたオレゴン州のオレゴン大学に在籍していて、教員宿舎に住みながら、子供たちも現地の小学校に通っていた。春休みには、大学主催の一週間のオレゴン州周遊旅行に家族で参加し、3か月の夏休みには、前半の40日間を、車にテントを積んでアメリカ一周旅行に、後半の1か月を、空路ロンドンまで飛んで、レンタカーでヨーロッパ各国をドライブするなど、楽しい思い出もあった。出国から帰国まで、すべてが順調であった。

 しかし、二度目のフルブライト上級研究員として渡米した時には、すべてが順調ではなかった。アメリカの1930年の大恐慌以来の不況で、アメリカ政府の予算が大きく削減され、上級研究員の決定も、異常に遅れた。大学で教えている場合、1年も海外へ出かけるような長期出張には、当然ながら留守中の授業担当者を非常勤で手当てするなどの措置が必要になるから、少なくとも4、5か月程度の余裕をもって人事委員会に申請しなければならない。5月に入って、もうこれ以上は待てないから、大学に迷惑をかけないためにも、フルブライトへは辞退の連絡をしなければならないのではないかと考え始めたころ、やっと、上級研究員決定の通知が届いた。二度目のアメリカ生活は、はじめから、波乱含みであった。

 私は9月中旬に、1983年9月14日までの1年間の予定でアメリカのアリゾナ大学へ向かうことになった。妻とアリゾナ大学への編入学が決まった長女が同行し、東京外国語大学在学中の長男は東京に残る予定であった。ところがその後、当時、東京・荻窪の実家に住んでいた妻の母親が胃がんに冒されていることがわかって、妻は急遽、渡米を取りやめ、看病のために東京に残ることになった。私と長女だけが渡米して、アリゾナ州のツーソンに住み始めた。

 妻の母親はその年は持ち越したが、翌年、1983年の2月に亡くなった。母親に付き添って看病に明け暮れていた妻は、悲しみと過労で、葬儀のあと寝込んでしまった。長男は大学2年生であったが、はじめの予定では、1982年9月に私と妻が長女と渡米した後は、翌年3月からの春休みに、アリゾナへ来て家族と合流することにしていた。それが私たち家族にとっては二度目のアメリカ生活になるはずであった。アリゾナ大学では、制度の違いで、春休み中も講義が行われていた。言語学の勉強にのめり込んで学者への道を志望していた長男に、著名教授の言語学講義を聴講させる手配もしていた。しかしそれも、妻の母親の葬儀と、その後の妻の体調不良で、妻と長男の渡米は諦めなければならなかったのである。

 次のチャンスは、夏休みしかない。しかし、夏休みをアメリカで過ごすためには、私のフルブライト上級研究員の滞在期間を少なくともあと半年は延長する必要があった。フルブライトの上級研究員の場合、通常であれば、滞在期間を半年でも一年でも延長するのはあまり困難ではない。一年後の9月以降、どこかの大学で研究を続けるか教えるかして、公的に、給与を受け取る形を整えればよいことになっていた。私は、妻と長男の春休みの渡米が困難になった時点で、私の研究分野に沿うような教育・研究担当者の公募があれば応募することを考えるようになった。アメリカは大学の数も多いし、「フルブライト」にはそれなりの権威が認められていたから、私は何とかなるのではないかと思っていた。

 しかし、現実は予想外に厳しかった。冒頭でも触れたようにその年のアメリカは大変な不況で、私の居たアリゾナ大学を含めて、どこの大学も、あまり前例のない大幅な予算削減に苦しんでいたからである。アリゾナ大学卒業生の就職も「最悪の状況」といわれていた。その年のアメリカでは、失業率も11パーセント近くになっていた。失業率2パーセント台であった好景気の日本では想像もつかない深刻さであった。それでも、熱心に就任先を探し求めているうちに、何とか翌年の春までには、カリフォルニア州モントレーのアメリカ海軍語学学校とノース・カロライナ州のノース・カロライナ州立大学からの「任用予定」を取り付けることが出来た。アメリカ海軍語学学校は、日本文学の世界的権威といわれたドナルド・キーンさんが学んだ学校で、外国語の英才教育で有名である。私はその教授法に関心があった。

 アメリカ海軍語学学校へは、応募書類として、履歴書、論文一覧表、与えられたテーマで書いた英語と日本語のエッセー、同じく、英語と日本語のスピーチの録音テープ等を提出してあったが、それに対する資格査定書(総合点数99点、1級インストラクター、GS-7)とともに、「GS-7」に対応する高額の俸給表も同封して送ってきた。ノース・カロライナ州立大学からも、言語学部のK教授からの、採用の強い意欲を示す電話や手紙を受け取っていた。

 「任用予定」の通知を受けて、9月14日までであったアメリカ滞在を延長するための手続きをすることになった。そのためには、フルブライト委員会のほか在職中の本務の大学人事委員会へも滞在期間延長の申請をする必要があったので、私は、海軍語学学校にもノース・カロライナ州立大学にも、そのことを知らせて、5月末までに「任用決定書」を送ってくれるよう手紙で要請していた。それ以降になれば赴任が困難になるとも伝えていた。しかし、不況による予算削減で執行予算が決まらず、6月に入って一週間が過ぎても、そのどちらからも、「任用決定書」を送ってこなかった。私は焦った。さらに数日待ってみたが、やはり無駄に終わった。これでは滞在延長の申請手続きができない。

 私はやっと決心して、フルブライト委員会と本務の大学に迷惑をかけることを避けるため、滞在延長は取りやめることにした。私は滞在期限の9月14日までに帰国することをフルブライト委員会に伝える手紙を書いた。規定による帰国旅費の支給申請書も作り、6月15日の朝、近くのポストに投函した。辛い気持ちで何もする気がおこらず、その時はそのままアパートへ引き返した。その、ほんの20分ほどの留守の間に、ノース・カロライナ州立大学からの速達便が届いていた。任用決定書であった。私は呆然となった。

 しばらく苦しみながら考えた後、私はノース・カロライナへ赴任することにした。先ほどフルブライトへの書類を投函したばかりのポストの前で1時間以上も待って、やがて現れた郵便物集配人に事情を話し、私の手紙を取り戻したいと言った。集配人は、規則でここでは返却できないので、郵便局本局へ身分証明書を持参して受け取りに行ってほしい、と答えた。

 翌日、私は言われたように郵便局の本局へ行って、フルブライト宛の書類を取り戻した。そしてアパートへ帰ってみると、今度は、アメリカ海軍語学学校からの手紙が届いていた。予算措置ができて、これから任用手続きを始めるからもう少し待ってもらいたい、というのである。手続きを始めるのはいいが、それでまた少し待てといわれても、私にはもう待つ余裕はない。私は、アメリカ海軍語学学校のほうは無視することにした。

 こうして、7月1日の朝、車に荷物をいっぱい積みこんで、私と長女はツーソンを後にした。アリゾナのツーソンからノース・カロライナ州の首都ローリーまで、直線距離は約3千キロだが、その間に、車では、ニューメキシコ、テキサス、アーカンソー、テネシー州などを通過して行かねばならない。途中、名所旧跡などに立ち寄りながら、私たちの車は 3千4百キロを走って、10日目の7月10日、ローリーの近くまでたどり着いた。

 翌日には、大学から北へ30キロほどの景勝地にある2LDKで90平方メートルくらいのアパートを自分で探して契約した。7月12日に引っ越しをして、14日に電話がついたので、東京の留守宅へ電話した。もっと早く電話すべきであったが、就任の決定が遅れに遅れたので、ノース・カロライナに落ち着くまでは安心できないような気がしていた。延び延びになっていた電話にでた妻に、これからでもこちらへ来られるようであれば来てはどうか、と言った。これが運命の分かれ道であった。

 私からの電話を受けて、東京では、ニューヨーク行きの航空券を手に入れるために八方手を尽くしたらしい。しかし急のことで、どこの航空会社の予約も取れなかった。キャンセル待ちの大韓航空の航空券でそれもソウル経由のものが8月3日になってやっと取れ、妻と長男は、その2日後に慌ただしくニューヨークへ飛んできた。私と長女は、その前日にローリーを車で出発して、アメリカ時間の8月5日午後9時過ぎ、ケネディ国際空港で妻と長男との1年ぶりの再会を果たした。

 それから25日間、私たちはまた家族4人になって、かつてオレゴンに住んでいた時にそうしたように、車で東部諸州やノース・カロライナ州の周辺を旅してまわった。そして8月30日の朝、思い出深いアメリカ2度目の滞在を終えて、妻と長男は帰国の途についた。ノース・カロライナ州のローリー・ダーラム空港からフィラデルフィア経由でケネディ空港へ飛び、そこで大韓航空機に乗った。しかし、その大韓航空007便は、遂に妻と長男を無事に日本へ帰してはくれなかったのである。私たち家族4人の二度目のアメリカ生活は、悲歎と慟哭のなかで幕を閉じた。

 事件の報道で一睡もできずに一夜を明かした私とノース・カロライナ州立大学に編入学していた長女は、事件の翌日に帰国して、国内各地から集まっていた犠牲者の遺族たちと東京のホテルにしばらく泊まりながら、稚内での海上慰霊祭や東京での合同慰霊祭などに参加した。その後、一度、長女と二人でアメリカへ引き返して、ノース・カロライナ州立大学での教職と授業に没入することで何とか気持ちを支えようと試みたが、ショックが大きすぎて、出来なかった。寝たきりのような状態になって、ついにアメリカ滞在を諦め、大学をやめて帰国した。

 事件のあと何年かの間、私は「溺れる者は藁をも掴む」心境で仏典や聖書を学び、霊界の本を読み、霊界からのメッセージを求めて次々と数十人の霊能者と接触したりもした。そして、少しずつ霊的真理に触れていった。事件の真相究明活動にも多くの時間を割かなければならなかったので、苦しい日々が続いた。6年が過ぎて、初めてシルバー・バーチの『霊訓』を手に入れ、その重大性に気付くようになった。1991年の4月からは、ロンドン大学客員教授としてロンドンに住むようになって、私は大英心霊協会へも何度も足を運んで、多くのミーディアム達から真実度の極めて高い霊言を次から次へと聞いた。アン・ターナーにも会うべくして会った。彼女を通じて、妻と長男との数多くの「対話」を体験し、彼らの生存を確信するようになった。すでに事件後9年も経っていたが、私は、やっと霊的真理に目覚めた。長い間の無明の闇から脱け出して、私は生き返った。

 翌年の春に日本へ帰ってからも、私は毎年のように春休みや夏休みに渡英し、アン・ターナーや大英心霊協会のミーディアム達を通じて、霊界の妻と長男との対話を数多く続けた。東京でも、日本有数の優れた霊能力者であるA師に会って、いろいろと霊界についての学びを深め、霊界での妻と長男の消息や、私の過去生などについても教えられた。A師は、特に、過去世に対する透視力が強く、私の直近の前世はイギリスで、その時の私のイギリス人としての名前も明らかにした後、こう言われたことがある。

 《当時のあなたは、多少名が通っており、研究者として、あるいは学者として活躍していましたので、ロンドンの図書館や資料室へ行って調べれば、名前が残っている可能性があります。1675年から80年にかけて生まれており、おそらく1678年生まれくらいでしょう。1754年くらいまで生きていた人です。言語学者であり、いまでいう文化人類学に近いことも研究していました。専門は言語学です。現在の職業は、このすぐ最近のイギリスでの職業の続きです。》 (1994. 01. 17)

  このような「証言」は、藤沢周平原作の映画『蝉しぐれ』のディレクターであったTさんからも、何度か聞いている。Tさんも優れた霊能者で、私とロンドンの前世で会っているほか、エルサレムで、イエスの処刑に関与した総督ポンテオ・ピラトのもとにローマの法務官を務めていた前世の私とも会っているという。ロンドンの前世では、私は英国学士院や王立アカデミーの会員であったことも、一再ならず告げられていたが、その頃の私には、霊的真理に接する機会が再三あったにもかかわらず、社会的地位や名誉を傷つけられることを恐れて、科学的ではない霊的なものには目を背けていたらしい。その霊的無知を、私はいつか、克服しなければならない宿命を負っていたといえる。

 A師からも、「・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このこと(大韓航空機事件で妻と長男が亡くなること)が必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました」(2004.06.05)と教えられたことがある。

 「世の中が偶然によって動かされることはありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません」と、シルバー・バーチは言っている。(『霊訓(3)』p.161) これは、私の小冊子「生と死の真実を求めて」などにも書いてきたことだが、事件によって私が悲嘆のどん底に突き落とされたとしても、それは私にとって必要なことが必然的にもたらされたということになるのであろう。いまになって事件に至るまでの過程を逆に振り返ってみると、思い当たるようなことがいくつも出てくる。

 まず、私は、フルブライトを受験して合格しなければならなかった。その決定がその年に限って異常に遅れたにも拘わらず、私はフルブライトを諦めるのではなく、受け容れてアメリカへ向かわねばならなかった。アメリカではアリゾナに1年居て帰国するのではなく、家族を呼び寄せるためにも、滞在延長をしなければならなかった。それもアメリカ海軍語学学校のモントレーで教えることによってではなくて、ノース・カロライナ州立大学での教職でなければならなかった。そうでなければ、それらの選択肢のうちの一つにでも私が別の選び方をしていれば、私は事件に巻き込まれることはなくなっていたはずなのである。思い当たることはこの他にもまだ沢山ある。今にして思えば、私は抗うこともできずに、ただ与えられた道を歩んできたとしか考えられない。シルバー・バーチは次のようにも言っている。 

 「一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っただ中で時としてあなた方は、いったいなぜこうなるのか、といった疑問を抱くことがあることでしょう。無理もないことです。しかし、すべてはちゃんとした計画があってのことです。天体の一分一厘の狂いのない運行をみれば分かるように、宇宙には偶然の巡り合わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来ごとといったものは決して起きません。」 (『霊訓(1)』pp.70ー71)

 このシルバー・バーチのことばは、私には、実に痛烈に、激しく胸に響く。これは、まさに、私のために言ってくれているような言葉である。確かに私は、「何ものかによって一つの道に導かれて」きた。その結果、私はあの年にアメリカであのような大事件に遇った。それは私の宿命であった。霊界の長男からも、かつて、この事件に巻き込まれた理由については、「お父さんなら、頭も聡明で、苦しませるのは高い霊たちにとっても辛いことで、決断を要したということです。でも必ず目覚めて立ち直る人だということがわかり、一人の苦しみが何百、何千人、いや何万人の人たちの魂を目覚めさせ、同様の苦しみや悲しみのなかで沈んでいる同胞に慰みと魂の癒しをもたらすことを、その聡明さによって、やってくれるということが期待されたからです」(1999.06.05) と私に伝えてきたことがあった。

 いまの私は、やっと霊的真理に目覚めて、こういう霊界からのことばがよく理解できるようになっている。有難いことだと思う。私は、事件後の何年も、長い間、妻と長男を失って悲嘆と絶望の底に沈んでいたが、それは私が霊的に無知であったからにほかならない。前世から引きずってきたこの無知と無学を、私は今生で初めて解消することが出来た。だから、これからは、もうこのような事件に巻きこまれて悲嘆に暮れることを繰り返すことはないであろう。結局、私は、神に見放されていたわけではなかった。妻も長男も、あの事件以来、霊界では神の恩恵のなかで何の不自由もなく幸せに生きていることを私はよく知っているし、私自身も、これまで、紆余曲折を経てきたが、今では、大宇宙の大いなる力によって導かれ、守られ、生かされていることをこころから感謝する気持ちになっている。




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    天為であった家族別離の試練 (補遺)        (2024.02.24)


 前稿では、私が前世から引きずってきた霊的無知を今世ではそれを克服する宿命を負っていたことについて述べた。私はその霊的無知の克服のために、1983年9月1日の大韓航空機事件に至るまでの道筋を、これまで、一筋に導かれてきたようである。霊性向上を目指しての数多くの輪廻転生のなかで、もちろん、それだけが私の今世に生をうけた目的であったとは思えないが、少なくともこの事件が、霊性向上のために今世の私に与えられた最大の試練であったといえるであろう。シルバー・バーチは、私たちの歩む道については、私たちにはわからなくとも「神の計画」が出来上がっているという。これまでの私の人生では、おそらく、この試練が天為によるひとつの大きな帰結点であった。

 この試練について考える時に、私には胸に去来する忘れがたい生死の事象がある。私はそれまでに、2度死に瀕することがあっても、奇跡的に助けられて死ななかったということである。もしその2度のうちのいずれかで私が死んでいれば、この世で霊性に目覚めるという宿命には副えないことになっていた。だから、2度とも生き延びたことは決して偶然ではなく、その後53歳になってこの事件に遭遇することになる私にとっては必然であったのかもしれない。

 それまでに死に直面した2度のうち、最初は5歳の時であった。川に落ちて溺死寸前のところで救われた。まだ泳ぎを知らない5歳の私が、水中で泣きわめきながら、もがき苦しんでいたその時の情景をいまも私は鮮明に思い出すことが出来る。

 その頃、私の父は、大阪市大正区の尻無川の河口にちかい中堅鉄鋼会社で圧延工場の主任を務めていて、自宅も、尻無川から近かった。5歳になってからの夏、私は近くに住む7歳の数男君に連れられて川へ出かけたことがあった。お盆が過ぎた頃だから、8月の下旬であったかもしれない。お盆の時には、木の舟に果物や菓子をのせて川へ流すみ霊送りの習俗がある。この木の舟は、30センチくらいの小さなものから1メートルにもなるような大きなものまで様々で、それらが尻無川から一旦海まで流されたあと、波にもまれ風に吹かれて、たまに、空舟になって川岸へ帰ってくることがある。そのような舟を見つけて持ち帰ろうというのである。うまくいけば大変な「宝物の収穫」になるはずであった。

 川岸の一部には、多くの原木が筏に組まれて繋ぎ止めてある。その筏の上に乗って一番端まで来たところで数男君と私は、根気よく空っぽになった舟が流れ着くのを待っていた。その日は、晴天で暑かった。それでも1時間ほどは待ち続けたであろうか。やっと、遠くからかなり大きな木の舟が近づいてきた。すぐ目の前に来てからは、数男君と私は、棒切れで水を叩きながら、なんとかその舟を引き寄せようと必死になった。私は小さな手を力いっぱいに伸ばした。それでも届かないので、もっと手を伸ばそうと身を乗り出し、そして、水に落ちた。

 私は水の中で泣き叫びながら沈んでいった。口からも鼻からも水が入ってきて苦しい。息ができずにばたばた手足を動かしているうちに、一度、上へ上がってきた。しかし、振り回している私の手は何にも触れることなく、また小さい体はぶくぶくと沈んでいった。筏の上で、私が落ちたのを見た7歳の数男君も、ことの重大さはわかっていたであろう。手で水をかきまわしながら、懸命に私を掴まえようとしていた。

 その数男君の手に、もがきながら2度目に上がってきた私の手がちょっと触れた。しかし、二つの手は結ばれることなく、するりと抜けて、私はまた、ぶくぶくと水の中を沈んでいった。青白い水のなかで私はばたばた手足を動かしながら泣き叫んでいる。かなりの水を飲んで、苦しい。もうあれが限度であったろう。死が迫っていた。そして3度目、ぶくぶくとまた上へ上がっていった時に、私の手ははじめて数男君の小さな手をしっかりと捉えたのである。その時の数男君の手は、私にとっては、神の手であった。

 死に直面した2度目は、15歳の時である。その頃の父は、植民地時代の朝鮮の仁川で、1万坪の鉄鋼圧延工場の工場長を務めていた。私は、仁川公立中学校の一年生であった。1944年(昭和19年)の秋、太平洋戦争の戦局が日増しに緊迫の度合いを深めていく中で、私は10人ほどの級友たちといっしょに、当時の京城(現在のソウル)へ出かけて、陸軍幼年学校の入学試験を受けていた。卒業までにはどこか軍の学校へ受験するようにという学校の指導もあって、上級生は陸軍士官学校や海軍兵学校などを受験していたが、当時の中学1,2年生にとってのエリートコースが、陸軍幼年学校であった。

 翌年の二月、合格内定の通知が届いて、私の名前が他の3名の内定者の名前と共に、仁川中学校の講堂入口の掲示板に大きく貼りだされた。憧れの「陸幼」に入れそうになって、私はうれしかった。しかし、思いがけなく、その直後に私は生まれてはじめて病気になったのである。朝起きた時に急に40度を超える熱を出し、急速に、急性肺炎から肋膜炎に進んでしまった。

 病院に運ばれるまでには、家の近くの医者の往診を受けて、三日くらいは家で寝ていた。高熱にうなされながら、家が台風で流されたり、空襲で家が燃えたり、陸軍幼年学校からの出頭命令を受けて出頭できずに苦しむなどの幻覚に襲われ続けた。その時に不思議な体験をする。私の寝ている足下の右上の方にみ仏の慈愛そのものの柔和な姿があり、燦然と、目もくらむばかりにまばゆい金色の光が射し込んでくるのである。

 み仏の姿はいつまでも消えなかった。嵐、濁流、家が流れる、空襲、破壊・・・・・もろもろの幻覚に襲われながら、それでもいつでも右上には、柔和に私を見下ろしているみ仏の姿が燦然と光を放っていた。私は何度も何度も見直した。何度見直してもそれは虚像ではなかった。高熱にうなされながらも、私は意識を失ってはいなかったから、欠勤したことのない鉄鋼会社も休んで片時も私のそばを離れようとはしなかった父に、私は、「お父さん、もし、僕のこの病気が治ったら、あそこのところ、あの壁の上の方へ神棚を祭ってよ」と、言ったことを覚えている。私は確かにそう言った。

 み仏なのになぜ神棚と言ったのかわからない。神棚は奥の部屋にあったがそれを忘れていたわけでもなかった。いま思うと、神の姿を知らず、見慣れた仏像からの連想でみ仏と思ったのかもしれないが、それでも私は、何度見直しても、み仏の姿がその場所にはっきり見えたので、その場所を指差しながら、傍らにいた父にそう言ったのである。父は慌てて、私の額に手を当てた。高熱で頭を侵されたのかと、心配したのであろうか。私は、「ああ、こういうことを言えば心配をかけるだけだ、言ってはだめだ」と、その時思った。そして言うのをやめた。み仏の姿は、それからも相変わらず、じっと私を見下ろしながら、燦然と輝き続けた。

 入院したのはかなり大きな仁川市立病院であったが、入院したからといって、いい薬があるわけではなかった。ペニシリンなどもまだなかった。戦争末期で輸入の薬剤も途絶え、軍関係の病院でも、ぶどう糖の注射液さえ手持ちはなかったそうである。私は病院へ運ばれてからは、高熱を出し続けたまま意識を失っていた。だから、自動車が手配できず、担架でゆらゆらゆられて病院へ運ばれて行ったかすかな記憶はあるが、その後はまったくの空白である。その空白を埋めるのは、父と母の話だけしかない。

 温顔で人望の厚かった病院長は、このままでは、恢復の希望は持てないと言ったそうである。「アジプロン」とか「トリアノン」という熱冷ましの注射薬があったが、ドイツからの輸入品で、戦争以来、輸入は止まり、ストックも底をついて久しい。だから打つ手がない、というようなことであったらしい。父と母は、この幻の「アジプロン」と「トリアノン」を諦めなかった。なんとか手に入れる方法はないのかと、必死に院長にすがりついた。

 院長も困り果てたすえ、可能性はないと思うが、と前置きして次のように言った。「どこかの薬局で、販売用としてではなく・・・・・それはとうの昔になくなっているはずだから・・・・・万一の場合に備えて自分の家族のために、一箱でも注射薬を残しているところがあればいいのですが・・・・・・」 そのことばを聞いた瞬間から、母を私のそばに残して父の薬局まわりがはじまった。

 その当時の仁川市は人口30万くらいであったろうか。薬局も市内全域で十数店はあったかもしれない。広い市内を、端から端まで、父は一軒一軒歩いてまわった。しかし、答はもちろん決まっていた。どこへ行っても、「いまどき、そんな薬はありませんよ」で、とりつくしまもなかった。

 そのまま病院へ帰るわけにもいかない。帰っても、ただ私の死を待つだけである。父はまれにみる強靭な意志力と、人並みはずれた忍耐力の持ち主であった。その父が、二日、三日と街中を歩きまわり、疲労困憊して倒れそうになりながら、かつて私が通っていた旭国民学校の正門あたりにさしかかった時、まったくの偶然で、20年ぶりの大阪の友人に呼び止められた。父は、名前を呼ばれても気がつかず、そのままふらふら歩き続けようとしていたらしい。

 父はその旧友に私のことを話した。その旧友も同情してはくれたが、どうすることもできない。「ただ・・・・・」と、その人は言った。「私の知り合いの中にも、薬局を営んでいた人がいたのですが、いまはもうやめてしまって、郊外に引っ越してしまっています。お力になれなくてすみません」

 しかし父は、そのことばにも縋りつこうとした。数キロ離れたその郊外の住所を聞いて、尋ね尋ね歩いて行った。やっとその家を探し当てた時は、もう夜もかなり更けていたらしい。綿々と事情を訴えるのを聞いたその家のご主人は、それでも、気の毒そうな顔で、「そういう薬はもうありませんねえ」と答えた。それで最後の望みは絶たれた。どうすることもできないまま、よろよろと父はその家を離れた。

 二月下句の深夜である。その頃はまだ仁川は厳寒であった。父はその冷たい夜空のもと、凍てついた田舎道をどんな思いで足を運んでいたのであろうか。茫然として涙を流しながら、数分歩いていたのだという。その時、突然、父の頭にひらめくものがあった。仁川中の薬局という薬局をすべてまわりつくして、どこでも聞かされたのは、そういう薬はもうない、というきっぱりとした否定である。その時の雰囲気がどうであれ、言い方がどうであれ、その答え自体には真実であることを疑わせる響きは少しもなかった。しかし、先程のご主人のことばの中には、かすかにではあるが、ためらいがある。迷いのようなものがあったのではないか。もしかしたら・・・・・。

 父は、取って返した。深夜のドアを叩いて、何事かと顔を出したご主人の前に、父は黙って分厚い札束を置いた。そして父はひざまずいた。ひとこと、「助けてください」とだけ言った。しばらくは沈黙が続いたそうである。やがて、ご主人は静かに口を開いた。「わかりました。実はトリアノンが一箱だけあります。これは私が家族のために残してあるものですが、それを差し上げましょう」

 私のいのちはこれで救われた。「トリアノン」を打ったあと、高熱ははじめて急速に下がりはじめ、私は回復へ向かった。命の瀬戸際に立ったのは、5歳の時に大阪の尻無川で溺れかかって以来、これが2度目であったが、私は、ここでも死ななかった。生きるべくして生きた。昔は、あの最後の瞬間に父の脳裏にひらめかせたものは何であったのか、とよく考えたりもしたが、いまでは、この点でも疑問に思うことはない。

 陸軍幼年学校は、結局、不合格になった。私は、3月、4月と休んで体力を快復させ、5月頃から、二年生として、また学校へ通い始めた。しかし、もうその頃には、学校で勉強することはほとんどなくなっていた。二年生も勤労動員に駆り出されて、町外れの丘の上にある高射砲陣地へ毎日出かけては、塹壕掘りなどをやらされていた。一年生だけは登校して授業を受けていたが、それでも、放課後は、居住地の交番に連絡要員として配置されていた。戦況の緊迫化とともに、治安や社会秩序の維持も緊急になっていたのである。

 以上、いまも鮮やかに私の記憶に残っている死に直面した2度の体験を書いてきたが、いまでは、こうして死なずに生き延びてきたことも、「天為であった家族別離の試練」のための伏線であったような気がしている。何度も思うのだが、もし私がこのどちらかで死んでいれば、前世から引きずってきた霊的無知の克服に向かうような家族別離の試練に遇うこともなかった。「世の中が偶然によって動かされることはありません。原因と結果の法則が途切れることなく繰り返されている整然とした宇宙には、偶然の入る余地はありません」(『霊訓(3)』p.161)と、シルバー・バーチは言っている。私がこうして2度の死のリスクを奇跡的に切り抜けてきたのも、決して偶然ではなく、私を霊性に目覚めさせるための天の計らいによる必然であったということになるのであろう。

 事件で妻と長男を失ってからは、悲歎に暮れながら、随分長い間、無明の闇の中をさまよっていたが、その私も、やがて、ロンドンの大英心霊協会のアン・ターナーをはじめとするミィーディアムたちの導きのお陰で、妻と長男の「生存」を確信できたことは、いくら感謝しても感謝しきれない大きな恵みであった。

 これは、「寸感・雑記」No.23『人間の煩悩と霊性の開発』に書いているが、内村鑑三は、愛するものを失って以来、絶望して、一時は神への祈りさえ中断していた。しかし、その後の苦悩の思索を経て、やがて、「然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり」の心境に達するようになった。私の場合もこれに近い。妻と長男の死に直面して、私は自分の人生を含めてすべてを失ったと思い込んでいたが、いまでは、失ったものは何ひとつないことに気がついている。内村はさらに、この「然り余は万を得て一つを失わず」ということばに続けて、こう言っている。

 《余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何時かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉しく逝かんのみ。》 (内村鑑三『基督信徒のなぐさめ』(岩波文庫、1983、p.28)

 私の場合もまた、この内村のことばのように、かつては、無と闇の世界でしかなかった死後の世界が、明るく輝く光の世界に変貌を遂げた。そしてまた私も、そう遠くない将来、霊界へ移る日を迎えることになれば、「無知の異郷に赴く」のではないから、穏やかに安らかな気持ちで、希望の旅立ちをすることが出来ると思っている。

 霊界の家族たちは、もうかなり前から、私の歓迎会のことなどを考えてくれているようである。その再会の時には、まず何よりも、私が長い間無明の闇の中で嘆き悲しんでいたことで妻と長男にも辛い思いをさせたであろうことを詫びなければならない。生前は、掌中の珠のようにして大切に私を育ててくれた父と母には、改めてこころからの感謝の気持ちも伝えたいと思う。もしかしたら、父からは、この世で霊性に目覚めることが出来た私に、「お前はよくやった」と褒めてもらえるかもしれない。霊界のアン・ターナーも「あなたが来るのを楽しみにしている」と言ってくれている。今では、友人、知人の多くは、霊界へ移っているが、彼らの何人かとも再会の喜びをわかちあうことになるであろう。そして私には、もうひとつ、密かに期待していることがある。15歳の時に肺炎、肋膜炎を発症して高熱に苦しんでいた私を、燦然たる慈愛の光を発しながらじっと見守り続けて下さった、あの「み仏」の姿を再び仰ぎ見ることである。

 「静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです・・・・・」というシルバー・バーチの教えは、「まさに、私のために言ってくれているような言葉である」と私は前稿に書いた。私がいままで辿ってきた93年間の波乱に満ちた紆余曲折の道は、よく考えてみれば本当にそのとおりで、このことばは深く私の胸に刻み込まれている。そしていまは、この「一つの道」の延長線上のどこかに、あの燦然と光り輝くみ仏の姿(それは実は、神であったであろう)を仰ぎ見る「邂逅」が位置付けられていることを、密かにではあるが消えることのない期待として、私はこころに持ち続けている。




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   私たちは親と生活環境を選んで生まれてくる (2024.03.25)



       は じ め に

 「朝日新聞」の朝刊一面に「折々のことば」というコラムがある。哲学者の鷲田清一氏が2015年春から8年10か月も毎日書き続けているようだが、先日のコラム(2024.03.12)では、井上道義氏の「生まれる場所は選べないけど、終わる場所を選ぶ自由はあるんだよ、人間には」を引用して、こう述べている。

 《人はいつ、どこで、どの家族の許に生まれるかを、選ぶことはできない。が、負わされたその制約を引き受け、ときに強く抗いもしつつ、それぞれに「私」を象ってゆく。最後、死の時も自分では選べないが、仕事の終わりは自分で決められると、本年末で引退する指揮者は言う。選べないことを選びなおすところに人生はある?》

 この前半で述べられている「人はいつ、どこで、どの家族の許に生まれるかを、選ぶことはできない」は、多くの人々がいろいろなところで繰り返してきたことばで、特に珍しいわけではない。これが、「世間の常識」といってよいであろう。しかし、実は、この「常識」は霊的視点からみれば、真実ではない。そして、それが真実でないとすれば、その意味するところは重大である。本稿では、改めて、この問題を掘り下げて考えてみることにしたい。



       (1) 大学医学部精神科の臨床記録

 私たちが学んできたスピリチュアリズムでは、この「世間の常識」とは真逆のことを教えている。私たちは通常、誕生の際の記憶はないが、実は、「いつ、どこで、どの家族の許に生まれるか」を選んだうえでこの世に生を享けるのである。それを、シルバー・バーチはこう言っている。

 《地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。》 (『霊訓(1)』p.38)

 ここで、シルバー・バーチは、自ら選んで生まれてきた事実が、誕生の際には、「その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、意識に上がって来ないだけ」だと言っている。しかし、その通常は意識に上がって来ないだけの誕生前の自覚を、催眠状態などによって引き出している大学医学部精神科のセラビストたちによる臨床記録が数多く残されている。マイアミ大学医学部教授をしていたブライアン・ワイス博士も、そのセラピストの一人であった。博士は、それを自著のなかで、こう述べている。

 《偶然でもなく偶然の一致でもなく、私達は私達の家族の一員として生まれます。私達は母親が妊娠する前に、自分の環境を選び、人生の計画を立てているのです。計画を立てる時には、愛に満ちた霊的存在に助けられます。そして彼らは私達が肉体に宿り、人生計画がひもとかれてゆく間、ずっと私達を導き守ってくれます。運命とは、私達がすでに選択した人生のドラマのもう一つの名前なのです。
 私達は生まれる前の計画段階で、これからの人生に起こる主要な出来事や、運命の転換点を実際に見ています。そしてその証拠は、沢山存在しています。私を含めてセラピスト達が集めた、催眠状態ないし瞑想中に、または自然に、生まれる前の記憶を思い出した沢山の患者の臨床記録がそれです。私達が出会う重要な人々、ソウルメイトや魂の友人との再会、こうした出来事が起こる場所に至るまで、すべて計画されているのです。デジャヴユ、すなわち、初めての場所や出来事なのに、ここにいたことがある、この一瞬は知っているという感覚は、生まれる前に人生の下見をした時の記憶であると、説明することもできます。あらかじめなされた計画が、実際の肉体を持った人生で実現に至ったということなのです。
 これはすべての人々にあてはまります。しばしば、養子や養女になった人々は、自分の人生計画は歪められてしまったのではないか、と考えます。しかし、答えは「ノー」です。養父母もまた、産みの親と同じように生まれて来る前に選ばれているのです。すべてのことには理由があり、運命の道には何一つ、偶然はありません。》 (ブライアン・L・ワイス『魂の療法』、山川紘矢・亜希子訳、 PHP研究所、2001年、pp.70-71)



      (2) 霊能者の証言

 つぎに、この「人は自分の両親と環境を選んで生まれてくる」という霊界からの情報を、チャネラーとして「証言」しているジュディー・ラドンのことばを挙げておきたい。彼女は、このように言う。

 《人は自分の人生の境遇を選択する。もしこちらの領域に来てみたなら、みなさんの世界に生まれ出る機会を切に待ち望む、数知れない仲間たちを目のあたりにすることだろう。彼らは地上の喜びと豊かな環境を懐かしがり、切望している。また多くの人にとって魂の領域自体も学ぶべきことは多いのだが、「地球学校」という意義深い領域にとってかわることはできない。
 この話を聞いて衝撃を受ける人も少なからずいるにちがいない。みなさんは、
 「本当にそうなのだろうか」
 と訝しむかもしれない。これが、多くの社会の文化的枠組みの中で受け入れられている生についての考え方に反するものだからである。「赤ん坊はたまたま生まれてきただけで、みずから選択して生まれてきたわけではなかろう」
  だが、これはまったくの間違いなのだ。
  赤ん坊はすっかり成熟した、完全に進化した魂であり、魂の領域では成人の姿をして見える。もし彼らの魂がこの世でさらに勉強するように駆り立てれば、彼らは自分たちが入っていくのにふさわしい環境を検討し、探す。彼らは母親を探し――彼らは、すでに「妊娠している」女性を注意深く観察することがよくある――そして一種の宇宙の順番待ちのリストに登録する。家柄を慎重に調べ、適切な縁組を探すのはわたしたちの領域にいる多くの者たちの仕事だ。そんなわけで赤ん坊はみなさんの世界への新参者ではなく、おそらくその両親と同程度の年月を経ているのである。両親が子供から非常に多くのことを学ぶのも不思議はない。》 (ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.18-19)

 このように、彼女も、私たちが自分の人生を選択して生まれてくることはありえないとする世間の常識を「まったくの間違い」と断言する。これは、私たちに突きつけられている「この世を如何に生きるべきか」の重要な命題の根幹にも関わってくる問題なので、さらに続く、「人が特定の環境を選んで生まれてくるのには理由がある」というつぎのような彼女の「証言」にも耳を傾けておきたい。

 《赤ん坊が特定の環境に入っていくのには、特別な理由がある。人には、自分の性格の中に、いわば「肉付け」したいと望んでいる部分があるものだ。たとえばある人が過去生で他人に対して寛容さが足りないという問題をかかえていたとしよう。謙遜さを学ぶために、その人は貧困を体験する家族の中に生まれていくことを選択するかもしれない。前世で国籍や人種、性別によって他人を差別した人がいるとする。その場合、その人物は自分が他人に対して犯した罪である不公平さを別の側面から体験するために、少数民族の中に生まれることを選ぶかもしれない。もしあなたがある人を深く愛し、前世で愛を打ち明けることができなかったとしよう。するとあなたがたは共に相思相愛になれる環境に生まれてくることを選択するかもしれない。ある魂が、前世において暴力をふるったり残酷な行いをしたとすれば、過去の行動で掛かり合ったことがらすべてを悟るような環境または体験を選択する場合もあるだろう。一介の農夫としての人生を何度も送ってきたら、こんどはコンピューターの達人としての人生を試してみたくなるだろう。ある人生で魔女を火あぶりにしていれば、別の人生では濡れ衣を着せられた女性となるかもしれないのだ。》 (ジュディー・ラドン、前掲書、pp.19-20)



      (3) 心霊研究者の報告

 生まれる場所を選択できないという世間の人々の思い込みでは、例えば、自分の出自についていわれのない劣等感を持ち、「愛情深い両親の許に生まれて、何の不自由もない裕福な家庭に育っていれば」と自分の不幸を嘆くようなことも起こってくるであろう。しかし、これは心得違いである。誰でも、過去の数多くの輪廻転生の間には、王侯貴族からその日暮らしの貧民に至るまで、様々な親、家庭、環境を体験してきたうえで、さらなる霊性向上を目指して、今世では現在の家庭を選んで生まれてきているのである。それを今生の環境だけがすべてだと思い込んで、他人を羨むことは全くないし、自分を卑下しなければならないこともない。障害や病気をもって生まれてくる場合でさえも、それを自分で選んで生まれてくることを理解すれば、その障害や病気についての考え方も大きく変わってくるはずである。
 これについては、心霊研究者たちのつぎのような報告もある。

 《もし、自分の意思で身体やおかあさんを選べるなら、健康な身体で、恵まれた環境に生まれてきたいと思うのが世の常です。誰もが美人でスタイルが良く、お金持ちの家に生まれたいと思っても不思議ではありません。
 でも、紛争や飢餓、貧困に苦しんでいる人のところにも赤ちゃんは生まれてきます。先天性障がいや病気を持って生まれてくる赤ちゃんもいます。
 どうしてでしょう?
 子どもたちは、あえて過酷な人生を選び、勇気を持ってチャレンジしてくるのです。
  ある子どもは、「おかあさんを助けてあげたいから」と言い、ある子どもは、「このおかあさんと一緒に人生を歩むことで、おかあさんにしあわせを届けることができるから」と決意を持って、この世にやってきます。
 こうした子どもたちに選ばれたおかあさんたちの人生は、決して平たんではありません。「産まない方が良かったのではないか」と悩み苦しみ、環境を恨むこともあるでしょう。障がいや病気を持って歩む人生の過酷さを嘆く人も少なくはないでしょう。
 でも、「この子のおかげで出会えた仲間がいる」「この子が生まれてきてくれたから、人間として成長できた」と語ってくれるおかあさん、おとうさんも少なくありません。
 日本には、障がいを持って生まれた赤ちゃんを「観音様の生まれ変わり」と考える習慣がありました。観音様は、救いの求めに応じて姿を現すとされる慈悲深い菩薩です。
 障がいのある人は、さまざまな状況下で周りの人の助けを必要とすることがあるので、身近に障がい者がいると、人は自然に利他行に励む機会を得ることができます。
 仏教の修行の中でも、最も重要だとされる利他行を、私たちが自然におこなえるようにと、観音様がお姿を変えてこの世にやってきたと考えた日本人は、とても深い知恵を持っていたということです。
  自分自身のことは後回しにして、他者に尽くすことは簡単ではありません。功徳を積んで魂を磨き上げることも、そうできることではありません。観音様は、そんな私たちのことをよくご存じで、障がいのある姿となって私たちの前に現れ、私たちを地域共同体の中で自然に利他行に励むことができるようにと導いてくれているのです。
 「自分で身体を選んで生まれてきた」と語る赤ちゃんは、人々に功徳を積ませる役割を担っているということです。》   (池川明・大門正幸『人は生まれ変われる』、ポプラ社、2015、pp.84-86)



      (4) 誕生の真実を探し求める視点

  以上で取り上げてきたように、「人は親や生活環境を選んで生まれてくる」ことについては、数多くの「証言」があるが、それでも、この人間の誕生についての真実を私たちが正しく理解するのは決して容易ではない。冒頭の鷲田清一氏の「人はいつ、どこで、どの家族の許に生まれるかを、選ぶことはできない」というような世間の常識のほうがいかにももっともらしく、俗耳に入りやすいから、実は、真実はその逆であると聞かされても「馬耳東風」で荒唐無稽な絵空事と聞き流されてしまいかねない。このことを考えるためにも、私たちはやはり、「私とは誰か」を知ることが何よりも大切であろう。シルバー・バーチは、これについて、こう述べている。

 《鏡に映るあなたは本当のあなたではありません。真のあなたの外形を見ているにすぎません。身体は人間がまとう衣服であり、物質の世界で自分を表現するための道具にすぎません。その身体はあなたではありません。あなたは永遠の霊的存在であり、全大宇宙を支えている生命力、全天体を創造し、潮の干満を支配し、四季の永遠のめぐりを規制し、全生命の生長と進化を統制し、太陽を輝かせ星をきらめかせている大霊の一部なのです。その大霊と同じ神性をあなたも宿しているという意味において、あなたも神なのです。本質において同じなのです。程度において異なるのみで、基本的には同じなのです。それはあらゆる物的概念を超越した存在です。すべての物的限界を超えております。あなた方の想像されるいかなるものよりも偉大なる存在です。》 (『霊訓(5)』pp.35-36)

 つまり、私たちの本質は、霊であって肉体ではない。もともと私たちは霊魂を伴った肉体なのではなくて、肉体を伴った霊的存在なのである。何よりも先ず、この真実が理解できなければ、私たちは自分の誕生の真実に迫ることはできない。そして、ここで、重要なことは、人間の誕生についての間違った常識では、当然のことながら、私たちはこの世での生き方に正しい方向性を示すことができないということである。



      (5) 生まれ変わりから導かれる誕生の真実

 この、私たちが「親と環境を選んで生まれくる」ことの真実性については、私自身の過去世や生まれ変わりのなかからも、導き出すことができる。私は長い間、数多くの優れた霊能力者たちを通じて霊界の妻や子との通信を続けているうちに、私や家族の過去生などについても、いろいろと教えられてきた。そのうちの一部は、私の著書『天国からの手紙』(学研パブリッシング、2011の付表「現家族の過去世における関係性」(同書、pp.326-331)にまとめられている。
 この付表は、この本の編集協力者の宇田依里子さんが作成してくれたもので、彼女は優れた霊能力者でもある。ここには、紀元前のアトランティス時代から現代までの数千年以上の間の私の家族の関係性が示されているが、特に私と長男・潔典(きよのり)との関係は深く、潔典は私の学問上での弟子、学生、親戚、外交官としての同僚、部下などのほか、何度も息子として生まれている。これなども、私の長男が「親や生活環境を選んで生まれていた」という事実がなければ、説明がつかない。この意味でも、長男の生まれ方は、「選んで生まれる」ことの一つの証左であるといえるであろう。この付表の元になっている資料には、例えば、次のように霊界からの情報を伝えられたものもある。

 《潔典さんはアトランティス時代にその大陸に生きていました。精神約なことに造詣が深く、精神的な分野を科学にしようとして、その研究に励んでいました・・・・・・。(中略)

 彼は非常に純粋な人であり、魂の持ち主でした。エジプトに転生した時は、芸術方面に自分の能力を見いだし、自然の造形美を彫刻したり、あるいは絵に描いたりということに自分の天職を見いだしていました。続くギリシアの人生においては、今度は詩人として精神的な心の美しさ、豊かさを美しい詩に創造し、人々のこころを強く打つことが出来ました。それで、彼の遠い過去生の精神的な不安や自信の喪失というものが、それによって多少癒されていったのです。
 そのような時に キリストの弟子たちがギリシアにやって来て伝道するようになり、キリストの愛の教えに触れるようになりました。すでに彼は心の準備ができていたので、キリストの説く無条件の愛、そして愛の力というもの、またその効果というものに触れることができたのです。それによって彼の芸術約な資質に愛が加わるようになり、彼の心は次第に、人々への献身、そして犠牲的な行為も厭わぬ魂へと成長を遂げることが出来たのです。
 そしてこの時代に、現在父親であるあなたの導きと教育があったということに非常に恩義を感じていたために、今回の人生で、芸術や教育、ひろくは文化的な資質を育ててくれたあなたに対し、また最終的には、キリストの愛へと導く間接約なきっかけを設けてくれた現在の父親であるあなたに対し、今度は彼がこの現代において、あなたを神の世界へと、特に、真の神の愛というものをあなた自身に再び知らしめるために、キリストの犠牲的な愛の行為にでることになったわけです・・・・・。》

 これが私の長男・潔典の生まれ変わりに関する霊界からのひとつの情報の導入部分である。私が長年の間教えを受けてきた霊能者のA師が入神状態のなかで宇宙の記録庫(アカシック・レコード)を読み解いているもので、これは「リーディング」といわれている。A師は時々ポーズを入れながら澱みなく語り続けているが、メモなどを読んでいるわけではない。私はその入神状態のA師の前に黙って座り、瞑目して聴き入っている。ここでは、この過去世で、私は潔典に対する教育者の役割を果たしていたと思われるが、それが、今生では、潔典の私に対する「犠牲的な愛の行為」に繋がっていった、ことが示唆されている。このA師のことばは、この後、こう続く。

 《彼はその後日本に転生し、神功皇后から応神天皇の時期にかけて、やはりあなたの息子として、朝鮮より日本に技術を導入し、朝鮮の文化や技術を日本の国にもたらすものたちとなったわけです。その時にやはり、親子であり、彼は日本で生まれ育ちました。日本に来てから生まれたということです。それから、日本の国内の政治的な策略によって関東の地に流されて、現在の武蔵野のあたりに住むことになったわけです。
  続く転生では、和人いわゆる日本人であって、新しい土地に入っていく開拓民として、やはりあなたの家族のひとりとして彼はそこに渡って行ったのです。この時もやはりあなたの息子でした。
 続く転生では、1700年代にイギリスに生きており、ここではあなたの息子ではありませんでしたが、あなたの親戚の中にいました。やはり身内だったわけです。彼はこの時代は語学の達人であり、言語学者としての道を歩むようになったわけです。そして親戚の者の一人として、あなたは彼を教育したわけです。つまりあなたは彼の家庭教師であったわけです。その時の師弟関係が非常に実り多いものであったために、今回再び親子として生まれあわせたわけです。
 彼はカルマによって今回他界したのではありません。むしろ恵みによって、あなたへの愛のしるしを身をもって示したということです。それゆえ霊界に帰ってからも浮かばれぬ存在ではなく、しっかりしており、癒されています。そしてあなたの守護霊となって、あなたをさらに引き続き導こうと、日夜あなたに意識を向けています。》 (1994. 1. 17)

  ここでは、神功皇后から応神天皇の時期にかけてと、その後に続く和人の開拓民として、潔典が私の息子であった、と言われている。そして、その後に続く1700年代におけるイギリスでの転生では、親子ではなかったが、親戚の一人として、私が潔典の家庭教師をしていたという。この時の師弟関係が、今世で、また、親子としての縁を結ぶきっかけになった、というのであるが、これは、潔典が私を親として選んだということであろう。



      (6) 前世を確認するためのさらなる試み

  この2年後には、また、A師から、私と潔典の過去世について聴いたことがあった。アカシック・レコードを読み解くというのでは同じであるが、もちろん、捉え方は同じではない。参考までに、それもここに併記しておきたい。この時のA師は、おそらく、上に掲げた2年前の内容を覚えてはいなかったであろう。A師は、入神状態の中で、こう述べた。

 《オリエント地域での何度かの人生があなた方二人を結んできています。紀元以降は、オリエント地域からヨーロッパのほうへと舞台が移っていきました。同時に一方で、中国やロシアから日本列島の本土そして北海道などといったように、東アジアのほうにも生まれ変わっていったのです。一番最近の前世は、イギリスです。その前は北海道から東北にかけての地域です。その前は、同じく日本のある地域であり、時代は鎌倉期です。
 もっとさかのぼると、紀元後で、わかるのは関西の紀元4世紀のころの大和時代。紀元以降には、そのほか中国での前世もありました。さて、紀元1世紀のころは、ローマ帝国に生きていたのです。紀元前にまでさかのぼりますと、オリエント地域が主な舞台だったのです。すなはち、古代のエジプトやイスラエル、あるいはペルシアなどといった地域です。もっとさかのぼってしまえば、アトランティスがでてきます。アトランテイスあたりから生まれ変わりが始まっている二人です。
 また、二人といいましたが、実際はもっとファミリィの絆は強く、かつ深く、あなたの奥様も、もちろん地上で元気に頑張っているあなたの娘さんも、同じファミリー・ソウルとして、アトランティスから地球上での生まれ変わりを開始しているのです。そのようななかで、いまは、あなたと今世で息子さんとして出てきた二人の関係をその中で探っていっています。
 アトランティスや古代エジプトでは、文化、特に文化間の比較研究のようなことに貢献していた二人でした。文化の方面の学者あるいは研究者だったのです。彼はあなたの弟子、あるいは生徒の一人でした。愛弟子といってよいでしょう。だいたい、諸世紀のあなたがたの関係を見ますと、父と息子との関係が主軸をなし、そのほか、先生と生徒、あるいは師匠と弟子といった関係がそれに準じています。
 ほかの関係であったことはあまりなさそうです。たとえば親戚のなかにいたとか、友人同士だったとか、そういうことは全然なくはないのですが、少ないのです。やはりほとんど、父と子か、でなければ先生と生徒という関係でした。もちろん、あなたのほうが先生だったわけです。だいたい、文化、異なった文化同士の比較研究ということで、先生と生徒だったのです。研究者として彼は後輩だったのです。
 古代エジプトに生まれ変わってからは、イスラエルをはじめ、アッシリア、ミタンニ王国、あるいは、エチオピア、スーダンとかシリア、そういった国々との文化あるいは言語、言語学的な観点からの文化の考察という方面での研究に従事していた先生と生徒でした。とりわけエジプトとイスラエルとの関係においてです。そのような研究者同士でした。
 紀元1世紀のローマ帝国においては、父親と息子の関係でした。もっと法律的な方面で、この時は、お互いに学びあっていました。親子としてです。あなたはかなり、当時のギリシヤ語やラテン語、あるいはヘブライ語などの、言語研究を深めていました。法律といっても現代のような法律ではなく、むしろ宗教的なモーゼの律法のようなこと、あるいはローマの法律などです。特に言語学の方面から文化的に考察していました。宗教的なことにもかなり深く入っていきました。そして、彼を導いていました。
 わりと最近の北海道から東北にかけての前世では、非常に親しい間柄の二人でした。いつでもあなたを慕っていたのです。ただ、非常に繊細なので、あなたはいつも保護する必要を感じていました。
  さて一番最近の人生はイギリスです。17世紀から18世紀にかけてです。先生と生徒同士であり、かつ、父親と息子でもあったようです。穏やかな青年でした。霊的なものにはとても敏感でした。彼は芸術家を志したいと念願していましたが、あなたは、もっと論理的なことに彼を導こうとしていたのです。》  (1996. 6. 3)



            (7) 何度も検証されてきた家族の生まれ変わりの実相

 このように、幾世紀かの生まれ変わりのなかで、私と長男の潔典は、「父と息子との関係が主軸をなし、そのほか、先生と生徒、あるいは師匠と弟子といった関係がそれに準じて」いる。繰り返しになるが、A師は、これらの情報を膨大な宇宙の記録庫アカシック・レコードから読み解いているのである。だから、記録庫の情報そのものは一つであっても、その読み解き方は、その都度まちまちで同じではない。このアカシック・レコードからの生まれ変わりの情報の読み解き方を較べてみるために、長くなるが、ここではさらに、この4年後にA師から伝えられた内容を書き加えておきたい。ここでは、私の妻や長女との関係にも触れながら、私と潔典との生まれ変わりについて、私はつぎのように聴かされている。

 《まずわかりますことは、同じ使命を分担しあって生まれ変わってきたということです。使命は同じ、役目が異なる、それ故協力しあって相補うかのように、バランスをとりながらともに進めてきています。もちろん違うといっても、共通の使命のなかで担う役目が異なるということですので、助け合い、補い合い、協力しあって、その使命を完成させようとしてきているわけです。
  二人とも大使でした。国と国、民族と民族との間を調停したり、国交が回復するように計らったり、あるいは文化や教育、ときに技術の面で互いの国が成長し、繁栄するために力を尽くしました。古代の日本の大和朝廷の時代には、朝鮮半島と日本との間で国交が始まり、朝鮮半島のほうから技術や文物を帰化人となった人たちがもたらしてきています。そのころの時代、二人は日本と朝鮮半島との間で、互いに有益となるように、またバランスがとれるように、計らいました。しかしそれは、なかなか難しいことでもあったのです。紀元4世紀から5世紀にかけての頃です。神宮皇后からその息子の応神天皇にかけての時代です。

 中国のほうとの国交も始まっていました。あなたは主に中国のほうとの間での国際交流ということで役目がありました。彼の方は、朝鮮半島との関わりで責任がありました。当時の世界といえば、日本にとって中国や朝鮮半島でした。あなたは中国との国交のほうで忙しく、責任も重かったので、ほとんどそちらに忙殺されていました。朝鮮半島との国交はなかなか難しい問題をはらんでいて、彼はとても大変でした。あなたは何となく気にはなっていたけれども、自分のほうでかかずらわされて、なかなか意識を彼のほうに向けることができませんでした。
  あなたは彼を含めて、何人か何十人かの規模の、国際交流に役目のある大使や外交官のような人たちのまとめ役、また育て役の親という立場にありました。彼を含めて何十人かの使節で派遣される者たちの育成者、また指導者だったのです。日本対海外での交流の派遣員らのあなたは元締め的存在でした。彼のことは、直接の息子ではなかったようですが、とても有望であると見なし、とても楽しみにしていました。朝鮮半島との国交が始まったので、とてもそれは日本にとっても重大だと思われ、有能で将来有望視されていた彼をそちらに振り向けることとなりました。
  しかし、気になっていることも残されていました。いまの時点で、リーディングによってすべてがわかるわけではありませんが、わかる限りでは、おそらく、彼の母親は今世の母親であって、同じ母と息子の関係にありました。一方、あなたのほうは、独身であったかあるいは結婚していたかは定かではありません。ただわかることは、あなたの今世の奥様と息子さんとは特にあなたと血縁関係になく、しかし、母と息子という関係でお二人のほうは、やはり、同様の関係があったということです。
 一方、今世における二人の間の娘さんは、あなたと親密です。しかし、どのような関係にあったかまでは掴みとれません。ただ、いまわかりますことは、あなたはとても忙しかったということです。それ故あまり、家族がいても家族との交流はもてませんでした。あなたは仕事優先のところがありました。それは自分で選んでいたことですし、同時に一方、状況や形勢上、そのようにもなってきてしまったということも手伝っていました・・・・・。(中略)

  さて、ほかの前世も見てみましょう。ほかに前世としては、特に潔典さんとの関わりでは、アトランティス時代、そしてもっとずっと後のローマ時代、そしてさらにもっと新しい最近のイギリスを主とする前世、などです。アトランティス時代における二人の関わりは、師弟といった関係にありました。
 アトランティスにおける前世は一度きりではありません。3~4回、アトランティスで生まれ変わっています。そのうちいま述べましたのは、もっともいまとつながりの強いアトランティスの前世で、その時に師弟関係にあったわけです。しかし、別のアトランティスの前世では、いまと同じ親子の関係にありました。その時はいまと同じ家族構成でした。いまは二つのアトランティス前世を併行して述べています。
 まず、師弟関係にあったほうに再度意識を向けますと、あなたは教育者であり教える役目がありました。しかしあなたの当時のカルマとしては、愛をもって忍耐強く育て導くというところまではしませんでした。必要なことを教え伝え、そして卒業させました。その意味でとてもドライな関係でした。
 あなたは生徒や学生たちに対して、自分が身につけている知識を伝達し、それでこと足れりとしているところがありました。それがいいという学生たちもいました。しかし一方で、それでは飽き足らない、それでは十分に満たされないという学生たちもいました。彼はそのような一人でした。それで彼のなかに癒やされぬ思いが残りました。あなたが今世面倒をみてあげる必要があったんだということを知らされるようになりました。
 さてそれでもなお積極的に述べ直すならば、あなたと彼とは、二つの領域、二つの世界、比喩的に二つの国々、という両者間におのおの身を置きながら交信しあい、一つの世界を築き上げるための使命上のパートナーなのです。それ故、今世においてもそのことが早めに起きました。起きてしまったといえるでしょう。しかし、人情的に起きてしまったというのであり、もっと真実と高い愛からすると、それは「計らい」だったというべきです。
 いずれにせよ、二人の位置関係からすると、広い世界を作り出すためにおのおの共通の使命を担って対照的な両サイドを分担しあい、お互いに交信し、どこかで協力しあって一つの世界、たとえばあの世とこの世という二つの国を一つにするということを行っているのです。あなたがたとえ、通信したり交信したりしているという自覚や意識が伴わないにせよです。

 すでにあなたがいまでも、あちらの世界、そして、彼のこと、奥様のことを、常に思い念頭から離れないということ自体が、そちらに意識が向いていてどこかで無意識のうちにも交信が交わされているということを表しているのです。それ故、自分では意識できなくても、それが着実に為されてきているということをさらに確信してください。そうすると本当にだんだん遅ればせながら意識上にそれが上ってきて、自覚できるようになってきます。
 おそらくこれから、そのような意識になっていくのでしょう。そしてそれがかなり明確となり、確信が定まった頃、ちょうどあなたも他界し、そして、あいまみえることになるのでしょう。その時彼は、日本の大和式の装束に身を固めていることでしょう。あなたはそこで、みんなの世話役であり、まとめ役、教育の顧問官だったからです。そしてそれは遠いアトランティスにおける前世と合似通った役目とポジションの継承であります。
 ふたりが十分におのおのの所で成長しきって使命を果たし、その上で再会するということが起きます。今度の再会はあなたが肉体という衣を脱ぎ捨てたときに起きます。二つの領域、二つの世界を一つにするためにおのおの家族で、二人ずつ、分かちもち合う関係性にあります。もともとどこかそのように、お互いに分けもつような関係性をこの世においてももっていた家族です。アトランティスにおける今ひとつの前世、いまと同じ家族構成であったときに、お互い協力し、分担し合って、足りないところを補い合い、世界が一つになるような日を夢見ていました。
  アトランティス時代は大規模な範囲で国際交流がありました。そのようななかで国のカルマのために身を挺して捧げた者たちがいます。そのように大きな単位のカルマ、国とか民族、国家間の目的のために、あなた方家族はありました。そしてそのように大きな単位での目的とカルマのために献身したということがアトランティス時代にあったために、今世その事故が起きました。亡くなられた方がすべてそのようであるという意味ではありません。あなた方にとってのその事故の意味や内容のことであります。一つの世界がもたらされるために大きな範囲での目的のために、というところに結びつけられた家族の魂だからです。

 さて、近代ヨーロッパにおける前世をみてみましょう。あなた方二人は、同士であり、学友の関係にありました。ライバルというよりもっとよき関係で、お互いに切磋琢磨し、将来を夢見ていました。いまよりもっと、法律とか文化とか、あるいは、心理学的な方面にも関心を寄せていました。
 でもあなたはとても堅く、頑固な人でした。興味があってもあまり介入してはならないと、自分の立場を守ることを優先させていました。今世においてそれをバランス化させるようなことが起きて、今世学ぶ機会を与えられました。それでもあなたの周囲には、霊的なことや心霊学的なことに関心を寄せる人たちがいたのです。それをあなた自身、ローマ帝国の前世や、また、古代エジプトにおける別の前世で、そのような者とどこか関わりがあったことに基づきます。
  それ故あなたは、生まれ変わるごとに再三、直接ではないけれども、そのようなことに自分が隣接しているのを体験してきています。とりわけ、ローマ帝国の時代、あなたは信仰もあり、そしてそこでも指導者でした。あなたは責任感の強い人でした。そしてそこでも、潔典さんは有能な弟子の一人でした。弟子以上の存在です。二人でよく、将来のことを夢見ながら語り合いました。
 しかしあなたの愛は、偏ったものでもありました。悪気はなかったのですが、ほかの生徒たちや研究生たちに対してあなたの愛は向けられませんでした。向けなかったつもりはなかったのですが、そのようになっていきました。それ故、今世において、カルマをバランス化させることが起きました。

  あなたは今世において、一つの出来事によって、大半のカルマを清算したのです。あなたの累積されてきたカルマは、たった一つのことでもって、ほとんど清算されました。そしてそのあと、学びが始まりました。
 長い期間かけてカルマを果たす人が多いのですが、あなたの場合、今世、一つに集約させて、一つの具体的な出来事でもって自分の大半のカルマを果たし、またそれを学びのきっかけとし、自分の傾向を矯正するために用いました。そして互いの試練のなか、お互いに干渉しあうことなく引き離されるような形で、おのおのが自分に向かい合い、浄められ、その上で、再びあえる時を待っているところです。
  長い長い魂の時間のなかでは、20年や30年はほんの一瞬なのです。後で振り返ってみて、その時には、お互いに別々でカルマを清算し、試練にとり組んでいたその2,30年間が夢のようであったことを気づかせられることでしょう。おのおの別々にというのはいまであり、試練期間なのです。そしてそれは長いように感じますが、ほんの一瞬なのです。
 いまの形態や関係はあなた方にとって一時的であり、基の関係ではありません。このようにしておのおの別々のところでカルマを果たし、試練に立ち向かい、それを終えたとき、あなたは他界し、ふたたび一つになれるのです。》 (2000. 6. 3)



       お わ り に

 以上、「私たちは親と生活環境を選んで生まれてくる」ことを理解するための一助として、大学医学部のセラピスト、霊能者、心霊研究家などの「証言」を取り上げてきた。そのうえで、私と長男を中心とする家族の生まれ変わりの一部の経緯をも長々と付け加えてきた。
 このような私の家族の生まれ変わりの情報は、このほかにもいろいろと聴いてきたから、私の場合は、生まれる場合の生活環境選択の問題は自明のこととして、自然に受け容れるようになっている。だから、私自身は、冒頭に掲げた鷲田清一氏の「いつ、どの家族の許に生まれるかを、選ぶことはできない」ということばには、同調できない。また、さらに、その後に続く、「死の時も自分では選べないが、仕事の終わりは自分で決められる」にも、霊的真理の視点からみれば、疑問が付き纏うような気がする。
 人間には自由意思があるから、「死の時も自分では選べない」としても、「仕事の終わりは自分で決められる」のは当然のことのように思える。しかし、前稿の「天為であった家族別離の試練」の中でも触れているように、私にはシルバー・バーチの「一人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型があります。静かに振り返ってみれば、何ものかによって一つの道に導かれていることを知るはずです。あなた方には分からなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです」ということばが痛切に胸に刻まれている。
 私は、自分の自由意思で決めた道を真っ直ぐに進んでいて、結局は、それが、家族との別離へと「一つの道に導かれている」ことを知った。私にはわからなくとも、「ちゃんとした神の計画ができていた」のである。私たちは、自由意思を働かせて自分で生きているつもりでも、実は、宇宙の摂理のなかで神の計画のもとに生かされている。「仕事の終わりは自分で決められる」つもりでも、この「宇宙の摂理」と「神の計画」の枠組みからはみ出ることは決してできない。だから厳密には、「決められる」ではなく、「決めさせられている」というべきなのであろう。
 そのようにみてくると、冒頭の鷲田氏の思わせぶりな締め括りのことば、「選べないことを選びなおすところに人生はある?」も、意味のない空虚な響きを伝えるだけのようで、侘しい。




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    霊界へ還る心構え  94歳の誕生日を迎えて ―    (2024.04.20)



    1.シルバー・バーチの教え

 人はこの世に生まれてきても、やがて必ず死ぬ。誰でも例外なく、致死率100パーセントの人生を送っているのである。それでいて、生とは何か、死後どうなるのか、については、何も知らない人が少なくはない。偶然にいまの環境に生まれて、死んだら焼かれて灰になるだけだ、と思っている人も多いようである。なかには、死の恐怖に慄きながら、救いを求めている人もいるかもしれない。
 無明の闇のなかでは、やはり、何よりも大切なことは、生と死の真実を知ることであろう。そのために、古来、様々な宗教があり、経典があって、それぞれに人々を安心立命の境地に導こうとしてきた。そういうなかで、人生に迷い、生きることに疲れ果てている人類に進むべき方向を示唆し、魂を鼓舞するために、この地上のロンドンに戻ってきたのがシルバー・バーチである。1920年代のことであった。
 シルバー・バーチは、3千年前に死んで霊界へ移ったといわれる高位霊であるが、それ以来、半世紀にわたり、世界中の人々に霊的真理についての教えを説いてきた。有難いことに、私たちもいま日本にいて、その貴重な教えを平易な日本語で読むことが出来る。ここでは、まず、死と霊界について、つぎのように語っているシルバー・バーチのことばに耳を傾けてみたい。

  《あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
  肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。
 "死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれば当然暗闇が後退していきます。
  霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが "死んだ" といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。》 (『シルバー・バーチの霊訓(4)』、近藤千雄訳、潮文社、1986, pp.131-133)

  ここでは、シルバー・バーチは、実は「人間は死んではじめて真に生きることになる」と教えている。「あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です」とも言っている。そして、「霊界の美しさをあなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる」と嘆く。



    2.私たちは死ぬことができない

  私たちが、肉体に閉じ込められている間は、死後の霊の世界の本当の姿を見ることは出来ないようである。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいかということも、私たちには理解できないらしい。そして、シルバー・バーチは、霊こそ実在で、霊的存在である私たちは、死ぬことはあり得ず、永遠の生命を生き続けるのだと、次のようにも述べている。

  《すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
  死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。
 不滅の個霊としてのあなたは肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現するカがそなわっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして生命と同じく、不滅です。》 (サイキック・プレス編『シルバーバーチは語る』ハート出版、pp.13-14)

 このように、シルバー・バーチは、「あなたは死のうにも死ねないのです」とさえ言い切っている。生命に死はなく、私たちの死は、実は霊界への第二の誕生であるともいう。私たちは肉体から離れて霊界へ移ってからも、立派に意識はあり、自覚も記憶も残っていて、この地上では想像も出来ない美しい世界で生き続けていく、と説く。このような極めて重大な生と死の真実を、シルバー・バーチは、この世で死んで以来、3千年も霊界で生き続けている先駆者として、何度も繰り返して私たちに「証言」し続けてきたのである。



    3.コナン・ドイルの霊界からの通信

 この、霊界の美しさについては、かつて、コナン・ドイルが自分の死後、霊界から、「私は言葉に表わすことができないほど美しい“天の世界” にいます。この現実を地上にいる私の友人たちに伝えることが私の最大の願望です。私がやってきたこの天国がどのようなものであるかを理解して初めて、これを分かち合うのが可能になることも私にはわかっています。このようなわけで、死後の生活についての真実を広く知らせたいという衝動をますます深く感じているのです」と伝えてきたことがある。そして、この後、コナン・ドイルはこう続けた。

 《地球そしてそこに住む人々と本当の接触をすることは、なんと難しいのでしょう。私がかつて想像していたのとはすべてが違うのです。霊的な存在の真実の生活がどのようなものであるかについて、人間はまだ理解しておりません。神に感謝します。今、その真実を覆う霧が晴れ、これまで可能であるとは思われなかったような明確さで見えるようになっています。》(アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル ― 人類へのスーパーメッセージ』、大内博訳、講談社、1994、p.160) 

 コナン・ドイル(Conan Doyle)はいうまでもなくイギリスの推理作家で、あの名探偵シャーロック・ホームズの創作者である。彼は、1859年5月2日にエディンバラに生まれ、エディンバラ大学の医学部で学んだ。1882年にポーツマスで医師を開業したが、患者が少なく暇であったことが、小説の執筆に力を入れるきっかけになったといわれている。
  しかし彼には、もうひとつ、熱心な心霊研究者としての顔があった。晩年には文字通り文筆家としての栄光に満ちた経歴さえ投げ捨てて、数多くの国々へ講演旅行に出かけたり、論文を書いたりして心霊研究の普及のために献身した。彼は1930年7月7日に71才でこの世を去ったが、「死んだ」後も、霊界通信で個性存続の証言を行ってきた。つぎのようにである。

 《何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界で今現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです。人間は死後も生き残るだけでなぐ、すべての生命の背後には普遍的かつ創造的な神の力が働いているということ、そして、人間がこの神の力を認識し、すべての生きとし生けるものとの同胞愛に生きる気持ちになるまでは、人間はけっして永続的な心の安らぎ・幸せ・調和を見いだせないということを証明したいのです。》 (アイヴァン・クック編、前掲書、p.244)



    4.メーテルリンク『青い鳥』に秘められた人間誕生の真実

 コナン・ドイルの霊界からの通信のなかで興味深いのは、人がどのようにして生まれるかについて書かれた彼のメッセージである。これは前稿(「私たちは親と生活環境を選んで生まれてくる」)でも取り上げてきたが、私たちは、人生の計画を立てたうえで、自分の環境を選び、自分で選んだ親の元にこの世に生まれてくる。こういう誕生のありかたについて、コナン・ドイルも、つぎのようにメーテルリンクの『青い鳥』に触れて伝えてきたことがある。(HP:「随想集」No.65「メーテルリンクの『青い鳥』」参照) 

 《こちらの世界から、著名な作家のインスピレーションがどこから来ているのかを見ていると、じつに興味深いものがあります。メーテルリンクの『青い鳥』を思い出します。その本の中に、子供たちが地球に戻るべく名前を呼ばれるのを待ちながら、みんなが集まっている場面があります。
  それぞれの子供は袋を持っていて、その袋には、地球に持ってかえる贈物や知識だけでなく、自分が患うことになる百日咳や狸紅熱といった病気も、きちんと包まれて入っています。子供たちは、星の海を“父なる時”の船に乗って渡り、地球で待っている母親のところに帰ろうとしているのです。
  ただのおとぎ話だと言う人もいるでしょう。しかし、ここには、大変な真実が述べられているのです。それはおそらく、宇宙存在から降りてきたか、作者の自我の前意識のレベルから出てきたものでありましょう。》 (アイヴァン・クック編、前掲書、pp.264-265)

 
コナン・ドイルは自分に与えられた人類に対する使命を自覚して、その生涯を心霊研究に捧げた。この使命のために、彼は自分の得たもののすべてを、富、安逸な生活、世間の承認と名声をも投げ打とうとした。貴族の地位を提供しようという申し出も受けようとはしなかった。この人気のない、たったひとつの信念のためにである。その彼は、生きて心霊研究の真実を説き、「死んで」もなお、このように、霊界から霊的真理を説き続けている。
 彼が1930年に死んで、その遺体が、イギリスのサセックス州のクロゥバラー(Crowborough)に近い自宅の庭に横たえられた時、世界中の彼の作品愛読者、友人、知人らからの美しい花々が特別仕立ての列車で運ばれてきた。それらの花々は広い庭をいっぱいに覆い尽くしたという。
 コナン・ドイルの葬儀は盛大であったが、それは一般的な意味での葬儀とは違っていた。しめった雰囲気とは無縁の、明るく静かな大規模の「ガーデン・パーティ」であった。数多くの参列者は、ほとんど喪服も着てはいなかった。
 彼の良き理解者であったジョン・ディクソン・カー(John Dickson Carr)氏は自分の著書The Life of Sir Arthur Conan Doyle  (『アーサー・コナン・ドイル卿の生涯』)を、次のことばでむすんでいる。「彼の墓碑銘を書くなかれ。彼は死んではいない」



    5.タイタニック号犠牲者の霊界からの通信

 コナン・ドイルは、上述のように、スピリチュアリズムの教宣者でもあったが、「地球そしてそこに住む人々と本当の接触をすることは、なんと難しいのでしょう」と言っていた。これに対して、ジャーナリストであった、タイタニック号犠牲者ウィリアム・ステッド(William T. Stead)の場合は、彼自身が優れた霊能者でもあっただけに、そのようには思っていなかったようである。
 タイタニック号は、処女航海中の1912年4月14日深夜に氷山に衝突し、その際の損傷による浸水が原因となって翌15日未明に沈没した。この沈没事故で犠牲になった乗客の総数約1,500名のうちの一人が、ウィリアム・ステッドであった。彼は、1849年の生まれで、1859年生まれのコナン・ドイルよりは10歳年長である。心霊研究に熱心であったコナン・ドイルのこともよく知っていた。生前のイギリスでは、「当代随一の言論人」といわれていて、1912年遭難の時は、63歳であった。
 タイタニック号の事故のあと、ウィリアム・ステッドが霊界から送ってきた通信を、娘のエステル・ステッドが『ブルー・アイランド』という書名で出版した。 この本のなかで、ウィリアム・ステッドは、遭難後に霊界へ移った時の状況を、「地上時代にスピリチュアリズムとの出会いによって驚くと同時に感動したのと同じように、私は、今度はこちらへ来てみて、地上時代に得た霊的知識が重要な点において百パーセント正確であることを知って、驚き、かつ感動しました。そうと知った時の満足はまた格別でした。学んでいた通りなので、驚きと喜びを同時に感じたものでした」と述懐している。
 この述懐について、コナン・ドイルも、その本の「序文」に、「死の直後の霊界の環境が地上と非常によく似ているという事実を知ることは、人類にとって計り知れない意義がありましょう。死への恐怖を取り払ってくれるのみならず、ご尊父のように突如として他界した場合に、あらかじめそうと知っていれば、戸惑わずに済むわけです。地上時代に間違った信仰を植えつけられていると、意識の切り替えや環境への適応のために、不愉快な体験を余儀なくさせられることになるのです・・・・・」と、寄稿している。ここでは私たちも、ウィリアム・ステッドが、「霊界の状況は、生前地上で学んでいたのと百パーセント同じだった」、と言っていたことに注目しておきない。彼は、このあと、続けてこう述べた。

  《・・・・・何よりも私が驚いたのは、あの混乱状態の中にありながら、他の溺死者の霊を私が救出する側の一人であったことです。私自身も本当は大変な状態にあったはずなのに、他の霊に救いの手を差しのべることができたという、その絶妙の転換は、率直に言ってまったくの驚きでした。その時の事情が事情でしたから、なぜだろう? 何のために? といったことを考える余裕はありませんでした。そんな疑問が顔をのぞかせたのは、少し後のことです。
  落ち着く暇もなく、私をさらに驚かせたのは、とっくの昔に他界したはずの知人・友人が私を迎えてくれたことです。死んだことに気づく最初の原因となったのはそのことでした。そうと知って、どきっとしました。
 次の瞬間、私は、自分で自分を点検しておりました。一瞬のうろたえはありました。が、それはホンの一瞬のことです。すぐに落ち着きを取り戻すと、死後の様子が地上で学んでいた通りであることを知って、何ともいえない嬉しい気持ちになりました。ジャーナリストの癖で、一瞬、今ここに電話があれば! と、どんなに思ったことでしょう。その日の夕刊に特集記事を送ってやりたい気分でした。
  以上が、他界直後の私の意識的反応です。それからその反動ともいうべき変化が生じました。茫然自失の心境になり、やがて地上の我が家のことが気になりはじめました。その時点では、タイタニック号沈没のニュースはまだ入っていなかったはずです。ニュースを聞いたら家族の者はどう思うだろうか。その時の私の心境は、自分はこうして無事生き続けているのに、そのことを知らせてやるための電話が故障して使いものにならないという、じれったさでいっぱいの状態に似ていました。
 そのとき私は沈没の現場に来ておりました。他界後のことを長々と述べてきましたが、時間的にはまだ何分も経っていなかったのです。地球のすぐ近くにいましたから、その現場のシーンがありありと見えるのです。沈没していく船体、ボートで逃げる船客――そのシーンが私を自然と行動に移らせたのです。救ってあげなくては! そう思った次の瞬間には、私は茫然自失の状態から覚めて、水没して肉体から離れていく人たちを手引きする役をしておりました。》 (エステル・ステッド編『ブルーアイランド』、近藤千雄訳、ハート出版、1992、pp.31-34)



    6.犠牲者たちの霊界への旅

  さらにウィリアム・ステッドは、この事故で死亡したあと、どのようにして霊界へ移ってきたか、についても述べている。貴重な証言なので、それもここに引用しておきたい。彼は、霊界からその状況をこう伝えてきた。

  《・・・・・自分でも何が何だかさっぱり分からないのですが、私は必死になって手引きして、大きな乗り物とおぼしきものに案内してあげました。やがて、すべてが終了しました。まるで得体の知れない乗り物が出発するのを待っている感じでした。言わば、悲劇が完了するのを待っていたようなものです。ボートで逃れた者はもちろん生きて救われました。が、溺死した者も相変らず生きているのです。
  そこから妙なことが起こりました。その得体の知れない乗り物――というよりは、われわれが落ち着いた場所全体が、いずことも知れぬ方向へゆっくりと移動を始めたのです。
  そこに集まっている人たちの情景は、それはそれは痛ましいかぎりでした。死んだことに気づいた者は、あとに残した家族のことと、自分はこれからどうなるかが不安のようでした。このまま神の前へ連れて行かれて裁きを受けるのだろうか――どんな裁きが下されるのだろうかと、おびえた表情をしておりました。
  精神的ショックで、茫然としている者もいました。何が起きたのかも分からず、無表情でじっとしています。精神がマヒしているのです。こうして、新しい土地での評決を待つ不思議な一団がそこに集まっておりました。
  事故はほんの数分間の出来事でした。あっという間に大変な数(1,500余名)の乗客が海に投げ出されて溺死し、波間に漂っておりました。が、その死体から脱げ出た霊が次々と宙空へと引き上げられていったのです。生きているのです。中にはすこぶる元気なのもいました。死んだことに気づきながらも、貴重品が惜しくて手に取ろうとするのに、どうしても掴めなくて、かんしゃくを起こしている者もいました。地上で大切にしていたものを失いたくなくて必死になっているのでした。
  もちろん、タイタニック号が氷山と激突した時のシーンはあまりいいものではありませんでしたが、否応なしに肉体から救い出されて戸惑う霊たちの気の毒なシーンは、その比ではありませんでした。胸がしめつけられる思いのする、見るにしのびない光景でした。その霊たちが全て救出されて一つの場所に集められ、用意万端が整ったところで、新しい土地(ブルーアイランド)へ向けて、その場全体が動き出したのです。
  奇妙といえば、こんな奇妙な旅も初めてでした。上空へ向けて垂直に、物凄いスピードで上昇していくのです。まるで巨大なプラットホームの上にいる感じでした。それが強烈な力とスピードで引き上げられていくのですが、少しも不安な気持ちがしないのです。まったく安定しているのです。
  その旅がどのくらいかかったか、又、地球からどれくらいの距離まで飛んだのかは分かりません。が、到着した時の気分の素敵だったこと! うっとうしい空模様の国から、明るく澄み切った空の国へ来たみたいでした。全てが明るく、全てが美しいのです。
  近づきつつある時からその美しさを垣間見ることができましたので、霊的理解力の鋭い人は、たぶん急逝した者が連れて行かれる国なのだろうなどと言っておりました。神経的にまいっている新参者が、精神的なバランスを取り戻すのに適した場所なのです。
  いよいよ到着するころまでには、みんな一種の自信のようなものを抱くようになっておりました。環境のすべてに実体があること、しっくりとした現実感があること。今しがたまで生活していた地上の環境と少しも変らないことを知ったからです。違うのは、全てが地上とは比較にならないくらい明るく美しいことでした。
  しかも、それぞれに、かつて地上で友人だった者、親戚だった者が出迎えてくれました。そして、そこでタイタニック号の犠牲者は別れ別れになり、各自、霊界での生活体験の長い霊に付き添われて、それぞれの道を歩みはじめたのでした。》 (エステル・ステッド編、前掲書、pp.37-39)



    7.94歳の誕生日を迎えて

  生と死の真実や霊界の実相については、シルバー・バーチは、ここで引用してきたような教えを、1920年代から半世紀にわたって説き続けてきた。その霊的真理についての膨大な量の教えに、いま私たちがこのように身近に触れることが出来るというのは、現代の奇跡といっても決して過言ではないであろう。
  その貴重な教えについては、世界中の数多くの霊能力者や心霊研究家たちによっても、傍証されてきた。本稿で取り上げたのは、コナン・ドイルやウィリアム・ステッドの霊界からの通信のほんの一部にすぎないが、このほかにも、私のホームページだけでも「学びの栞」を中心に、本にまとめれば数十冊にもなるであろう数多くの文献や資料が収められている。「求めよ、さらば与えられん」で、誰でも、その気になれば、容易に霊的真理に接することが出来るのである。

  私は、1983年に事件で妻と長男を失ってからは、何年もの間、悲歎に暮れながら無明の闇のなかで苦しんできた。これは何度も書いてきたことだが、その私が、霊的真理に目覚めて生き返ったのは、1991年の春からロンドンに住むようになって、大英心霊協会のアン・ターナーたちからの導きを受けたからであった。(HP:『寸感・雑記』No.21 「私の霊的巡礼の旅」に詳述) いまでは、生と死の真実も私なりに理解しているし、霊界の妻や長男も、長年の文通を経て、霊界で幸せに生きていることをよく知っているから、もうかつてのように悲しみに沈むこともない。
 そして事件の時には53歳であった私は、思いがけないことに、その後41年も生き続けて、今日は、94歳の誕生日を迎えた。89歳の時に、もうそろそろ死ぬ時機だと思い、私自身の葬儀の事前相談もすませ、遺書のつもりで、小冊子「生と死の真実を求めて」を書き遺したのだが、それからも、5年が過ぎている。私自身は、このように長生きすることが必ずしも幸せであるとは思っていないし、これ以上に年齢を重ねていくことへの願望ももっていない。しかし、いずれにせよ、94歳にもなれば、霊界へ還る時機はそう遠くはないはずである。その時機は、神にお任せして、私は、その残り少ない人生を、こころ穏やかに過ごしていきたいと思っている。
  私が長年教えを受けてきたA師からは、かつて、私の死に方について、「亡くなる場所は、***市内の病院の可能性が高いです。安らかに、苦痛は殆どなく、気持ちがふっ切れて、晴れやかに他界していくことでしょう。やっと苦しく充実した人生を終えられるという思いをもって、です」と聞かされたことがあった。そして、A師は、そのあと、こう続けた。

  《霊界では、あなたの大家族のもとに直接迎え入れられることでしょう。厳密にいうと、その前に、一生の疲れをとるような休憩所でしばらく休ませていただけます。それで、ほぼ回復したところで、大家族のもとに迎え入れられ、多くの縁ある者たちと再会することでしょう。この世で十分に生きてきたからです。あの世では、縁のある者たちと共に、こころ満たされて過ごすことでしょう。》 (2013.06.06)



    8.霊界での家族との再会に備えて

  大変有難いことに、霊界へ還った時のこのような家族との再会は、何度も伝えられてきたし、それ以上に、霊界の家族の状況も、私は繰り返し聞かされて、かなり詳しく知っている。上述の私の死に方を予言された翌年には、妻の富子と長男の潔典の消息について、次のように伝えられたこともあった。少し長くなるが、これもここに引用しておきたい。

  《お二人とも元気です。明るく朗らかにしています。霊界とは階層を成している世界です。下の階層ほど重く窮屈で冷たく、怖くて暗いです。一方、上の階層ほど明るく軽快で自由で活き活きして、清々しいです。清らかで綺麗です。生前の生き方と死後移ってからの心がけや過し方如何によって、各自が自分にふさわしい所に引き寄せられ、ちょうど合ったところで収まり、長く居られます。
  潔典さんも奥さんも、明るく健康的で朗らかなので、高い階層の霊界に居ます。そこが自分に合う所だからです。さらに愛と智慧が目安となります。愛と善意に満ち溢れ、他のいのちを思い、助け、また助ける智慧と力が備わっているかどうかで、どの階層に留まるかが決ります。
 潔典さんは優しく繊細で、朗らかで無邪気です。高貴で智慧に富みながら、朗らかで自由でのびのびと過ごしています。最近は自由を楽しみながら、生命の世界、愛と光の世界でのびのび活き活き過しています。富子さんは朗らかに安心して、また誇りも感じながら、背後についています。父親のあなたが霊界に還れば逢うことができます。それまでは二人は、霊界の清らかで清々しくあたたかい光に包まれて、楽しく過しています。二人のなかの、家族と別れて引き離された時の苦しみや葛藤、疑問や不安、悲しみなどはすっかり拭い去られ、あたたかいみ光に包まれて幸せです。
  他界する者よりもこの世に残されたほうに苦しみや悲しみが留まる場合が多いです。あなたもそうでした。それを二人は十分承知しています。あなたにとって試練でした。二人にとっても試練でしたが、その二人は、霊界で前へ前へと進むように促されていきました。あなたのほうはこの世に留められ、苦しみのなかで喘ぎながら働き続け、真理を求めて成長し続けました。あなたは柔らかく謙虚になり、忍耐という得がたい特性を衣のように身に纏い、前世の時の欠点がなくなりました。あなたは作り変えられたのです。
 潔典さんと富子さんは、あの世でそのことをちゃんと見て知っています。それもあって、あの世で二人は安心し、朗らかにしていられるのです。ただ二人だけで楽しんでいるとか、楽であるとか、そういったことでは全くありません。またその二人が朗らかで清々しく感じているのは、また一緒になれる時が近づいていることが予感されているからです。
 このように二人が朗らかでいられるのは、あなたが苦難に遭いながらそのなかで成長を遂げ、前世の欠点が直されたことと、再び逢って一緒になれる時が近づきつつある、この二点からです。あなたが成長を遂げたことをとても二人は嬉しく感じて、ますますあなたのことを尊敬しています。生まれ変わった状態で再会することでしょう。その時を無邪気に二人は待ち望んでいるのです。

 「お父さん、もうすぐ逢えますね。よく一人で耐えましたね。さすがお父さんです、立派でしたね、ますます尊敬しています。こちらに来れば楽になれます。すでにモノの世界で達観視でき、大変な中にあっても生きられるものを身につけたのですから、霊界に来れば解放され、ますます輝きを放ちますよ。そういう状態になって再会できることが嬉しくて有り難く感じています。また一緒に暮らしましょう。今度は天国で。お父さんは十分耐えて、徳を身に纏うようになりました。」―― このように伝えてきています。

  朗らかで無邪気で、活き活きした状態で二人はいるのです。そしてあなたがよく耐えて生き続け、自分たち二人の分まで現世で生き続けたことに感謝しています。あなたなら必ずやってのけることを確信していたからです。神様は先のことまで見通され、あえて家族を引き離してあなたに忍耐と謙虚さを身につけさせ、また霊界の存在を確信させ、必ずやあなたは耐えるだろうし、また愛する家族のため霊界に心を向け、霊界通信を行い、それを世に知らせるだろうと神様は見越して家族を引き離したのです。
 それによってあなたなら、耐えながら、また喘ぎながら前に進み、家族を追い求め、霊界通信をさせて世に残し知らしめて、この世の人間の不信感や傲慢さを正すことを、つまりそのような本当の魂の教育をあなたがしてくれるだろうということを神が見越されて、家族を引き離したのです。あなたより先に、潔典さんと富子さんは霊界に行ってこのことを聞かされて、起きたことの真意を悟ったのです。あなたは霊界通信を通して、このことを徐々に聞かされ、悟るようになっていきました。》 (2014.09.02)

 以上は、A師が入神状態でアカシック・レコード(宇宙の記録庫)を解読しているリーディングの一部である。私は、これと同様の「解読」をこれまで何度も聴かされてきた。
 ここでついでに付け加えておくと、肺がんが進んで、2010年8月22日に亡くなったアン・ターナーからも、その翌年の3月11日に起こった東日本大震災のあと、次のような手紙をもらっている。私の妻と長男は、彼女が、がんの放射線治療を受けていた頃も、何度も霊界から彼女の病床を訪れ、癒しの念を送り続けていたようだが、彼女が亡くなってからは霊界でも会っていたらしい。アン・ターナーは、私への手紙の中で、こう書いている。

  《私たちは縁があって、めぐり合い、共に歩んでまいりました。私はこの縁を大変有難く思っています。こちらに来て、キヨノリとめぐり合い、富子さんともお会いしましたが、思っていた通りの方々でした。素晴らしい方々です。
  私はおふたりに大変お世話になりましたが、これも、ショウゾウ、あなたとの縁が結びつけてくれたものです。さまざまなつながりの中で、人と人が和すること、これこそ日本人が本来もつ素晴らしい資質ですね。
  いま日本は、大震災で大変な時にありますが、あなたのその苦しみの経験から得たものを用いて、多くの人々が目覚める導きができることを、こころから願っています。
  霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ、ショウゾウ――、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしています。どうかお体に気を付けて、それまで、多くの人々を導く活動を続けて下さい。
 そうそう、たまには、トニーにも連絡してあげてくださいね。私は元気でいることをお伝えください。それでは、またお会いしましょう。―― アン・ターナー》 (H.P:『寸感・雑記』No.12「アン・ターナーの霊界からのメッセージ」参照)

  このように、アン・ターナーからも、「あなたがいらっしゃるのを楽しみにしています」と言われている。私が霊界へ還れば、家族たちから歓迎されるほか、アン・ターナーにも再会し、最近亡くなった何人かの親しい友人たちとも久しぶりに逢うことになるであろう。霊界は、いまでは、私にとっては全く未知の異郷ではないのである。それに、私には、今も心に鮮やかに刻み込まれている15歳の瀕死の病床での神秘体験がある。燦然と光り輝きながら私を見守り続けて下さった慈悲そのものの神の深い眼差しを私は忘れることが出来ない。それは、幻覚というようなものでは決してなかった。霊界では、あの時の感動を再確認する機会に恵まれることもあるかもしれないと思ったりしている。(H.P:『寸感・雑記』No.25「天為であった家族別離の試練ー補遺ー」参照)

  現在の私は、気持ちだけは元気だが、94歳にもなって年齢相応に体力が衰えている。足腰も弱って、歩くのにも歩行器が欠かせなくなった。それでも私は、家の近くの停留所からバスに乗って、雨の日以外は毎日のように出歩くのを日課にしている。外では時に身体障害者の配慮をうけることもあるが、90歳台の身体的弱者でなければ味わえない体験をさせてもらっているつもりだから、それで気持ちが滅入ることもない。明るく、感謝のことばを返すことだけを心がけている。
  幸せなことには、視力には問題はなく、眼鏡なしで、新聞、雑誌や本などは、好きなだけ読むことが出来る。図書館から毎週借り出している本も、常に何冊か机の上にあって、退屈することもない。思考力も少しは衰えているかもしれないが、何とか、この程度のホームページの原稿は書けている。いつでも霊界へ還れるようにこころの準備をしながら、いまは、残り少ないはずのこの世の人生で、出来るだけ多くの、学ぶべきことを学び、知るべきことを知って、知識を豊かにし、思考を深め、つぎの霊界での生活に引き継いでいけるようにしたいと、ささやかな願いを持ち続けているところである。